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聖書箇所:ハガイ書1章12~15節(旧約P1609)
タイトル:「聖霊に励まされて」
新年の礼拝で主は私たちに、「仕事に取りかかれ」と語ってくださいました。2:4です。「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。」これが今年の目標聖句です。
いったいどうしたら主の仕事に取りかかることができるのでしょうか。前回は、そのために必要なことを主が語ってくださいました。それは「あなたがたの歩みをよく考えよ」ということでしたね。あなたは自分ことで精一杯になって、神様のことが後回しになっていませんか。もしそうなら実りある人生を送ることはできません。仕事に取りかかることはできません。まず神の国と神の義を第一にしなければなりません。神が望んでおられることは何かを求め、それを最優先にしなければなりません。主はご自身のことを後回しにして自分のことで精一杯になっていた彼らにこう言われました。8節です。「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。──【主】は言われる──」
どうすれば、主はご自身の栄光を現わしてくださるのでしょうか。山に登り、木を運んで来て、宮を建てることによってです。神の宮は自動的に建つわけではありません。そのためには、山に登り、木を切って、それを神の設計図に従って組み立てなければなりません。そうすれば、主はそれを喜び、ご自身の栄光を現わしてくださいます。それは聖霊の宮であるあなたのからだについても言えることです。あなたの人生が建て上げられるためには、あなたが聖書のことばに従って築き上げなければなりません。そうすれば、主はそれを喜び、ご自身の栄光を現わしてくださいます。
きょうはその続きの12~15節から、仕事に取りかかるために必要なもう一つの重要なポイントを見ていきたいと思います。それは主によって私たちの霊が奮い立たせられることによってということです。言い換えるならば、神の霊によって奮い立つことによってです。14節に、「【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。」とあります。
彼らはなぜ主の宮に行き、仕事に取りかかることができたのでしょうか。それは、主が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたからです。それで彼らは16年間も放置されていた神殿再建の仕事に取りかかることができたのです。
それは私たちも同じです。私たちも神の宮を建て上げるために、神の霊に満たされ、その霊によって奮い立たせられ、力が与えられなければならないのです。どうしたら神の霊に満たされるのでしょうか。きょうは、そのことについてお話したいと思います。
Ⅰ.主の御声に聞き従った民(12)
まず、12節をご覧ください。「シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべては、彼らの神、【主】が預言者ハガイを遣わされたとき、彼らの神、【主】の御声と、ハガイのことばに聞き従った。民は【主】の前で恐れた。」
ハガイを通して語られた主のことばに、まず指導者たちが積極的に応答しました。シェアルティエルの子ゼルバベルとは、ユダの総督です。すなわち、政治的指導者です。また、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアは、宗教的指導者です。政治的リーダーと宗教的リーダーが、主によって遣わされた預言者ハガイが語る主のことばに聞き従ったのです。そればかりではありません。民の残りのすべての者も聞き従いました。すばらしいですね。預言書の中で、このように預言者が語ることばに聞き従ったという例はあまり見られません。大抵の場合は、聞き従いませんでした。あのエレミヤにしてもそうでした。彼が神のことばを語っても民はそれに聞き従うどころかそれをことごとく拒絶し、挙句の果てにそれを語ったエレミヤを迫害し、逆に殺そうとしました。だからハガイの場合は珍しいんです。ハガイが主のことばを語ったとき、彼らはそのことばに聞き従いました。どうして彼らは主の御声と、ハガイのことばに聞き従ったのでしょうか。それはハガイを主が遣わされた預言者であると認めたからです。彼が語ることばは主の御声、主からの使信として受け入れたのです。ここに、「主の御声と、ハガイのことばに聞き従った」とあるのはそういう意味です。なぜ彼らはハガイを主が使われた預言者だと認めることかできたのでしょうか。それは彼らが神を恐れていたからです。ここに「民は主の前で恐れた」とあるとおり。本当にあなたが神を恐れているなら、神のことばに従うはずです。もし聞き従わないとしたら、実のところそれは神を恐れていないのです。ほんとうに神を恐れているなら、必ず神のことばに聞き従うはずです。この時ハガイはおそらく80歳を過ぎていたのではないかと思われますが、そんなヨボヨボのじいさんのことばを聞いてどんな意味があるのかと思う人もいたでしょう。あるいは逆に神学校を出た出の牧師が、「皆さん、主はこう言われます」と言っても、そんな若造の言うことを聞いたってしょうがないという人もいるでしょう。私のような無名の牧師が語っても、あれはどこの馬の骨だ?無学の普通の人じゃないか、別に有名な牧師じゃない。そんな牧師が言うことなんて聞くに値しないという人もいるでしょう。皆さんはそんな私を神の召しを受けた牧師として、神の器、受け入れてくださっているので(たぶん)、立派です。それは牧師が偉いからということではなく、それは神を恐れているからです。そしてそういう人は、必ず神の祝福を受けることになります。
あの新約聖書に出てくるテサロニケの教会の人たちがそうでした。パウロはこのテサロニケの教会は愛と信仰と希望に突出しているとほめ、それはマケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったほどだと称賛しました。どうして彼らはそんなにすばらしい信仰を持つことができたのでしょうか。その理由をパウロはこのように述べています。
「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」(1テサロニケ2:13)
それは、彼らはパウロから聞いたことばを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れたからです。その神のことばが信じている彼らのうちに働いたのです。神のことばをどのように受け入れるかが重要です。そんな若い牧師の話なんて聞いたってしょうがないと思ったらそれまでです。そういう態度ではいつまでも実を結ぶことはありません。不毛な人生を生きるだけです。そういう人は1:6で見たとおり、多くの種を蒔いても収穫はわずかです。食べても満ち足りることがありません。飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがありません。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋、穴の開いた財布に入れるようなものです。まさに不毛な人生です。別に牧師が偉いと言っているのではりません。むしろ、牧師は教会の中で最も低い人です。キリストの僕にすぎません。でもその牧師が語ることばをその人のことばとしてではなく神のことばと認め、それを素直に受け止めるなら、そこに神の力が働いて30倍、60倍、100倍の実を結ぶことかできるようにしてくださるのです。
最近私は手のしびれがひどいため、近くの整体院で治療を受けることにしました。整体師の話では、手のしびれの原因は肩甲骨の筋肉が凝り固まっているからですと、行くと肩や背中の筋肉を緩めてその中を通る神経が通りやすいようにほぐしてくれます。ああ来待良かった、これで治るなあと思ったら、ここでやるだけでは改善されないので、家でやってほしいことがありますと、宿題が出されるのです。毎回です。まず何をするかを教えてもらい、次に写真付きの、言わば取り扱い説明書のような用紙を渡されて、これを1日3回、朝、昼、夜と、30秒ずつ3セットやってくださいと言われるのです。宿題です。もしそれを続けるなら少しずつ改善していきますが、それをしないとたとえここでどんなに施術を受けても改善につながりません。それを聞きながら、あ、これは信仰も同じだなあと思いました。週に1回教会に来て説教を聞いても、それを実践しなければ何の意味もありません。素直に聞いて受け入れ、実行するなら効果があります。豊かな実を結ぶのです。
それで私は真面目な人間ですから、整体師が言われるとおり1日3回、朝、昼、晩と1日3回3セットやっていたら、少しずつ改善してきました。時には相撲を見ながら、時にはニュースを見ながら、仕事と仕事の合間に、楽しいですよ。肩甲骨の辺りがかなり柔らかくなってきました。しかし、毎回宿題を出されるうちにやることが多くなって最近サボるようになってきたんですね。そんなにたくさん覚えられません。そしたら少しずつ硬くなってきました。だからただ聞いて従うというだけでなく、忍耐をもってそれを継続することが大事なんだなぁということも教えられています。
いずれにせよ、大切なのは主のみことばを聞いたら、それを素直に受け入れ実行することです。ただ聞くだけではいけません。そういう人はヤコブの手紙にもあるように、自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、みことばを聞いてそこから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。そういう人は、その行いによって祝福されます。それがたとえヨボヨボのじいさんが語ったとしても、何の経験もない若造が語ったとしてもです。それがどのような牧師であれ、神が建ててくださった牧師で、神のことばを語るなら、神が遣わされた神の人として受け入れ、そのことばに聞き従わなければなりません。勿論、それが神のことばかどうかは十分吟味されなければなりませんが、もしそれがほんとうに神のことばを預かって語っているのなら、素直に受け入れそれに聞き従わなければなりません。そうするなら、あなたもその行いによって祝福されるのです。イエス様を信じて洗礼を受け、教会員になったから祝福されるということは決してありません。みことばを聞いてそこから離れない人、すぐに忘れる聞き手ではなく、それを行う、それに聞き従うなら、必ず神の人へと変えられていくのです。
Ⅱ.わたしはあなたとともにいる(13)
さて、ハガイのことばに聞き従った民に対して、主はどのように応答されたでしょうか。13節をご覧ください。「【主】の使者ハガイは【主】の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる──【主】のことば。」」
主のことばを聞いて、そのことばに積極的に応答した民に対して、主もまた積極的に応答されました。ハガイはここで主の使者と呼ばれています。主の使信を伝える主の使いであるハガイに、主はこのように言われました。「わたしは、あなたがたとともにいる」。患難と恐れの中にあった民にとって、この約束ほど励ましになるものはなかったでしょう。主がともにおられるなら、私たちは何も恐れることはありません。廃墟となったエルサレムでも宮を建て直すことができます。反対者たちがいる中で、それに打ち勝ことができるのです。問題が山積みでも、必ずそれを乗り越えることができます。なぜなら、主は全能者だからです。万軍の主です。この方にとっておできにならないことは一つもありません。万軍の主なる神はどんなことでもできるのです。アーメン。この方がともにおられるなら、5つのパンと2匹の魚で、男だけで五千人の空腹を満たすことができます。主がともにおられるなら、小さなお弁当でも溢れるばかりの祝福に変えられるのです。私たちの思いや願いをはるかに超えて、施してくださるからです。何とすばらしいことでしょうか。主がともにおられることが、私たちにとっての最高の祝福なのです。
それは、新年礼拝で語られた2:4でも約束されていたことでした。廃墟となったエルサレムの神殿を見たとき、彼らは落胆しました。かつてそこにあったソロモンによって建てられた神殿と比べたら、あまにもみすぼらしいものだったからです。それを見たことがない人たちは感無量でしたが、かつてのソロモンの神殿を見たことのあるご老人たちは、がっかりして嘆きました。まるで無に等しいじゃないかって。そんな彼らに対して語られたことはこうでした。「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。」(2:4)なぜですか?「わたしがあなたとともにいるからだ。」
ここで主は嘆き悲しんでいたユダの民に、「強くあれ」「強くあれ」「強くあれ」と3回も繰り返して励ましました。わたしがあなたがたとともにいるじゃないかと。それが私たちのすべてです。主がともにおられるなら、何も恐れることはありません。主がそれをなさってくださるからです。私たちが求めなければならないのは、自分たちに何ができるかということではなく、主がともにおられることです。それは神殿再建だけでなく、私たちの人生のすべてにおいて言えることなのです。
最近、私はあるエッセイに触れて涙しました。まだ若いといえば若いですが、少しずつ歳を重ねるごとに、体力がなくなり、以前のように体が動かなくなって、このままいったらどうなるんだろうと不安に思っていたとき、この詩に触れました。これはヘルマン・ホイヴェルスという人が書いた「人生の秋に」という本の中ある「最上のわざ」という詩です。
「最上のわざ」
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。
けれども最後まで手を合わせること(合掌)できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。
*『人生の秋に』 ヘルマン・ホイヴェルス著より
皆さん、年をとっても何もできないのではありません。神は最後にいちばんよい仕事を残してくださいます。それは祈りです。何もできなくても、最後まで手を合わせることはできます。愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。そして、すべてを成し終えたとき、臨終の床で、神の声を聞くのです。「来よ。わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。何という慰めでしょうか。どんなにヨボヨボになっても、何もできなくなっても、主は私たちを見捨てることはなさいません。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」(イザヤ46:4)とイザヤ書にある通りです。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われた主は、私たちが強くあるように助けてくださるのです。何とすばらしい約束でしょうか。あなたが主の御声を聞いて、それに聞き従うなら、あなたもこの御声を聞くことができるのです。
Ⅲ.仕事に取りかかった民(14-15)
最後に、その御声を聞いた民はどうなったのかを見て終わりたいと思います。14節と15節をご覧ください。「1:14 【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。1:15 それは第六の月の二十四日のことであった。ダレイオス王の第二年、」
主のことばに聞き従い、主がともにいてくださるという約束を受けた民は、主によってその霊が奮い立たせられたので、主の宮に行き、仕事に取りかかることができました。それは第六の月の二十四日のことです。それはダレイオス王の第二年、B.C.520年です。1節を見ると、預言者ハガイが主のことばを語ったのは、ダレイオス王の第二年、第六の月の一日ですから、彼らが実際に仕事に取りかかったのは、それからわずか23日後であったことがわかります。16年間も放置していた再建工事に、わずか23日間で再び取りかかることができたのです。いったいどうして彼らは再び工事に取り掛かることができたのでしょうか。それはハガイによって語られた神のメッセージによって、彼らの霊が奮い立たせられたからです。このような例は、旧約聖書の中にはなかなか見られません。多くの場合は、のらりくらり、うまいこと言い訳しながら、最後は反抗的になり、逆切れして、預言者を弾圧したり、迫害したりしました。中には殺された人もいます。でもハガイの場合はそうではありませんでした。預言者ハガイが言うことを聞いた民は、主の御声と、ハガイのことばに聞き従ったのです。その結果、彼らは神の霊、聖霊に満たれ、その霊が奮い立たせられたので、仕事に取りかかることができたのです。実に、彼らが仕事に取りかかることができたのは、その霊が奮い立たせられたからです。それは、彼らがハガイを通して語られた主のことばに聞き従ったからです。
このことから言えることはどういうことかというと、聖霊に満たされることは、主のみことば満たされることであるということです。もしあなたが聖霊に満たされたいと願うなら、主のことばに満たされなければなりません。主のことばに満たされて、それに聞き従わなければなりません。ただ聞くだけであってはなりません。聞いて、それを行わなければならないのです。そうすれば、あなたの霊は奮い立たせられ、主の仕事に取りかかることかできます。この順序が大切です。仕事をすれば奮い立つのではありません。主のことばに聞き従うなら主によって霊が奮い立たせられ、仕事に取りかかることができるのです。
なぜあなたは弱いのでしょうか。なぜ倒れたままになっているんですか。それは主のみことばに聞き従っていないからです。主のみことばではなく、自分の思いや感情にいつまでもぶらさがっているからです。自分の感情に支配されている限り、いつまで経っても御霊に満たされることはできません。自分感情がどうであれ主のみことばに従うなら、あなたは神の霊に満たされ、励まされて、仕事に取りかかることができます。すべての必要も満たされます。
エズラ記5~6章を見ると、これはハガイ書と並行記事になっていますが、そこには神殿再建のためのすべての必要が満たされていったことが記されてあります。必要な資材、資金、何もかも満たされました。なぜなら、そこに神の目が注がれていたからです。エズラ記にそう書かれてあります。それはハガイ書で言う「わたしは、あなたがたとともにいる」ということです。同じことです。このような必要が満たされたのは、すべて神がともにおられたからです。このような奇跡が行われたのも、そこに神の目が注がれていたからです。だから神がともにおられるなら、どんなことでもできるのです。神が私たちの思いや願いをはるかに超えて豊かに施してくださいます。だから、私たちも主のみことばに聞き従いましょう。そして聖霊によってその霊を奮い立たせられましょう。そうするなら、彼らが23日で神殿再建に取りかかることができたように、私たちも神の仕事に取りかかることができます。私たちに必要なのは、そのような聖霊の励ましなのです。
使徒の働き9:31に、「こうして、教会は…主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け…」とあります。初代教会はどのようにして立てられていったのでしょうか。「聖霊に励まされて」です。主の教会は、聖霊に励まされて前進し続けることができました。
それは今も同じです。主の教会は聖霊に満たされ、その霊が奮い立たせられた人たちによって建て上げられ前進していくのです。私たちにも、そのような聖霊の励ましが必要です。聖霊に励まされて、私たちも今年、前進し続けようではありませんか。