聖書箇所:エレミヤ書44章15~30節(旧約P1374、エレミヤ書講解説教75回目)
タイトル:「エレミヤの最後の預言」
今日は、エレミヤ書44章後半からお話します。これはエレミヤがユダの民に語った最後の預言、最後のメッセージです。最後のメッセージということは、とても重要なメッセージであるということです。そうでしょ、皆さんも最後に何かを語るとしたら本当に大切なことを語るのではないでしょうか。皆さんが最後に家族に言うことがあるとしたら何を伝えますか。昨日は、本当にいい天気だったね、なんて言わないと思います。イエス様が最後に語ったことばはマタイ28章18~20節にありますが、それは、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい、ということでした。大宣教命令ですね。これが、イエス様が最後に弟子たちに言われたことです。ですから、あらゆる国の人々を弟子とすることが救われたクリスチャンにとってとても重要であることがわかります。ではエレミヤを通して主が語られた最後のメッセージはどんなことだったのでしょうか。
Ⅰ.それって、本当ですか?(15-19)
まず、15~19節をご覧ください。「44:15 そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。44:16 「あなたが【主】の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。44:18 だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」44:19 「私たち女が、天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、夫をなおざりにしてのことだったでしょうか。」
「そのとき」とは、その前の13節までのことが語られた時のことです。それはユダの町々とエルサレムが滅ぼされたのは、彼らの先祖たちが神に背きほかの神々のところに行って、犠牲を供えて仕えたからだ、ということでした。彼らは心砕かれず、神を恐れず、神から与えられた律法と掟に歩みませんでした。それなのになぜ、あなたがたは同じことをするのか。それで主はエジプトに下って行ったユダの民を絶ち滅ぼすと宣言されました。「そのとき」です。
そのとき、自分の妻たちがほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民が、エレミヤにこう言いました。16節です。
「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」
この時、エレミヤの預言に従おうとしなかったのは、ユダの指導的な立場にあった人たちだけではありません。エジプトに移り住んだすべての民です。
エレミヤは、かつて「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(17:9)と言いましたが、この時の彼らの態度は、まさにそれを証明していました。彼らはかつて、自分たちも父祖たちも、自分たちの王も首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲(いけにえ)をささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたいと言ったのです。なぜでしょうか?17節と18節で彼らはこのように言っています。
「私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」
えっ、それって本当ですか?ウソです。それは事実ではありません。実際は逆です。彼らがその身にわざわいを招くようになったのは、彼らが彼らの神、主の警告を無視して天の女王に犠牲を供えて仕えたからです。この「天の女王」については、すでに7章18節に出てきましたが、古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていた神々のことです。たとえば、カナンではアシュタロテ、バビロンではイシュタル、ギリシャではアフロデテ、ローマではビーナスなどです。彼らはそうした偶像に仕えていたから自分たちはわざわいに遭わなかったと言っていますが、実際にはそうではなく、主が彼らをあわれんでおられたからです。彼らはそのことに全く気付いていませんでした。つまり、彼らの過去に対する認識とか歴史観というのは、一時的な現象だけを見て判断する、いわゆるこの世のご利益信仰そのものだったのです。物事がうまくいっているときはハレルヤと主をほめたたえても、そうでないといとも簡単に神様を捨て去ったのです。このような自分の欲望を満たすことを基準にした信仰は、過去の事実さえも歪めてしまうことになるのです。
出エジプトしたイスラエルの民もそうでしたね。彼らは、エジプトを出て荒野に導かれたとき、モーセとアロンに向かって不平を言いました。
「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)
それって、本当ですか?エジプトにいた時、彼らは本当に幸せだったのでしょうか。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていましたか。違います。彼らは奴隷として酷い仕打ちを受けていました。それなのに彼らは、そのことをすっかり忘れていたのです。なぜでしょうか?彼らは自分の欲望を満たすものを神だと思い込んでいたからです。
それは私たちにも問われていることです。私たちも信仰をそのように捉えていると、目の前に試練や苦難が起こると、神様を信じていなかった時の方が良かったと、以前の生活に逆戻りしてしまうことが起こります。でも、それって本当ですか?違います。15、16、17と私の人生暗かった・・・ではないですが、イエス様に出会う前は、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であり、この世の流れに従い、悪魔の権威を持つ支配者の霊に従って歩んでいました。その結果、自分の肉の欲と心の望むままに生き、神の怒りを受けるべき子らでした。それは本当に空しい人生でした。しかし、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過と罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。ハレルヤ!それなのに、神様を信じる前の方が良かった、この世の神、天の女王にささげものを捧げていた時の方が幸せだったと主張するのは正しくありません。
私はチューリップというバンドが好きでよくCDを聴くのですが、その中に「夏の終わり」という歌があります。
「夏は冬にあこがれて、冬は夏に帰りたい。
あの頃のこと今では すてきにみえる。」
まさに、ないものねだりの子守歌ですね。夏になると冬にあこがれ、冬になると夏がすてきに見えます。でも実際は、夏は夏で厳しい暑さに苦しみ、冬は冬で凍てつくような寒さに苦しむのです。でも、暑いと冬はいいなぁと感じ、寒いと夏がいいなあと思うのは、その現象だけを見て判断するからです。でも、神によって救われた恵みを基準にして進む人は違います。そういう人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができる。今、自分に降りかかっている災難と思えるようなことさえも、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じているからです。
ですから、自分の感情や気分といったものを当てにしないで信じることです。そういうものは体の調子や周囲の事情、さては天候によっても左右されるものだからです。しかし私たちの信仰はけっして人間の側の何かによってもたらされるものではなく、神様の言葉によって保証されるものです。ですから、真実な神の約束である聖書の御言葉を信じる時、そこに神が約束されていることを知ることによって、揺れ動くことのない確かな信仰の土台を築くことができるのです。
あなたは自分が置かれている状況を、どのように理解していますか。神様の視点から解釈しているでしょうか。自己中心的な解釈は神の語りかけを締め出し、祝福の機会を失うという結果をもたらすのです。
Ⅱ.神のさばきの宣言(20-28)
そんな考え方をしていた彼らに、エレミヤは何と言いましたか。20~28節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「44:20 そこでエレミヤは、そのすべての者、すなわち、男たちと女たち、また彼に口答えした者たち全員に言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムの通りで、あなたがたや、あなたがたの先祖、王たち、首長たち、また民衆が犠牲を供えたことを、【主】が覚えず、心に上らせなかったことがあるだろうか。44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌み嫌うべきことのために、もう耐えることができず、それであなたがたの地は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖のもと、ののしりの的となったのだ。44:23 あなたがたが犠牲を供えたため、また、【主】の前に罪ある者となって、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と掟と証しに歩まなかったために、今日のように、あなたがたにこのわざわいが起こったのだ。」」
天の女王礼拝を主張する彼らに、エレミヤは正しい認識を示します。つまり、ユダの町々やエルサレムにわざわいが下ったのは、彼らが天の女王を拝むことを止めたからではなく、彼らが主の律法を無視して、預言者たちの警告を退けたからだと。それで、主は彼らの不信仰と偶像礼拝に耐えられなくなられたのです。
そんなエレミヤのメッセージに耳を傾ける者など一人もいなかったでしょう。それでもなお、エレミヤは、すべての民、すべての女たちに真実を語り続けます。それが24~28節の内容です。これがエレミヤの最後のメッセージとなります。それは以下の4つのことでした。
まず25節をご覧ください。ここには、「『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束し、自分の手で果たしてきた。あなたがたは、天の女王に犠牲を供えて彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐという誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かなものとし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』」とあります。
ここには、あなたがたが天の女王に誓った誓願を必ず果たせ、とあります。これは皮肉的な勧めです。その語調には、挑戦とも、あきらめともとれるようなニュアンスが見られます。
二つ目のことは、26節です。「それゆえ、エジプトの地に住むすべてのユダの人々よ、【主】のことばを聞け。『見よ、わたしはわたしの大いなる名によって誓う──【主】は言われる──。エジプトの全土において、「【神】である主は生きておられる」と、わたしの名がユダの人々の口に上ることはもうなくなる。」
これは、彼らが主に立ち返って赦されることは二度とないということです。決定的なさばきの宣告です。主はどんな罪でも赦してくださいます。しかし、悔い改めなければ、赦したくても赦すことはできません。
そして第三のことは、27節にあります。「見よ、わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの地にいるすべてのユダの人々は、剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せる。」
どういうことですか?エジプトにいるすべてのユダヤ人は、不信仰のゆえに剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せるということです。
しかし28節を見ると、もう一つのことが記されてあります。それは、「剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」ということです。これはイスラエルの残りの者たちのことです。どの預言者も、神のさばきを逃れる少数の者たちがいることを預言しています。神にあっては、絶望的な状況の中にも希望があります。ですから、悔い改めができなくなるほどまでに、罪に染まり切ってはなりません。主にあっては、必ず希望があるからです。その希望を見上げて救いの道を歩ませていただこうではありませんか。
Ⅲ.神のことばは必ず成就する(29-30)
最後にエレミヤは、神からのしるしを彼らに伝えます。これがエレミヤの最後のメッセージの最後です。これが主がエレミヤを通して心から伝えたかったことです。29~30節をご覧ください。「44:29 これが、あなたがたへのしるしである──【主】のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』44:30 【主】はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」」
これが、彼らに対するしるしです。すなわち、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されたように、エジプトの王ファラオ・ホフラも彼のいのちをねらう敵の手に渡されるというのです。これがしるしです。このしるしは、エジプトで主が彼らを罰するという主のことばが必ず成就することのしるしですが、この預言の通り、この預言から18年後にバビロンがエジプトに侵入し、エジプトの王ファラオ・ホラフは、将軍アマシスの謀反によって殺されることになります。B.C.565年のことです。主のことばは必ず成就するのです。
エレミヤは、すべての者たちから見捨てられても、なおも、神のことばに絶対的な信頼を寄せていました。エレミヤは、おそらく自分に言い聞かせるような思いで、これが、あなたがたへのしるしであると告げたのでしょう。イエス様はこう言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31)
天地は滅び去ります。しかし、主のことばは決して滅び去ることはありません。たとえ天地が滅び去り、すべてが無くなったとしても、主のことばは決して滅びることはないのです。必ず成就します。これこそ、私たちにとって最高の慰めではないでしょうか。
預言者イザヤは、こう言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7-8)
すべての人は草のようです。その栄光は花のようです。それはすぐに枯れてしまい、しぼんでしまいます。朝に生え出でて栄えたかと思ったら、夕べにはしおれてしまいます。人はみなこの草や花のようなのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って自分の顔を鏡でよく見てください。いつの間にか白髪が増えたなぁと気が付くでしょう。しみやしわが増えたことがわかります。あんなに若々しかったのに、いつの間にか老けてしまいました。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきました。あんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせて、しぼんでしまいました。だれだれは大学を出て教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、その人生は70年か80年で終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。人生はあっという間に過ぎ去ります。本当に空しいです。ソロモンはこれを「空の空。すべては空」と言いました。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。
祗園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘(かね)の声(こえ)、諸行無常(むじょう)の響きあり。
娑(さ)羅(ら)双樹(そうじゅ)の花の色、 盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)の理(ことわり)をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、唯(ただ)春(はる)の夜の夢のごとし。
たけき者(もの)も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。
祇園精舎の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがあります。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるということを表しています。どんなにこの世で栄えても、その栄えはずっとは続きません。まさに春の夜の夢のようです。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じなのです。そう詠いました。人間は、実に虚しい存在なのです。
こんなこと言われても全然慰めになりません。そうです、この世には、真の慰めはないのです。ですから、この現実をしっかりと見つめ、それを額面通り受け止めるなら、それが慰めになります。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれませんし、決して受け入れたくないでしょう。でも、これが事実なのです。事実を事実として受け止められるなら慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだと。いつまでも咲き誇っているわけではない。いつかしぼんでいきます。やがて死んでいくのです。それは明日かもしれない。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれません。人生はそんなに長くないのです。草花のようにすぐにしぼんでいく者でしかありません。その事実を受け入れその先にあるものを希望として生きていくなら、慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、人は慰めを受けるのです。
多くの人たちは草や花であるのに、いつまでもゴージャスな花を咲かせようと躍起になっています。健康を保とうと、美しさを保とうとあれこれやるのはいいですが、やりすぎて疲れ果てているのです。しかし、このことを受け止めることができれば、もうこの世の一時的なことのために躍起にならなくてもよくなります。そんなに時間やお金や労力をかけなくてもいいのです。もちろん、健康を管理することは大切なことですが、そうした目に見えるものばかりに気がとらわれ、まるでそこにすべてのものがあるかのように思い込んでいると、慰められなくなってしまいます。
詩篇102篇25~28節にはこうあります。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」
この地上のものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美しさも、失われる時がやってきます。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生をかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないからです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。この方に信頼すれば慰めを得られるのです。
主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
これこそ慰めではないでしょうか。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなっても、神は約束を違(たが)えることはなさいません。その語られたことばの通りに、あなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはありません。
パウロはこう言いました。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちの魂は天の御国で永遠に生き続けます。しかも先週はイースター礼拝でフレミング先生から、私たちはやがて栄光のからだに復活するということが語られましたが、イエス・キリストが再び来られる時、永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえり、いつまでも主とともにいるようになるのです。ここに希望があります。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられているのです。その御霊によって私たちは、やがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができます。主はそのために初穂としてよみがえられました。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして、目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わることのない神のことば、聖書のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいのです。これが真の慰めのメッセージです。これが、主がエレミヤを通してユダの民に伝えたかった最後のメッセージだったのです。