模範となった教会 Iテサロニケ1章4~10節

聖書箇所:Iテサロニケ1章4~10節
タイトル:「模範となった教会」

 きょうは、テサロニケ人への手紙第一1章4節から10節までのところから「模範となった教会」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは7節のみことばかり取りました。「その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったのです。」このテサロニケの教会は、パウロが第二回目の伝道旅行の時に設立された教会です。前回お話ししたように、パウロはこのテサロニケで3回の安息日にわたって伝道しました。3回の安息日にわたってとは、3週間にわたってということです。そこではユダヤ人たちからの激しい迫害があったので、パウロたちは次の伝道地(ベレヤ)に行かなければなりませんでした。しかし、パウロたちが気がかりだったのはテサロニケのクリスチャンたちの信仰でした。そうした激しい迫害の中で、どうなってしまっただろうか、中には離れてしまった人がいるのではないか。もしかしたら、根こそぎにされているかもしれない。そうした不安の中でアテネから弟子のテモテをテサロニケに遣わしたのです。

 すると、パウロたちは既に次の伝道地のコリントにいましたが、テモテが戻って来て彼らの様子を報告しました。それによると、彼らはそうした激しい迫害の中でも信仰に堅く立っているというだけでなく、パウロたちと再会することを心待ちにしているということでした。パウロはそれを聞いてとても喜び、彼らはマケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったと絶賛したのです。彼らはどのような点で信者の模範となったのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。

 Ⅰ.私たちの福音(4-5)

 まず4節と5節をご覧ください。4節には「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」とあります。
 パウロはテサロニケの人たちが神に選ばれた者たちであることを確信していました。聖書には、神が、予めだれを救いに選んでおられる、という真理があります。このようなことを話すと、「それでは、人が滅びるように神は定めておられるのか。」とか、「私は神から選ばれていないのか。」という人たちがいますが、そういうことではありません。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。その神の救いであるイエス・キリストを自分の救い主として認めて、信じているかどうかです。信じているなら、選ばれていますし、信じようとしないなら、もしかしたら選ばれていないのかもしれません。けれども、救いはすべての人に用意されています。ただ自分が、イエスさまを救い主として受け入れればよいのです。

 この神の選びについて考えるとき、大事なのは、パウロがここで言っているように、「神に愛されている」という確信です。あなたは神に愛されているという確信があるでしょうか。私たちが救われたのは、私たちが何か神に愛されることを行なったからではありません。ただ神が愛してくださったからです。私たちはむしろ神に憎まれて当然の者でした。神を神とも思わず、自分勝手に生きていたからのですから。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。ですから、この神の選びについて考えるとき、私たちは神に選ばれているのか、いないのか、ということではなく、この神の愛と恵みについて考えなければなりません。

 5節をご覧ください。ここには「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。」とあります。なぜ彼らは福音を信じたのでしょうか。なぜなら、パウロが語った福音は、ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信が伴っていたからです。これが福音です。コリント人への手紙には、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)」とあります。また、「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(2:4)」ともあります。
福音はただのことばではありません。福音は神の力なのです。パウロが伝えた福音のはただのことばではなく、そこに力と聖霊と強い確信が伴っていました。これはしるしや奇跡といった神の不思議な御業が伴ったというだけでなく、彼らの生き様を通して福音が力強く証しされていたということです。「あの人はどこか違うなあ。本当にいい人だ。ただのいい人を越えて、何か神の力を感じる」といった感じです。それはここに、「私たちの福音」とあるからです。「私たちの福音」とは何でしょうか。それは、私たちが所有している福音のことです。福音が自分たちのものになっているということです。ただ私たちが信じているというだけでなく、それがすっかり板についているという感じです。すなわち、彼らはこの福音に生き、福音に立って歩んでいたのです。そこにはものすごい聖霊の力が溢れていました。その福音がテサロニケの人たちに伝えられたのです。

 先週、C-BTEⅡの中で、教会の使命に参加するという学びがありましたが、その中で福音を飾る生き方の大切さについて学びました。すなわち、効果的な証を続けて行く基盤は、教会でも家庭でも、社会でも、イエス・キリストの福音を飾るにふさわしい生き方をするということです。それがここでパウロが言っている「私たちの福音」です。それは、ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信が伴って届けられる福音なのです。あなたはどうですか。「私の福音」になっているでしょうか。確かに福音によって救われましたが、私の福音と言えるまでにはなっていないかもしれません。この福音が「私の福音」と言えるまで福音にしっかりととどまり、福音に生きる者でありたいと思います。そこに力と聖霊と強い確信が伴うようになるからです。

 Ⅱ.聖霊による喜び(6)

 次に6節をご覧ください。ここには「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」とあります。

 福音は力と聖霊と強い確信を伴ってテサロニケの人たちにもたらされましたが、一方、テサロニケの人たちはそれをどのように受け止めたでしょうか。ここには「あなたがたもまた多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」とあります。
テサロニケの人たちも、パウロたちと同じように、激しい迫害に遭っていました。使徒の働き17章を見ると、ユダや人たちはヤソンという人の家を襲い、その兄弟たちを捕らえると役人たちのところに引っ張って行き、カイザルにそむいているという告発をしました。そしてやヤソンから保証金を取ったうえで釈放したのです。このような苦難の中にいたのにも関わらず、彼らは喜んでみことばを受け入れ、主に倣う者になりました。なぜなら、それは聖霊によるものだったからです。

聖書が語っている「喜び」は、普段、一般に語られている喜びとは異なります。回りの状況が良ければ、私たち人間は喜び、悪くなれば不満になったり、不安に陥ります。しかし、聖書では、どのような状況のときにも喜べる力が与えられる、と教えています。 どうしてそのように喜べるかと言いますと、クリスチャンは信仰によって、目に見える世界だけではなく、目に見えない世界も見ているからです。使徒ペテロは、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)と言いました。神が、キリストの血によって私たちの罪を赦してくださったこと。永遠のいのちを賜ってくださったこと。神の国を相続していること。神の子どもとされていること、など、これらはみな、目に見えません。けれども、聖霊がこれらの真理を私たちに啓示してくださるので、信仰によって見ることができるのです。

 先週、大田原教会のケビン兄が膀胱がんで入院し手術を受けられました。これが2回目です。1回目は今から19年前に大腸がんを患いました。その時は100回くらいがんの悪夢に悩まされたと言います。しかし、今回は違います。医師からのがんの告知も冷静に受け止めることができ、すべてを主にゆだねることができました。むしろ、奥様の方が自分の責任ではないかと自分を責めて苦しんでいらっしゃいました。それで入院される2日前にお二人で教会に来て、お祈りの時を持ちました。ピリピ4章6~7節のみことばを読んで祈りました。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
 すると、奥様にも平安が与えられ、すべてを神様にゆだねることにしました。家にはケビンさんの机の上にも奥様の机の上にもこのみことばが置かれました。そして、主はこの御言葉の約束の通りにケビンさんの手術を守ってくださり、金曜日には退院できるようにしてくださいました。月曜日に手術をして金曜日に退院ですよ。早いですね。しかし、どれだけ早く退院できかというよりも、その間ずっとご夫妻に平安が与えられたことが感謝です。本当に不思議です。それは信仰の結果なのです。たましいの救いを得ているからのです。目に見えませんが、この方を信じたことですべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられたことを信じ、すべてをゆだねて祈るとき、人知をはるかに超えた神の平安に包まれるのです。テサロニケの人たちは、この聖霊による喜びをもっていました。聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主に倣う者になったのです。

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じた結果、この聖霊が与えられました。ですから、この聖霊によって、どんな苦難の中にあっても、聖霊よる喜びをもってみことばを受け入れ、主に倣う者になることができるのです。

Ⅲ.模範となった教会(7-10)

第三のことは、その結果です。聖霊によって伝えられ、聖霊の喜びをもって受け入れられた福音は、いったいどのようになったでしょうか。7節と8節をご覧ください。「その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。 主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。」

 すばらしいほめ言葉です。激しい迫害の中、パウロ一行はこのテサロニケの町にわずか1か月くらいしか滞在することができませんでしたが、テサロニケのクリスチャンたちはそうした多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主倣う者になりました。それを聞いたときパウロは、どれほどうれしかったことでしょう。その喜びが8節でこのように表現されています。
「主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。」
この「響き渡った」ということばは、ラッパの響きが広がっていく様を表しています。彼らの信仰はマケドニアとアカヤ地方だけでなく、すべての信者の模範となって響き渡りました。そればかりか、このことばは完了形になっています。つまり、ずっと響き渡り続けていたということです。一時的に響いただけではなく、ずっと響き続け、広がり続けていったのです。もう何を言う必要がないほどでした。これほどのほめことばはありません。何も言う必要がないほどの信仰です。

私たちのそうなりたいですね。私たちの信仰がこの那須町だけでなく栃木県の全域に、いや全国に、全世界に響き渡り、多くのクリスチャンを励ましていくような、そんな教会になりたらどんなにすばらしいことでしょうか。絶対にそうなります。なぜなら、これは御霊なる主の働きによるものだからです。私たちの力では主に倣う者になることはできませんが、御霊なる主にはできます。御霊なる主は私たちを、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、この御霊により頼むなら、かつてテサロニケで起こったことが、この教会にも起こると信じます。かつて中国の教会がそうであったように、日本の教会も、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れるなら、あらゆる所に響き渡るようになるのです。

そのためにはどうしたらいいのでしょうか。二つのことがあります。一つは、9節にありますが、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えることです。「人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」
パウロの宣教のことばが、神のことばとして彼らに受け入れられると、彼らは偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになりました。回心にはこの二つのことが必要です。つまり離れることと、向かうことです。彼らは偶像から離れ、神に向かいました。このテサロニケには多くの偶像がありました。テサロニケの町からはギリシャの神々オリンポスの山を眺めることができたと言われています。そこにはギリシャ神話の神々を信奉しているたくさんの人たちがいました。それはパウロがギリシャ文化の中心地アテネを訪れた時、そこにあったおびただしい数の偶像を見て怒りを感じたことからもわかります。同じギリシャの地方都市であったこのテサロニケにも相当の偶像があり、それに支配されていました。しかし彼らはパウロを通して語られた神のことばを受け入れたとき、そうした偶像から離れ、生けるまことの神に仕えるようになりました。この「偶像から」の「から」は、偶像からの明確な分離を示しています。中途半端な決別ではありません。明確な方向転換です。180度変わったのです。

それは単に木や石できた偶像ばかりではなく、私たちの心の中で作り上げているものもそうです。神以外のものを神よりも大切にするものがあるとしたら、それはその人にとって偶像なのです。クリスチャンもこうした偶像礼拝に陥っていることがあります。それが何であったとしても、テサロニケのクリスチャンたちが偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったように、私たちもそうした偶像と明確に分離し、生けるまことの神を第一にして、心から神に仕える者でなければなりません。あなたにとっての偶像とは何でしょうか。

それから、もうひとつのことは10節にあるように、主の再臨を待ち望むということです。「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」

これはどういうことかというと、テサロニケの人たちは、キリストの再臨を待ち望んでいたということです。この「待ち望む」ということばは、赤ちゃんが生まれる時、両親がわくわくしながらそれを待望する姿に似ています。赤ちゃんが生まれてくるのがわかるとそのために備えます。いつ生まれてきてもいいように部屋の模様替えをしたり、ベビーベッドを用意したり、その脇にはオムツを交換する台を置いたり、暑ければエアコンを、寒ければ赤ちゃんの健康にいいヒーターを用意します。産着も、ベビー服も、おもちゃも、ミルクも、ちゃんと用意して待ちます。私たちも娘が生まれた時は部屋の壁紙からカーテンまでも交換しました。それと同じように、テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまがいつ再臨してもいいように待ち望んでいたのです。

皆さんはどうでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、備えておられるでしょうか。その日は本当に近いように感じます。昨年と今年とコロナウイルス感染症が猛威をふるいました。まだ終わっていませんね。今もこれと闘っています。地球の環境を見ても、地球温暖化による気候変動によって山火事や台風、ハリケーンなどの自然災害が多発しています。百年に一度と言われる豪雨が毎年のように起こっています。今日曜日の夜に「日本沈没」という映画でドラマ化されて番組がやっていますが、日本が沈没することがあるかどうかはわかりませんが、かつて関東大震災があったような大地震がいつ起こるかはわかりません。もし核戦争が起こったら地球はひとたまりもないでしょう。これらのことは世の終わりの前兆なのです。その後イエス様が再臨されます。それは必ずやって来るのです。

こうしてみると、今日、神の御子イエス・キリストを待つ私たちも、かつて地上を歩まれたイエス・キリストを見てはいないけれども愛しており、やがて再び来られるイエス・キリストを見てはいないけれども信じています。このことにおいて、このテサロニケの人たちの信仰に連なっているわけです。そして、彼らが主イエスは来られる、神の国は到来するとの希望の中で信じて待ち続けた日々を、今も私たちは生き続けているわけです。

きょうは、この後でクリスマスのメッセージ動画を撮ります。早いですね。まだ10月なのにクリスマスです。でも、来月の第四聖日からはアドベントが始まるのです。「アドベント」とは「来る、到来する」を意味することばで、神の御子イエス・キリストがこの地上に来る。到来する。その日に向かって備えつつ過ごすのがアドベントです。それは、私たちにとって「待つ」ことを経験する日々でもあるのです。神の御子の到来を信じ、待ち続けた人々の歩みに連なること、それが私たちがアドベントを過ごす大事な意味なのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、主が来るのを待ち望んでいました。それこそ、真の希望です。真の希望とは、与えられたかと思ったらすぐに消えてしまうような一時的なものではなく、いつまでも続くものです。それが復活の希望です。やがてキリストが来られるとき、私たちは永遠に朽ちない栄光のからだに復活します。それがクリスチャンの希望であり、真の希望なのです。

私たちが主の到来を迎えるのも、どんなに世界が闇に覆われても、どんなに苦難が圧倒しようとも、どんなに試練が続こうとも、それでもそれを覆してあまりある圧倒的な光が到来する、神の救いが来る、必ず来る、生ける神がそう約束し、その約束に真実を尽くし、聖書がそれを証ししている—このことの確かさを信じるがゆえなのです。