十字架につけられたキリスト ヨハネ19:1-30

2020年4月5日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ19章1~30節

タイトル:「十字架につけられたイエス」

 今週は受難週となります。ですから、いつもの講解説教をお休みしてヨハネが語る十字架の意味についてご一緒に学びたいと思います。十字架は、イエス・キリストの生涯のクライマックスです。キリストはなぜ十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

 Ⅰ.十字架につけろ(1-16a)

 

まず、1節から7節までをご覧ください。

「1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」

 

「それでピラトは」の「それで」とは、その前の18章40節の言葉を受けてのことです。ピラトはイエスに何の罪も認められなかったのでイエスを釈放したいと思ったのですが、そのことをユダヤ人たちに尋ねると、彼らが大声で「その人ではなく、バラバを」と言ったので、ピラトは、仕方なくイエスを捕らえてむちで打ちました。

 

当時のむち打ちは、先端に動物の骨や金属がつけられた長い皮のひもで打たれたので、すぐに肉体が引き裂かれ、耐えがたい苦痛が全身に走りました。十字架につけられる前に息絶えてしまう人もいたほどです。キリストはなぜむちで打たれなければならなかったのでしょうか。そもそもイエスには罪がありませんでした。それなのに、なぜむちで打たれなければならなかったのか。それは、旧約聖書の預言が成就するためでした。イザヤ書53章には、来るべきメシアについてこのように預言されてありました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:4-5)

これが来るべきメシアの姿です。キリストは、私たちの背きのために罰せられ、打たれ、苦しめられますが、その懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒されるのです。それは私たちの罪のためであったのです。このようにキリストがむちで打たれることによって、この方こそメシアであるということが明らかにされました。それは、2節と3節で、兵士たちがイエスの頭に茨の冠をかぶらせ、紫色の衣を着せて、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、平手で顔をたたいたのも同じです。考えられますか。救い主の顔で殴るんですよ。どれほど罪深いことか・・。それはメシアが苦難を受けるというこのみことばが成就するためでした。

 

4節と5節をご覧ください。「ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」

ピラトは、イエスに罪がないことがわかっていました。彼はそのことを3回も繰り返して言っています。ここと、6節、それと18章38節です。しかし、彼らがなかなか納得しなかったので、痛めつけたイエス様の姿を見れば怒りも収まるのではないかと、イエスを官邸の外に連れて来て、こう言いました。「見よ、この人だ。」

 

すると、祭司長と役人たちは何と言ったでしょうか。6節、彼らはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫びました。どんなにピラトが、「私にはこの人に罪を見出せいせない。」と言っても、彼らの怒りは収まりませんでした。なぜでしょうか。その理由が7節にあります。「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」どういうことですか?イエスが自分を神の子と主張したということです。それは彼らの律法、つまり旧約聖書の教えに違反することでした。律法によれば、そのような者は石打ちにされなければなりませんでしたが、彼らはローマに支配下にあったので、ローマの処刑法である十字架を要求したのです。

 

8節をご覧ください。ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの要求を受け入れなければ、民衆の暴動に発展するかもしれないと思ったからです。もしそんなことにでもなれば、今度は自分の身が危うくなります。また、マタイ27:19を見ると、この時彼の妻が夢を見て、「あの正しい人と関わらないでください」と告げられていたので、ただならぬことが起こっていると感じていたのです。

 

それでピラトは再び総督の官邸に入り、イエスに尋ねました。「あなたはどこから来たのか」どこから来たのかと言っても、別に出身地を聞いているわけではありません。いったいあなたは誰なんですか。どこから来たんですか。本当に神のもとから来たんですか、ということです。しかし、イエスは何も答えませんでした。答える必要がなかったからです。なぜなら、もう何度も語られたからです。あとは信じるだけです。それなのに最も肝心なことから逃げて回りくどい質問に繰り返して答えるのは意味がありません。するとピラトはイラッとしたのか、少し語気を強めて言いました。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」(10)

 

すると、イエスは答えて言われました。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」(11)

ピラトは自分に権威があると思っていましたが、それは間違っていました。ほんとうの権威は神にあります。そして、神がこの地上を治めるためにその権威を彼に与えておられるのにすぎないのに、彼は自分に権威があると錯覚していました。ですから彼は神の権威を認めてイエスを釈放すべきだったのに、それをしませんでした。なぜでしょうか?人を恐れたからです。ユダヤ人たちを恐れたのです。自分の立場を守ろうとして正しいことを行いませんでした。そういう意味では彼も、罪を免れることはできません。この人には罪がないと認めていても、結局、彼も多勢にくみすることになってしまいました。

箴言29:25には、「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」とあります。人を恐れるのではなく神を恐れ、神に信頼しましょう。

 

しかし11節でイエスは、こうも言っています。「ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」どういうことでしょうか。「わたしをあなたに引き渡した者」とは、ユダヤ人たちのことです。彼らは聖書を知っていて、神のみこころが何であるのかを知っていたにもかかわらず、イエスを拒みました。いや、十字架に引き渡ししました。ですから、彼らにはもっと大きな罪があるのです。

 

12節から16節前半までをご覧ください。

「12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。」

 

ピラトはイエスを釈放しようと努力しましたが、ユダヤ人たちの激しい抵抗によってできませんでした。彼らはピラトに激しく言いました。「この人を釈放するなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

「カエサル」とは、ローマ皇帝の称号です。そんなことをするなら、あなたはカエサルの友でない、自分を王とする者はカエサルに背いているのだから、イエスを釈放するなんて考えられない、そんなことをするならカエサルに訴えるぞと、ピラトを脅しているのです。

結局、ピラトは彼らの脅しに負けて、イエスを外に連れ出し、へブル語で「ガバタ」と呼ばれる場所で、裁判を行うことにしました。そして、ユダヤ人たちに、「見よ、おまえたちの王だ。」と言うと、彼らはまたも激しく叫びました。「除け、除け、十字架につけろ。」このように叫んだ人たちの中には、ちょっと前にイエスがエルサレムに入場したときに、しゅろの木の枝を持って、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と叫んだ人たちもいたでしょう。彼らは、イエスが自分たちの期待していたメシアではないと気づくと、手のひらを返したような態度を取ったのです。

一方、ピラトは何が正しいのかをよく知っていました。しかし彼は、ユダヤ人たちの激しい声に負け、イエスを十字架につけるために彼らに引き渡しました。彼は、自分の立場を守るためにイエスを彼らに引き渡したのです。

 

何ということでしょう。ユダヤ人もユダヤ人であれば、ピラトもピラトです。彼らは自分たちの立場とか、自分たちの考えとか、自分たちのことしか考えられませんでした。こうした人々の罪のために、キリストは十字架に引き渡されたのです。私たちはこの記事を読んで「何とひどいことを」と思うかもしれませんが、実は私たちも五十歩百歩、彼らと何も変わらない罪人なのです。聖書は、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(ローマ3:23)と言っています。その罪のために、キリストは十字架につけられたのです。

 

クリスチャントゥデイに、こんなコラムがありました。幼い弟が、庭先で空に向かって棒を振り回していました。それを見た兄が「何をしているのか?」と聞くと「空の星を取るんだ」と言いました。すると兄が言いました。「そこでは届かない。屋根の上に登れ」

確かに庭先と屋根の上では高さに大きな差があります。しかし神の目から見ればその差などあってないに等しいものです。私たちは他人と比べてあの人より自分は正しいと思っているかもしれませんが、実はそうではないのです。私たちも彼らと同じ罪人であり、その罪のためにキリストは十字架に引き渡されたのです。

 

Ⅱ.十字架につけられたイエス(16b-24)

 

次に、16節後半から24節までをご覧ください。16節から18節をお読みします。

「16 彼らはイエスを引き取った。17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。18彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。」

 

イエスは、自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれました。「どくろの場所」とは、へブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と呼ばれている所です。イエスは、自分で十字架を負って、ゴルゴタに出て行かれたのです。前の晩からの不正な裁判で相当疲れもあったでしょう。また体も大分弱っていたに違いありません。ルカの福音書によると、イエスがゴルゴタに向かう途中、十字架を背負って歩くのが困難になったため代わりにクレネ人シモンという人が十字架を担いだとありますが、ヨハネはそのことについては一切触れていません。それは、イエスが自ら進んでいのちを捨てるために十字架に向かって行かれたことを強調したかったからでしょう。彼らはその場所でイエスを十字架につけました。また、イエスを真中にして、こちら側とあちら側に、ほかに二人の犯罪人を一緒に十字架につけました。ですから、そこには3本の十字架が立てられていたわけです。罪の無い方が、罪人の一人として数えられました。どうしてでしょうか?そのように旧約聖書に預言されてあったからです。イザヤ書53:12には、こうあります。「それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

この預言のとおりにイエスは自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたのです。

 

それにしてもヨハネは、十字架の苦しみについては全く語らず、ただその事実だけを伝えています。なぜでしょうか。それは当時の人たちが、十字架の苦しみというものがどれほどのものであったのかを、よく知っていたからです。彼らはその場所でイエスを十字架につけたというだけで十分でした。それだけでピンときました。しかし、イエスの苦しみは肉体の苦しみ以上に、霊的苦しみが伴うものでした。というのは、キリストは私たちすべての罪を背負って死なれたからです。罪を負われるということは、父なる神との関係が断たれることを意味していました。なぜなら、神は罪ある者と共にいることはできないからです。ですから、イエスが全人類の罪を負われたということは、その瞬間神との関係が断たれたのです。世が始まる前から、永遠の初めから持っておられた父なる神との親しい関係が、罪ある者とされた瞬間に断たれてしまったのです。このような霊的な苦しみの方が、はるかに辛いことでした。

 

19節をご覧ください。ピラトは罪状書も書いて、十字架の上に掲げました。それはその囚人がどんな罪を犯したのかを人々が見るためです。当時のローマの慣習では囚人の首にぶら下げることになっていましたが、イエスの罪状書きは、十字架の上に掲げられました。それは誰からもよく見えるようにするためでした。そこには何と書いてありましたか?そこには、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれてありました。しかも、それはヘブル語とラテン語とギリシャ語で書かれてありました。すべての人が理解できるようにするためです。そこは都に近かったので、多くの人々が各地から集まっていました。へブル語はユダヤ人にわかるように、ラテン語は当時の公用語でローマ兵たちが使っていました。ギリシャ語は多くの人たちが使っていた言葉です。ですから、このようにへブル語とラテン語とギリシャ語で書かれてあったことで、すべての人が理解することができました。つまり、イエスはすべての人の罪のために死なれたということです。ピラトはユダヤ人たちを皮肉って書いたつもりでしたが、逆にそれが真実を示すことになりました。そうです、イエスはユダヤ人の王だけでなく、全世界の救い主なのです。

 

するとユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください。」と訴えました。しかし、ピラトはユダヤ人たちに対する腹いせもあったのでしょう、そんなの知ったことか、私が書いたものは、書いたままにしておけと言って、書き換えることをしませんでした。ピラトはイエスが無実であると3度も宣言して釈放しようとしたのに、彼らに脅されてできなかったからです。今さら強がって見ても無駄です。罪の無い方を死刑にしたという事実は変わりません。それゆえ、彼は責任を逃れることはできないのです。私たちは毎週礼拝で使徒信条を告白していますが、そこには「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ・・」とあります。不名誉にも、彼の名はこのような形で語り告げられることになってしまいました。実際はユダヤ人たちの方が悪いのに、ユダヤ人たちの陰謀によって十字架につけられたのに、このようにピラトの名が語り告げられるようになったのは、こうした彼の優柔不断さというか、ユダヤ人たちの脅しに負けて正義を曲げてしまったからであり、その罪から逃れることはできません。

 

23節ご覧ください。兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしました。また下着も取りましたが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであったので、それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引くことにしました。いったいなぜこんな小さなことまで聖書にかかれてあるのでしょうか。これも旧約聖書のことばが成就するためでした。「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」

これは詩篇22:18にあるみことばですが、このみことばが成就するためだったのです。このような聖書の箇所を見ると、これは後で旧約聖書の預言と辻褄を合わせようしたのではないかと疑う人がいますが、そうではありません。だってこの兵士たちは敵でしょう。敵がわざわざ辻褄を合わせるようなことをするわけがありません。こういうことからも、聖書が真実であるということは明らかです。

 

Ⅲ.完了した(25-30)

 

最後に、25節から30節までをご覧ください。まず27節までをご覧ください。

「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」

 

イエスの十字架のそばには、イエスの母マリアとその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていました。たくさんのマリアです。彼女たちはイエスを愛して最後までつき従って来た人たちです。そして、イエスは母とそばに立っている愛する弟子を見て、母にこう言われました。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。」

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を見ると、イエスは十字架の上で七つのことばを発せられたことがわかりますが、これはその最初の言葉です。愛する弟子とは、この福音書を書いているヨハネのことですが、「ここに、あなたの息子がいる」と言われました。そして、ヨハネには、「ご覧なさい。あなたの母です。」と言われました。つまり、イエスはヨハネに、母マリアの今後の世話を任せたのです。不思議ですね。マルコの福音書を見ると、イエスには他に4人の兄弟と2人の妹たちがいたことがわかります。であれば、その弟や妹たちに母の世話を任せるのが普通かと思いますが、それを弟子のヨハネにゆだねたのです。それは、この時点ではまだ弟たちが信仰を持っていなかったからでしょう。それで神の家族である弟子のヨハネにゆだねたのです。十字架の上の極限の苦しみの中でも、イエスはこのような形で母に対する愛と思いやりを示されました。それは、この方に信頼する者は、決して失望させられることがないことを示すためでもあったのです。

 

28節から30節までをご覧ください。

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われました。この聖書の預言は、詩篇69:21のみことばです。そこには、「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」とあります。このみことばが成就するために、このように言われたのです。この渇きは肉体的な渇きとともに霊的な渇きを意味していました。イエスは私たちが罪のゆえに、私たちが本来受けなければならない地獄の苦しみを代わりに負ってくださったのです。黙示録20:14には、それは「火の池」とあります。イエスは私たちの罪の身代わりとなって火の池で渇いてくださいったのです。それは私たちが永遠に渇くことがないためです。

 

そして、30節にはイエスの最後の言葉が記されてあります。それは「完了した」です。ギリシャ語では「テテレスタイ」です。これは勝利の宣言でもあります。すべてが終わった!神の救いのご計画はすべて完了しました。この「テテレスタイ」という言葉は、当時、商人たちの間で使われていた言葉で、完済したことを表しました。相手に支払わなければならない借金をすべて支払った時、「テテレスタイ」と宣言したのです。完了した!だから、私たちも住宅ローンを完済した時には「テテレスタイ」と宣言することができます。

 

またこの言葉は、奴隷たちが自分に与えられた仕事が終わったとき、その主人に報告する時にも使われました。「終わりました」「テテレスタイ」イエスは、従順な神のしもべとして父なる神から与えられた罪の贖いという仕事を完全に成し遂げられました。罪のない子羊が私たちの罪のためになだめの供え物として神にささげられたことで、私たちの罪の負債のすべてが支払われたのです。あなたの罪の借金、私の罪の借金はあまりにも莫大でとても負い切れるものではありませんでしたが、神ご自身が私たちの代わりに支払ってくださいました。それが子羊となって十字架で死なれたイエス・キリストです。イエス・キリストによって罪の負債がすべて支払われたのです。完了しました。テテレスタイ!イエス様は、そのように言われると、頭を垂れて父なる神に霊をゆだねられました。

 

この福音書を書いたヨハネは、この十字架のシーンを目撃しました。彼は3年半の間イエスのそばにいて、イエスの心臓の音を聞きながら、イエスの権威ある教えを聞き、その奇しい御業を見ました。そして最後にこの十字架のシーンを目撃してこれを書いたのです。いったいなぜイエスは十字架につけられたのでしょうか。それは、私たちを罪から救うためでした。私たちは、このままでは自分の罪のために滅びても仕方ない者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちに大きな愛を示してくださいました。それが十字架です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ヨハネが言いたかったことはこのことだったのです。キリストは、私とあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。この十字架につけられたキリストを信じるなら、どんな人でも永遠のいのちが与えられます。

 

ジェフリー・ダーマー(Jeffrey Lionel Dahmer、1960~1994)は、「ミルウォーキーの怪物」と言われた男です。彼は17人の青少年を殺し、彼のアパートから11の遺体が発見されました。彼は被害者の体をバラバラに切断し、頭蓋骨を冷蔵庫に保管し、心臓を貯蔵し、肉片の一部を食べたことも自供しました。

法廷でのダーマーの写真を見ると、どれも凍り付いたような表情をして微動だにせず座っています。自責の念も見られず、後悔している様子も全く見られません。遺族にしてみればそんな彼を何回死刑にしても満足することはないでしょう。アメリカ中の人々はジェフリー・ダーマーの異常な殺人に騒然としましたが、それ以上に人々を驚かせることがその後に起こりました。

彼が獄中でイエス・キリストを救い主と信じたのです。彼は、最期は囚人仲間の1人に殺されますが、その何か月か前に信仰を持ち、そして「私は本当にひどいことをしてしまった。自分のしたことを本当に申し訳なく思っている。遺族の方に心から詫びたい」と謝罪しました。そして彼は洗礼を受け、聖書を読み、刑務所内のチャペルに通うようになったのです。

彼は「自分の罪は神の前に赦され、天国への希望が与えられ、今はとても平安です」と告白しました。ある人たちは困惑しました。「あんな殺人鬼を神は救われるはずがない」と公言する人もいました。しかし思い出してください。二千年前イエス・キリストが十字架につけられたとき、同じように十字架刑に処せられた強盗の男がイエスに向かって言ったことを。

「イエス様、あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)そのときイエスは何と言われましたか。イエスはその強盗に即座に言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

ジェフリー・ダーマーも同じことをしたのです。そして彼も同じ答えをイエス様からもらいました。それはジェフリー・ダーマーだけではありません。私たちも同じです。神は自分の罪を悔い改める者に、即座に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるのです。あなたは自分がジェフリー・ダーマーや十字架の強盗と比べればはるかに良い人間だと言われますか。しかし、神の眼には同じです。義人はいません。一人もいません。すべての人が罪を犯しました。そもそも神を信じないことが罪だと聖書は言っています。本来であれば、私たちも十字架で死ななければならない者です。しかし、そんな私たちのためにキリストが身代わりに死んでくださいました。あなたも例外ではありません。キリストはあなたのために死んでくださいました。キリストは十字架の上で「完成した」と宣言してくださいました。あとは、あなたがこの知らせを聞いて、信じて受け入れるだけでいいのです。だから、この知らせは「福音」、「良い知らせ」なのです。あなたが何か良いことをしたからではなく、何かそのために修行したからでもなく、この十字架であなたの身代わりとなって死んでくださったキリストを信じるだけで、あなたの罪も赦されるのです。キリストが十字架で死なれたのはそのためだったのです。ここに神の愛があります。どうぞこの愛を受け取ってください。すでにこの愛を受け取った方は、いろいろな困難や試練、失敗に遭うかもしれません。しかし、最後までこの愛にとどまり続けましょう。この試練もまた、あなたの信仰が成長するために神から与えられた恵みなのです。

偽りのない愛で ローマ人への手紙12章9~13節

2020年3月29日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙12章9~13節

タイトル:「偽りのない愛で」

 きょうは「偽りのない愛で」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、12章からのクリスチャン生活の実際的な歩みについて勧めています。「こういうわけですから、兄弟たち、私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(12:1)それはまず、私たち自身を神に受け入れられる聖い、生きた供え物としてささげるということから始まります。そして、私たちは一人一人キリストのからだの器官として、各自に分け与えられた信仰の量りに応じて、慎み深く考えなければなりません。すなわち、預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧める人であれば勧め、分け与える人であれば分け与え、指導する人であれば熱心に指導し、慈善を行う人であれば喜んでそれを行いなさいということ(12:3-8)でした。

 

今回は、その3回目となりますが、ここでは兄弟姉妹の基本的なあり方について言及されています。それは愛です。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。」とあります。新改訳第三版では、「善に親しみなさい。」です。

 

クリスチャンの基本的なあり方、それは愛に生きるということです。クリスチャンがキリストのからだである教会において一つになるとき、それがほんとうの意味でキリストのからだとなるのです。どんなにすばらしい賜物が与えられていても、もしそこに愛がなかったら何の意味もありません。このように賜物について教えた後で愛について語るというケースは、コリント人への第一の手紙13章と同じです。12章で賜物について語ったパウロは、続く13章でこう述べています。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)

 

 たとえ異言の賜物が与えられていても、たとえ預言の賜物が与えられていても、またあらゆる奥義と知識とに通じ、山を動かすほどの信仰をもっていても、愛がなければ、何の値打ちもありません。愛こそ、すべての働きや賜物をその根底において支えるものであり、すべてを結ぶ帯なのです。きょうは、この「偽りのない愛で」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、愛には偽りがあってはいけないということです。クリスチャンは本物の愛で愛さなければなりません。第二のことは、クリスチャンは兄弟愛をもって心から互いに愛し合わなければなりません。第三のことは、そのためには望みを抱いて喜びましょうということです。

 

 I.愛には偽りがあってはいけません(9)

 

  まず第一に、愛には偽りがあってはならないということです。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善にから離れないようにしなさい。」とあります。

 

 パウロはまず、愛には偽りがないようにと勧めています。この「偽りがあってはなりません」という言葉は、役者が演技をすることを表す言葉です。つまり、演技をするように愛してはならないという意味です。この世の中には演技の愛が何と多いことでしょうか。いかにも愛しているかのように見せかけて、実際にはただ演技をしているだけということがあります。表面的には愛しているようでも、心の中ではそうでないケースが多いのです。しかし、愛には偽りがあってはなりません。つまり、偽りのない愛、本物の愛で愛さなければならないのです。

 

 では本物の愛とはどのようなものなのでしょうか。ここにはその一つの特質が描かれています。それは、「悪を憎み、善から離れない」ということです。皆さん、本当の愛は、悪を憎み、善に親しみます。不正を喜ばずに真理を喜ぶのです。

 

 ある時、一人のお母さんが、子どものことで相談に見えました。中学生になったばかりの娘が急に反抗的になったが、その理由がよく分からない、ということでした。今度は、その娘さんを呼んで話を伺うと、一つのことを話してくれました。小学校を卒業して春休みに入り、いよいよ中学生になるという時でした。四月になって、母親の実家のおばあちゃんに会いに行こうと、二人で電車に乗るために切符を買おうとしたら、母親がこう言ったのです。「あんたはまだ小さいから小学生の料金で乗れるわよ」と。4月1日を過ぎれば自分はもう中学生だからと、「今日から私は大人の料金」と思っていたのですが、お母さんが「あんたは小さいから子どもの料金でも大丈夫。聞かれたら小学生って言うのよ」と言われて、子供料金で乗せられたのです。その時彼女はえらく傷つきました。「大人ってずるいなぁ」と。そのことでこの母親は、娘の信頼を失ってしまったのです。たった何百円かを節約するために、大切な娘の信頼を失ってしまったのです。本物の愛は、悪を憎み、善から離れません。

 

 こうやって見ると、聖書が教える愛とこの世で言う愛とには、大きなギャップがあることがわかります。聖書で言う愛とはその動機に注目しますが、この世で言う愛は行いと結果に注目するからです。世の中では貧しい人たちにお金を与え、飢えている人たちに食べ物を分け与える人たちを、愛に満ちた人、道徳的な人だと考えますが、聖書では愛がある人というのはそうした行為や結果だけでなく、動機まで問われるのです。したがって、どんなに美しい行為をしたとしてもその動機が適切でなければ、それは愛とは言えないのです。聖書の観点から見るならば、本当の愛とは神との関係によって与えられる愛を動機として現れるものです。なぜなら、愛は神にあるからです。何回も引用しますが、ヨハネの手紙の第一4:9-10には、こうあります。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4:9-10)

 

 本当の愛は神にだけあるのです。神がそのひとり子をこの世に遣わしてくださり、私たちのためになだめの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。ここにとは、十字架にということです。神は、そのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったということの中に、神の愛が示されました。この愛に満たされることによって初めて周りの人たちと喜びと悲しみを分かち合うことができるのです。そうでなかったら、その人が意識しても、しなくても、それはただ自己満足のための、打算的な愛になってしまいます。そのような愛の中には、決して真実な愛が芽生えることはありません。

 

 Ⅱ.兄弟愛をもって互いに愛し合う(10)

 

  第二のことは、兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさいということです。10節をご覧ください。ここでパウロは、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」と言っています。

 

「兄弟愛」という言葉の原語は、ギリシャ語の「フィラデルフィア(Philadelphia)」です。これは9節に出てくる「愛」とは違います。9節に出てくる「愛」は「アガペー」という言葉で、私たちに対する神の愛を表していますが、この10節に出てくる「兄弟愛」は、クリスチャン相互において現れる愛のことです。つまりここでパウロが言わんとしていることは、教会において互いに愛し合うことができるのは、一方的な神の愛と恵みを知った者であるということです。神の愛を知った者は、今度はその愛を兄弟姉妹の中で「兄弟愛」として実践しなさいということです。この「互いに愛し合う」という言葉は、先週の礼拝でのテーマでした。イエス様は十字架につけられる前夜、弟子たちに新しい戒めを与えました。何でしたか。「互いに愛し合いなさい」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。「互いに愛し合う」というのは、家族的な親しい愛を表わす言葉です。世のすべての交わりの中で家庭こそ安心といこいの場ではないでしょうか。なぜなら、そこには麗しい愛の交わりがあるからです。その愛で互いに愛し合わなければなりません。それは教会が神の家族であり、クリスチャンが互いに兄弟姉妹だからです。

 

 神様の愛を知らない人は、兄弟愛をもって互いに愛し合うことはできません。ローマ1:29-32には、神を神としてあがめず、神様に感謝もせず、自分では知者であると言いながら、愚かな者となっている人間の姿が描かれています。「29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」

 

 これらはどれも愛に反する思いや行為です。神から離れ、自分を含めた偶像を神としている社会では、自分勝手になっていく傾向があります。自分の考えが物事の判断のものさしになるのです。その結果、一つになることができません。そこには愛のひとかけらもありません。特に注目していただきたいのは31節の「情け知らずの者」という言葉です。これは「アストロゴス」という言葉ですが、12:10に出てくる「互いに愛し合い」という「ストロゴス」という言葉にそれを打ち消す「ア」という言葉が付いたものです。ですからこの「情け知らずの者」というのは、家族の愛を持っていない、家族的な愛と親しみを知らない人のことになります。それは愛に反するこの長いリストの中で、一つの要素として取り上げられています。つまり、神を知らない罪深い人間の特徴というのは、本当の家族の愛を持つことができないということです。親を親と思わず、従おうともしません。悪意、陰口、争い、欺き、悪巧みなど、自分勝手に生きようとするのです。そうした態度や行いが、彼らの家族関係の特徴となっているのです。

 

 最初の人間アダムとエバが罪を犯した時彼らの関係は破壊され、そこにあった麗しい交わりが失われたように、家族のような関係が破壊されてしまいました。それが罪深いこの世における人間関係なのです。しかし、クリスチャンはそうであってはいけません。クリスチャンは神の愛、キリストの十字架によって罪贖われた者として、互いに兄弟姉妹であり、神の家族なのですから、その愛をもって互いに愛し合わなければならないのです。

 アフリカにイーク族という部族がいるそうです。この部族は互いに話をしません。話をするとしても、それはすべて嘘です。朝起きると、男たちは遠方に目を向けて座っています。互いに言葉は交わしません。そして誰かが獲物を見つけるといきなり立ち上がって、その獲物と反対の方向に走り出します。仲間の目を騙(だま)すためです。それから獲物に近づいていきます。他人のために獲物を捕ることもしません。全部自分のためです。ですから獲物を獲って家に戻ると、まず自分が最初に食べ、妻にも与えますが、4~5歳以上の子供には与えないので、子供が死ぬことも珍しくありません。死人を葬ることをせず、老人が死ぬと蹴飛ばして横の獣道みたいなところに放置して無視するのです。そこまで動物的になってしまう社会が実際に存在しています。

 

 程度の差こそあれ、現代の社会とそんなに変わらないのではないでしょうか。みんな自分さえよければいいと思っています。今、新型コロナウイルスでマスクの品薄が続いていますが、テレビはそのマスクを自宅に何十箱と買いだめしている人を取材していました。このくらいあれば家族5人で使っても1年間は間に合う・・と。それだけあったら医療機関に提供するとか、老人介護施設に提供するとか、困っている人に差し上げればいいのにと思いますが、そのようには考えないで、どれだけ自分が助かるかと、自分のことしか考えられません。それがこの世です。このような社会に誰が住みたいと思うでしょうか。このような教会に誰が来たいと思うでしょうか。教会に行ってみたらだれも話しかけてもくれないとか、何しに来たの?というような目で見られるとしたら、ほんとうに悲しいです。

 

 今、シカゴの大学で学んでいる娘が大阪に引っ越した時、どの教会に行こうかといろいろな教会を探したところ、ある教会に行くことにしました。娘は車いすの生活をしているのでできれば礼拝堂が1階にある教会がいいなぁと思っていたら、その教会は礼拝堂が3階にあってエレベーターもありませんでした。しかし、その教会に初めて行ったとき、そこで応対してくれたおばちゃんがとても温かいというか、温かいを越えて熱い方で、大歓迎で迎えてくれたそうです。「よく来ました。あなたは私たちの家族です。何の気兼ねもいりませんよ。」と言うと、「今、仲間を連れてきましたから・・」と屈強な男たちを何人か連れて来て、娘を背負って3階まで運んでくれました。そうした熱心さは集会にも表れていて、全体的に熱いものを感じたそうです。それは本人だけでなくボランティアで一緒に行ってくれたヘルパーさんも同じように感じました。これまで別の教会にも一緒に行ったことのあるこのヘルパーさんは、「教会もいろいろあるんですね。」と言うと、「こういう教会なら来てみたい」と言いました。こういう教会なら来てみたいという、こういう教会というのは、家族愛に溢れた教会です。そういう教会にはだれでも行ってみたいと思うものです。

 

 では、そのためにはどんなことが必要なのでしょうか?パウロは、その次のところでこのように言っています。「尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」どういう意味でしょうか?ピリピ2:3-8節を開いください。ここには、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とあります。

 

 パウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と勧めています。そして、その模範としてキリストの姿を取り上げています。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。これが、人を自分よりもすぐれた者と思うということです。つまり、人を自分よりもすぐれた者と思うということは、自分と誰かを比較してその人を自分よりも優れていると思うということではなく、人を自分よりも大切だと思いなさい、ということなのです。「尊敬しなさい」という意味です。

 

イエス様は私たちのことを大切な存在だと認めてくださったがゆえに、私たちのためにこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださいました。自分の方が大切だと思っていたのであれば、そのようなことはしなかったでしょう。しかし、イエス様はご自分の栄光をかなぐり捨ててくださいました。それは、私たちのことを愛しておられたからです。それは一方的な愛でした。私たちに愛される資格があったので愛してくださったというのではなく、そうでないにもかかわらず、愛してくださいました。もし相手がすべてにおいて自分よりも優れた人であるならば、自分のいのちを捨ててもいいと思うことがあるかもしれません。しかし、キリストは私たちがまだ罪人あったとき、私たちのために死んでくださいました。そのことによって神は、私たちに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのです。イザヤ43:4に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とありますが、それはこのことです。神はその愛を十字架で示してくださいました。それが「アガペー」の愛です。「他の人のことを自分よりも大切だと思いなさい」というのは、この十字架の愛で愛しなさいということなのです。この愛があって初めて、私たちにも愛が生まれ、兄弟愛をもって互いに愛し合うということが可能になるのです。

 

 Ⅲ.望みを抱いて喜び(12)

 

 ですから第三のことは、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みましょうということです。この見える世界の現実を見たら、互いに愛し合うということなどできません。目の前の様々な現象に振り回されて怒ったり、すねたり、ひがんだりするでしょう。なぜなら、この世は戦場だからです。戦場というのは戦いの場なのです。どこに行っても戦いがあります。いろいろな問題にぶつかります。しかし、そんな戦場にいても上を見上げるなら、やがてもたらされる永遠の御国と永遠の祝福にあずかることができるという希望のゆえに、喜びと平安を得ることができるのです。

 

 パウロは8:18で、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言いました。救い主イエス・キリストを信じる者に約束されている将来は栄光です。この栄光が約束されているがゆえに、私たちは大いに喜び、患難をも乗り越えることができるのです。私たちが喜べるのは今の状況が楽しいからではないのです。たとえ今はそうでなくても、やがてそのような栄光と祝福にあずかることができるという希望があるから喜ぶことができるのです。この望みのゆえに、私たちは苦手のような人であっても兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思うことができるのです。

 

 今、新型コロナウイルス感染が世界的に拡大している中で、最も拡大が広がっているのはイタリアです。そのイタリアのロンバルデイア州(北部イタリア)の医師の証Julian Urban氏が、次のような証を書きました。


「私は、この数週間、暗い悪夢の中で、今イタリアで起きて見ていることを経験するなど

とは、今まで決して想像すらしませんでした。悪夢のせせらぎは、今や大河となってどんどん大きくなるばかりです。

 最初数人の患者が来て、それから数十人、その後数百人となりました。私たちが今しているのは、最早医療行為ではなく、誰が生き誰が死ぬべきかの決断を下す事なのです、これらの患者は、今まで生涯にわたってイタリアの健康税を払ってきたのにです。

 数週間前まで同僚と私は無神論者でした。 神の存在を除外し科学的知見に基づいて学んできた医師が、そう考えるのは珍しいことではありませんでした。ですから私も、両親が教会に行くのを心の中では嘲笑っていました。

 9日前のことですが、私たちの病院に、75歳になるある牧師が入院してきました。彼はとても親切な人でしたが、深刻な呼吸困難を発症していました。彼は聖書を持っており、彼自身が非常に困難な状況の中にあるにもかかわらず、瀕死の患者らの手を握って聖書を読んで聞かせていました。その姿に、我々は非常に驚かされ感銘を受けていました。我々医師たちは、皆疲れており、落胆し、精神的にも肉体的にも燃え尽きていたのです。そういうわけですから、私たちは時間を見つけては彼の話に聞き入っていました。我々はもう限界だった。できる事は何もなく、人々が、刻一刻、毎日死んでいるのです。完全に消耗しきっていました。すでに2名の同僚の命が失われ、他の者たちも感染していました。

  そんな極限の中で、ようやく私たちは、神に助けを求めなければならないことに気づき始めたのです。早速私たちは、2、3分でも時間を見つけては、神に祈ることを始めました。

 私たちが互いに話すとき、私たちはかつて強硬な無神論者だったにもかかわらず、信じがたいことに、今や私たちは、日々の平安を求めつつ、病人を支え続けることが出来るようにと、主の助けを乞うているのです。

  昨日, 75歳の牧師が亡くなられました。ここ3週間で120人以上の死者が出て、我々は憔悴しきっていました。彼は、自身が瀕死の状態にあり、私たちも苦境の只中にあったにもかかわらず、私たちがもはや見いだすことさえ望むことができない平安をもたらしてくれたのです。牧師は主のもとに旅立ちました。今の状況が続くなら、私たちも彼の後を追うでしょう。

 6日間家に帰れず、最後に食事をとったのがいつだったかも思い出せない状況の中で、私はこの地上に自分が置かれている意味を見出しました。今はもう、誰かを助けるためにこの命を使い果たすことができたら本望です。 私は今、困難と仲間の死との極限の中におりながら、どういうわけか、自分が神に立ち返ることができたと言う幸せに満たされているのです。どうかイタリアのために祈ってください。」

 

 私は、この75歳の老牧師の愛に感銘を受けました。この牧師は、ご自分も非常に困難な状況の中にあるにもかかわらず、瀕死の患者らの手を握って聖書を読んで聞かせたり、祈ったりして励まし続けました。そして、疲れ切っていたこの医師が主のもとに立ち返るきっかけを与えてくれました。いったいこの牧師はどうしてこのようなことができたのでしょうか。それは、神の愛を知っていたからです。偽りのない愛、真実の愛を知っていたので、苦しみの中にある人をその愛で愛することができたのです。

 

 私たちもかつては罪過と罪の中に死んでいたものです。そんな私たちを神は愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださいました。そのことによって愛がわかったのです。だから、私たちも互いに愛し合うことができるのです。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。この神の愛による関係を求めていきましょう。それは、私たちの目が自分から神の愛に、この世から天の御国に向けられることによってもたらされるのです。

出エジプト記23章

今回は、出エジプト記23章から学びます。

 

  • 法廷での証言について(1-13)

 

 まず、1節から3節までをご覧ください。

「1 偽りのうわさを口にしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。2 多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。3 また、訴訟において、弱い者を特に重んじてもいけない。」

 

20章で語られた十戒の具体的な適用としての定めが語られています。これまでは、一般の社会生活の中でどのように適用したらよいかが語られてきましたが、今回の箇所には、裁判での証言について取り上げられています。裁判においてはまず、偽りのうわさを口にしてはなりません。「偽りのうわさ」とは、現代訳聖書には「根拠のないうわさ」と訳されていますが、根も葉もないうわさのことです。これを流すことによって真実がどれほどゆがめられることになるでしょう。それが裁判の判決に大きな影響をもたらすのは明らかです。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならないのです。

 

また、2節には「多数に従って悪の側に立ってはならない。訴訟において、多数に従って道からそれ、ねじ曲げた証言をしてはならない。」とあります。新改訳第三版では「権力者」と訳していますが、直訳では「多数の者」という言葉なので、その点ではこの新改訳2017の訳の方がより原文に近い訳です。しかし、「多数に従って悪の側に立ってはならない」とはどういうことなのでしょうか。関根訳ではこれを、「悪を行うために多くの者に追随してはならない」と訳しています。権力者や多くの者に追随して不正な証言をしてはならないということです。

 

だからと言って、弱い者を特に重んじてもなりません。正義を曲げてまで味方する必要はないのです。申命記16:20には、「正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を自分の所有とすることができる。」とあります。これが、神が求めておられることです。

 

次に、4節と5節をご覧ください。ここには、「4 あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。5 あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。」とあります。

 敵の牛やろばが迷っているのに出会ったら、必ずそれを彼のところに連れ戻さなければなりません。また、あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見たら、それを見過ごしにせず、一緒に起こしてやらなければなりません。なぜなら、神様はそのような方であられるからです。神様は良い日にも悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます(マタイ5:45)。自分を愛してくれる人を愛したからといって、何の報いも受けられません。そんなことはだれにでもできることです。また、自分にあいさつしてくれる人にだけあいさつしたからといって、特に勝ったことをしているわけではありません。異邦人でも同じことをします。神によって救われた神の民に求められていることは、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなのです。

 

  次に、6節から8節までをご覧ください。ここには、「6 訴訟において、あなたの貧しい者たちへのさばきを曲げてはならない。7 偽りの告訴から遠く離れなければならない。咎のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。8 賄賂を受け取ってはならない。賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる。」とあります。

 

 再び、裁判における正義と構成について語られています。しかし、1~3節で語られていたことと違う点は、そこには証人としてのあり方が述べられていましたが、ここには裁判官としてのあり方が述べられている点です。裁判においては、貧しい者たちへのさばきを曲げてはいけません。偽りの告訴から遠く離れなければならないのです。咎のない者、正しい者を殺したり、逆に悪者を正しいとしてはいけませんでした。裁判においては客観的な事実だけが重要で、その人が貧しいか富んでいるかといったことは関係ありません。偽りの告訴から遠く離れるとは、無実の人を訴えてはならないということです。罪のない者、正しい者を殺してはならないというのも同じで、冤罪を排除せよということです。日本では冤罪の被害で苦しんでいる方がいます。日本で起訴されたら99.8%は有罪になるということで、このことでどれだけの人が苦しんでいるかと思うと、訴訟の難しさを感じます。さらに、賄賂を受け取ってはならないとあります。贈賄、収賄の禁止です。なぜなら、賄賂は聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからです。

 

 こうしたことは、私たちの住んでいる今の時代にも言えることです。どうしたら正義と公正を行うことができるのでしょうか。それは、ただ神を信じ、神のことばに従うことによってです。神のご性質を考えることが、正義と公正を行う動機となります。どのように判断し、どのように行動したら良いか迷った時には、神の性質を思い起こし、正義と公正を実現する道を選び取りたいと思います。

 

9節をご覧ください。ここには、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたはエジプトの地で寄留の民であったので、寄留者の心をあなたがた自身がよく知っている。」とあります。「寄留者」とは、「在留異国人」のことです。在留異国人を大切にするようにという勧めは、すでに22:21で語られていました。この規定の背後にあるのは、かつて、彼らもエジプトの地で寄留者であったという経験です。自らが経験した苦しみが、他者への思いやりを生むのです。パウロは、Ⅱコリント1:4で「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」と言っていますが、私たちも苦しみの中で神の慰めを受けたという経験が、他者への慰めとなることを覚え、苦しみの意味というものをもう一度思い巡らしましょう。

 

 次に、10節から13節までをご覧ください。

「10 六年間は、あなたは地に種を蒔き、収穫をする。11 しかし、七年目には、その土地をそのまま休ませておかなければならない。民の貧しい人々が食べ、その残りを野の生き物が食べるようにしなければならない。ぶどう畑、オリーブ畑も同様にしなければならない。12 六日間は自分の仕事をし、七日目には、それをやめなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである。13 わたしがあなたがたに言ったすべてのことを守らなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。」

 

ここには安息年、および安息日に関する規定が述べられています。十戒では「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という戒めはありましたが、安息年を守るということは規定されていませんでした。それがここで語られているわけです。これが、後にレビ記25章で重要な遵守事項として定められていくことになります。六年間、地を耕し、収穫してもよいが、七年目には、その土地を休ませなければなりませんでした。なぜなら、そのことによって貧しい人々に食べさせ、その残りのものを野の獣に食べさせることになるからです。つまり、そのようにすることで、あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせることができるからです。環境に優しくするためにとか、農業の収穫をもっとあげるために土地を休ませるのではありません。貧しい人たちや野の獣への配慮を示すためです。七年目に土地を休ませるということは、六年目には二倍の収穫があるという信仰が求められます。結果的により多くの収穫が得られることになります。一生懸命働けば良いというものではありません。どのように働くのかが重要です。神のみことばに従い、神が命じられる通りに働くなら、結果的により多くの収穫が得られるようになるのです。それは安息日についても言えることです。

 

  1. 祭りの規定(14-19)

 

 次に、14節から17節までをご覧ください。

 「14 年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。15 種なしパンの祭りを守らなければならない。 わたしが命じたとおり、 アビブの月の定められた時に、 七日間、 種なしパンを食べなければならない。 それは、 その月にあなたがエジプトを出たからである。 何も持たずにわたしの前に出てはならない。16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂を献げる刈り入れの祭りと、年の終わりに、あなたの勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭を行わなければならない。17 年に三度、男子はみな、あなたの主、主の前に出なければならない。」

 

 ここには年に三度、祭りを行わなければならないとあります。17節には、「主の前に」とありますが、これは幕屋か神殿がある場所でということです。最初は「シロ」という所にありましたが、後にエルサレムがその場所となります。いったい何のためにわざわざ主の前に出て行かなければならなかったのでしょうか。それはここに「わたしのために」とあるように、主の恵みを思い出すためでした。また、今も働いておられる神の恵みに感謝するためです。

 

まず、「種なしパンの祭り」を守らなければなりませんでした。この「種なしパンの祭り」とは、過ぎ越しの祭りも含まれています。この時にはパン種を入れないパンを食べました。それは、その月にエジプトを出たからです。その大いなる神の救いの御業を覚えて、この祭りを行わなければなりませんでした。

次は「初穂を献げる刈り入れの祭り」(16)です。この祭りは、春の終わりから初夏にかけてやって来る祭りです。民数記28:26には「初穂の日、すなわち七週の祭り」と呼ばれています。また、申命記16:10には「七週の祭り」となっています。使徒2:1では「五旬節」(ギリシャ語でペンテコステ)と呼ばれています。

そして、もう一つが「年の終わりに、勤労の実を畑から取り入れるときの収穫祭」です。この祭りは秋の祭りです。レビ23:34には、「仮庵の祭り」と呼ばれています。

 

この年に三回やって来る巡礼祭は、新約時代の出来事を預言していました。すなわち、種なしパンの祭りは、キリストの十字架の死と復活です。また、ペンテコステ、これは五旬節ですが、聖霊降臨を予表していました。そして仮庵の祭りは、キリストの再臨と千年王国です。私たちがモーセの律法を学ぶ理由はここにあります。旧約聖書に示されたことは、そのとおりに成就します。すでにキリストの十字架の死と復活、そして、聖霊降臨は成就しました。もうすぐキリストの再臨と千年王国がもたらされます。私たちはこのみことばが成就するのを待ち望みながら、主に仕える者でありたいと思います。

 

18節と19節をご覧ください。ここには、「18 わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

 

 ここには、ささげものの規定が記されてあります。「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンと一緒に献げてはならない。また、わたしの祭りのための脂肪を朝まで残しておいてはならない。」聖書に「パン種」という象徴的に用いられている場合は、必ず「罪」とか「汚れ」を指しています。パウロは、「7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」 (Ⅰコリント5:7-8)と言いました。私たちは種なしパンです。なぜなら、イエス様が私たちの罪を取り除いてくださったからです。それゆえ、私たちは古いパン種を用いたり、悪意と邪悪なパン種を用いたりしないで、聖実と真実というパン種で祭りをしなければなりません。これこそ、神が喜ばれるいけにえなのです。

 

ところで、19節には「あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。どういう意味でしょうか。この命令は、この箇所以外に出エジプト記34:26と、申命記14:21にも出てきます。この命令の背景にあるのは、異教徒の習慣で、カナンの偶像礼拝でした。まず子やぎを殺し、次に母親の乳をしぼり、その乳で子やぎを煮ました。そのようにすることで多産になる(やぎは多産)という迷信があったのです。カナンの地では実際にこのような料理が振る舞われていたそうですが、これが偶像礼拝となっていたのです。

 

このような命令は、今もユダヤ人の食物の規定に大きな影響を与えています。厳格なユダヤ教徒は、肉製品と乳製品を一緒に食べません。肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。それはユダヤ教徒がこうした教えを拡大解釈したためです。熱心なユダヤ人たちは本来の目的から逸脱し、律法を拡大解釈してしまいました。それは熱心なユダヤ人だけの問題ではありません。クリスチャンの中にも見られます。本来の目的である神の愛から離れて、人間の律法を作ってしまうことがあります。注意しなければなりません。

 

3.主の使いの約束(20-33)

 

 最後に、20節から33節までを見て終わります。20節から22節までをご覧ください。

「20 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、道中あなたを守り、わたしが備えた場所にあなたを導く。21 あなたは、その者に心を留め、その声に聞き従いなさい。彼に逆らってはならない。 わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。22 しかし、 もしあなたが確かにその声に聞き従い、 わたしが告げることをみな行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、 あなたの仇には仇となる。」

 

「使い」とは、主の使いのことです。これは受肉前のキリストです。なぜなら、ここに「わたしの名がその者のうちにあるので、 彼はあなたがたの背きを赦さない。」とあるからです。罪を赦す権威を持っているのは神とそのひとり子イエス・キリストだけです。マルコ2:10には「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを示すために」と言って、イエスは中風で病んでいた人を癒されました。ここで律法学者たちは面食らうわけです。罪を赦す権威を持っているのは神だけであって、その神を冒涜した・・・と。神だけが罪を赦すことができます。そして、イエスはその神なのです。なぜなら、彼はあなたがたの背きを赦さないからです。ですから、ここでこの使いに対して絶対的な服従が求められているのです。もしイスラエルがこの使いに従うなら、イスラエルの敵に対して敵となり、イスラエルの仇となってくださいます。この主を彼らの前に遣わし、彼らの道を守り、神が備えた所、すなわち、約束の地へと導いてくださるのです。ですから、彼らは彼らの神、主だけに仕えなければなりません。その地の神々を拝んではならないのです。

 

 

 23節と24節をご覧ください。「23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き、わたしが彼らを消し去るとき、24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。それらに仕えてはならない。また、彼らの風習に倣ってはならない。それらの神々を徹底的に破壊し、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。」とあります。

 

 25節と26節には、「25 あなたがたの神、主に仕えよ。そうすれば、主はあなたのパンと水を祝福する。わたしはあなたの中から病気を取り除く。26 あなたの国には、流産する女も不妊の女もいなくなる。わたしはあなたの日数を満たす。」とあります。

 イスラエルが主に仕えなければならない理由は他にもあります。それは、主に仕えるなら、主は彼らにパンと水を与えてくださるからです。食べ物と飲み物が豊かになり、健康が祝福されるのです。 そればかりではありません。子孫の繁栄も約束されています。さらに、長寿も約束されています。

 

 最後に、27節から33節をご覧ください。

 「27 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に送り、あなたが入って行く先のすべての民をかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を向けるようにする。28 わたしはまた、スズメバチをあなたの先に遣わす。これが、ヒビ人、カナン人、ヒッタイト人をあなたの前から追い払う。29 しかし、 わたしは彼らを一年のうちに、 あなたの前から追い払いはしない。 土地が荒れ果て、野の生き物が増え、あなたを害することのないようにするためである。30 あなたが増え広がって、その地を相続するまで、少しずつ、わたしは彼らをあなたの前から追い払う。31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また荒野からあの大河に至るまでとする。それは、わたしがその地に住んでいる者たちをあなたがたの手に渡し、あなたが彼らを自分の前から追い払うからである。32 あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。33 彼らはあなたの国に住んではならない。彼らがあなたを、わたしの前に罪ある者としないようにするためである。あなたが彼らの神々に仕え、あなたにとって罠となるからである。」

 

カナンの地は、主からの贈り物です。それはすでにアブラハムとその子孫に約束されていました。イスラエルはその地を侵略するのではなく、その地に帰還するのです。なぜこのモーセの時代になったのでしょうか。それは創世記15:16にそのように約束されていたからです。いったい主はどのように彼らをイスラエルに帰還させるのでしょうか。主はご自身の恐れを彼らの先にカナンに送り、彼らが入って行く先のすべての民をかき乱されます。それで、イスラエルのすべての敵が彼らに背を向けるようにされるのです。また、主はスズメバチを彼らの先に遣わします。これがカナンの住人を追い払うことになります。

 

しかし、それは一年のうちに起こることではありません。徐々に、少しずつ追い払われます。一気に追い払ってもらった方が楽かもしれませんが、主はそのようなことはなさいません。それは私たちの歩みと同じです。私たちの目標はキリストのようになることですが、それは一瞬にしてなるのではありません。徐々に、です。一気に変えられたのなら気絶してしまうでしょう。あまりにも違うので・・・主は少しずつ、少しずつ、主と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。大切なのは、私たちが私たちの主にだけ仕えることです。主の使いであるキリストに従うことです。そうすれば、私たちもやがて主のように変えられていきます。32節には「彼らの神々と契約を結んではならない」とあります。これは「彼らと契約を結んではならない」という意味です。この世と調子を合わせてはなりません。むしろ、何がよいことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。そうです、毎日、毎日の積み重ねの中で、毎日、毎日、主に従っていくことの中で、そのことが成されていくのです。ですから、私たちは主が私たちを変えてくださると信じ、主のみこころはいったい何なのかを知るために、みことばから学び、それに聞き従う者でありたいと願わされます。

互いに愛し合いなさい ヨハネ13:31-38

2020年3月22日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章31~38節

タイトル:「互いに愛し合いなさい」

 

 ヨハネの福音書13章後半です。前回は、イスカリオテ・ユダの裏切りを学びました。イエス様は彼に何度も悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最後の晩餐の席で、イエス様からパン切れを受け取ると、すぐに出て行きました。時はいつでしたか?時は夜でした。それは単に夜であったということではなく、永遠の暗闇を表していました。彼はイエス様から離れて、永遠の暗闇に落ちることを選んだのです。しかし本当の弟子は、イエスのもとに留まります。ユダが出て行った後で、イエス様はとても大切なことを話されました。それがきょうの箇所です。

 

 Ⅰ.栄光を受けるとき(31-32)

 

まず、31節と32節をご覧ください。

「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」

 

ユダが出て行ったとき、イエスは大切な話をされました。それは、「今、人の子は栄光を受けた」ということです。「今」とはいつですか?今とは、ユダが悔い改めないで出て行った今です。人の子とはイエス様のことですが、今、人の子は栄光を受けられました。なぜユダが出て行った今、栄光を受ける時なのでしょうか。

 

これまでも何回か語ってきましたが、ヨハネの福音書において「栄光を受ける」というのは、キリストが十字架で死なれることを指し示していました。ユダの裏切りによってキリストが十字架で死なれます。だから栄光を受けられるのです。どうして十字架で死なれることが栄光なのでしょうか。それは、私たちを罪から救うという神の永遠の計画が成し遂げられるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、神が予め定めておられたことでした。それが完成する時、それが十字架なのです。イエスが十字架で死なれることで、アダムによって全人類にもたらされた罪が贖われるのです。ですから、この後17章に入ると、そこにイエス様の最後の祈りが記されてありますが、こう言われました。4節です。

「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」

イエス様は多くの奇跡をもって神の栄光を現しましたが、最終的には、神がイエスに行うようにと与えてくださったわざを成し遂げることによって現わされます。それが十字架なのでした。十字架のわざを通して神の栄光が完全に現されました。ですから、イエス様が十字架ら付けられたとき最後に発せられたことばは、「完了した」(19:30)ということばだったのです。「完了した」。「テテレスタイ」。これは、神の救いのみわざが完了したという意味です。私とあなたの罪の負債、借金を、イエスが代わりに支払ってくださいました。完済してくだった。すべての借金から解放されたらどんなに気持ちが楽になるでしょう。これまでずっと重くのしかかっていた荷物を下ろすことができます。もうそのことで思い悩む必要はありません。イエス様があなたの罪の負債を完済してくださったからです。ですから、十字架は人の子が栄光を受けられる時なのです。

 

また、ここには、「神も人の子によって栄光をお受けになりました」とあります。イエス様だけではありません。そのことによって、父なる神も栄光を受けらます。なぜなら、イエスが十字架で死なれることによって神がどのような方なのか、そのご性質がはっきりと示されるからです。皆さん、神はどのような方ですか?聖書には、神は愛であると教えられていますね。どうやって神が愛であるということがわかるのでしょうか?それは単なる絵に描いた餅ではありません。神はことばだけでなく行いによって、そのことをはっきりと示してくださいました。それが十字架でした。十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に示されたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

私たちがまだ罪人であったとき、私たちがまだ神を信じないで、神を無視し自分勝手に生きていたとき、そのような状態であったにも関わらず、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神の私たちに対する愛というものを明らかにしてくださいました。

Ⅰヨハネ4:9-10には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。どこに愛があるのですか?ここにあります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださったということの中にあるのです。具体的には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされたという事実の中にです。それは十字架のことです。それはいわば「にもかかわらずの愛」です。十字架で神の愛がはっきりと示されました。だから、十字架はキリストだけでなく、父なる神の栄光も現わすのです。

 

十字架はキリストが栄光を受ける時であり、また、父なる神も栄光を受けられるときです。あなたは、十字架をどのように受け止めておられますか。私たちの人生にも十字架があるでしょう。自分自身の十字架があります。できますなら、この杯を取り除いてくださいと祈りたくなるようなとき、どうしても乗り越えられないと思うような困難に直面するときです。しかし、それは栄光のときでもあるのです。あなたが祝福されるときであり、神が栄光を受けられるときでもあります。問題は、あなたがその十字架をどのように受け止めていらっしゃるかということです。神の御心に従順になるとき、神が栄光をお受けになり、あなたもまた祝福されるのだということを覚え、あなたの十字架を負って、キリストに従って参りましょう。

 

Ⅱ.イエスが愛したように(33-34)

 

次に、33~35節をご覧ください。

「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

イエス様は、弟子たちに対して「子どもたちよ」と呼びかけられました。この福音書の中では初めて使われている呼び方です。非常に親しみと愛情を感じる呼び方です。なぜイエス様は彼らを「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょうか。それは彼らといられる時間がほんの数時間しか残されていなかったからです。もうすぐこの地上を去って行かなければなりませんでした。そんな彼らとの別れを惜しんで「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょう。今まではすべての人に対して救いのメッセージを語ってきました。でも今は愛する者たちだけに、本当に言いたいことを伝えようとしていました。それは、「わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ということでした。どういうことでしょうか?

 

「わたしが行くところ」とは、父なる神のところ、天の御国のことです。イエスはかつてユダヤ人たちに、「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われましたが、それを弟子たちにも言われました。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ただユダヤ人たちに言った時と違うのは、今はついて来ることができないが、後にはついて来るということでした。(36)なぜ今はついて行くことができないのですか。なぜなら、まだその場所が用意されていないからです。ですから、イエスが行って、彼らのために場所を用意したら、また来て、彼らをご自分のもとに迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。しかし、ユダヤ人たちはそうではありません。彼らは今ついて行くことが出来ないというだけでなく、後もついて行くことができません。なぜなら、イエスを信じなかったからです。イエスの弟子たちはその後も大きな失敗をしでかします。ペテロに至っては、イエスを知らないと三度も否定するという罪を犯しますが、それでも悔い改めてイエスを信じたことですべての罪が聖められたので、イエスの行かれるところ、天の御国に行くことができるのです。

 

そのことを前提として、イエスは大切なことを語られます。それが34節と35節の御言葉です。ご一緒に声に出して読みましょう。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

もうすぐ彼らからいなくなるという直前に、いわば遺言のように語られたのがこの言葉です。イエス様は彼らに新しい戒めを与えられました。それは、「互いに愛し合いなさい。」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。どうしてこれが新しい戒めなのでしょうか。旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならないという戒めがありました。たとえば、レビ記19:18には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:8 )とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずです。いったいどういう点で、これが新しい戒めなのでしょうか。それは、どのように隣人を愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。では、イエスが愛したように愛するとはどういうことでしょうか。

 

私たちはこの少し前にその模範を学びました。それはイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。そのとき主は何と言われたかというと、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)と言われました。イエス様はそのことによって、愛するとはこういうことなのだということの、模範を示してくださったのです。それは最も高いところにおられた神ご自身が、人として現れてくださり、仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われたということを意味していました。そのように愛するのです。つまり、自分を捨てて兄弟姉妹に仕えるということです。自分を愛するようにではありません。自分を捨てて愛するのです。自分を捨てると口で言うのは簡単なことですが、いざこれを実行しようと思うと大変なとこです。できません。ですから、イエスはこの後で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)と言われたのです。これが愛です。これより大きな愛はありません。そのような愛で互いに愛し合いなさいと言われたのです。

 

とてもじゃないですが、そんなことできるはずがないじゃないですか。私たちも愛が一番大切だとか、最後は愛が勝つなんて言っていますがそれはただの口先だけであって、結局最後はみんな自分がかわいいのです。だから嫌になったり、都合が悪くなったりすると、「や~めた」となるんじゃなるのです。それが自然ですよ。人間は自分を捨てるという愛を持ち合わせていないのです。

 

そうなんです。ですからこの新しい戒めを、それだけの意味として捉えるとしたら、それは人間の道徳の教えの領域にとどまってしまうことになります。しかし、イエスがここで言いたかったのは単なる愛の模範ということではなく、私たちが互いに愛し合うための源がここにあるという意味で語られたのです。それが「わたしがあなたがたを愛したように」という意味です。弟子たちはその愛を見ました。彼らはただ愛の教えを聞いただけではなく、実際に見て、触れて、体験しました。そのキリストの愛を模範にして、互いに愛し合うことが、ここでイエスが与えられた新しい戒めだったのです。それは、キリストの十字架の死によって示された神の愛を受けた者にだけできる愛です。神はそのために力を与えてくださいました。それが神の霊、聖霊です。

 

ローマ5:5には、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。聖霊によって神の愛が注がれています。あなたがイエス様を救い主として信じた時、その瞬間に、イエス様があなたの心の内に来てくださいました。どのように来てくださったんですか?聖霊によってです。聖霊はキリストの霊、神の霊です。イエス様を信じた瞬間に、この聖霊があなたの心に住んでくださいました。これがクリスチャンです。クリスチャンとは、神の霊、聖霊を持っている人です。今までは持っていませんでした。今までは罪があったので神がお住になることができませんでしたが、イエス様を信じたことですべての罪が取り除かれ、賜物として聖霊が与えられました。この聖霊が私たちを助け、愛する力を与えてくださいます。聖霊があなたを内側からイエス様と同じご性質を持つ者に変えてくださるのです。その性質とは何でしょうか。愛です。

 

ガラテヤ5: 22~23をご覧ください。ここには、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。御霊の実は「愛」です。ですから、キリストを信じた者はみな、イエス様のように愛の人に変えられていくのです。自動的に変えられるわけではありません。また、信じた瞬間にすぐに変えられるというわけでもありません。信じた瞬間に全く怒らなくなったとか、いつもニコニコしていて、問題にも全く動じなくなったとか、もう何でも赦してくれる!となればすごいですが、現実にはそういうわけにはいきません。むしろ、本当に自分はイエス様を信じているのだろうかと、自分を疑いたくなるような醜い性質が頭をもたげることが多いのですが、しかし、神の御霊が与えられるなら、少しずつ愛の人に変えられていきます。植物の種が蒔かれると、必ず実を結びます。時間はかかりますが、やがて実を結ぶようになるのです。御霊の実も同じで、あなたの心に信仰の種が蒔かれると、あなたの心に神の御霊が宿り、神の愛があなたに注がれるようになるのです。そして、やがて御霊の実を結ぶようになります。愛の人へと変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによるのです。

 

いったいなぜイエス様は、互いに愛し合うようにと命じられたのでしょうか。35節をご覧ください。それは、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになるからです。もし私たちが自分を低くして互いに愛し合うなら、それによって、信仰のない周りの人たちが「ああ、あの人たちはキリストを本当に信じている人たちなんだ」「クリスチャンってすごいなぁ」と言って、神を認めるようになります。すなわち、神を信じるようになるのです。どんなに私たちがイエス様は主ですと叫んでも、互いにいがみ合ったり、憎み合ったりしているなら、だれも本気にしないでしょう。私たちがキリストの命令に従って互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であるということを、すべての人が認めるようになるのです。

 

以前紹介しましたが、奥山実先生が今回の新型コロナウイルス感染症について、フェイスブックに投稿された記事を見ましたが、アーメンでした。混乱のただ中にある武漢市で、クリスチャンらは黄色い防護スーツを来て犠牲的な奉仕をしました。彼らは無料のマスクとともに福音のトラクトを配布したのです。それによって多くの人々、役人や警官たちさえも、クリスチャンの真実の姿に敬服し評価し始めているとの情報もあります。武漢ではこの困難が永遠に変わらぬ希望の福音を宣べ伝える機会となっています。

私たちの希望はいつも暗闇の中にこそ輝くのだということを覚え、彼らのために祈りたいと思います。この混乱が、一見脅威と思えることではありますが、中国のみならず、この国の人々にとっても、真実に信頼に足るものが一体何であるのかを示す機会になるのだと信じて疑いません。

私たちの信じている神様はこの困難の中にあって、こま国においても大きな霊的祝福をもたらすことのできる方だと信じます。ともに祈りましょう。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。そのやみの中でこそ、私たちクリスチャンの真価が問われているのです。それが互いに愛し合うということです。イエス様が愛したように互いに愛し合うこと、それを実行することによって、すべての人がイエスを認めるようになるのです。

 

Ⅲ.最後まで愛されるイエス(36-38)

 

最後に、36節から38節までをご覧ください。

「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 

シモン・ペテロは、キリストの一番でしたが、彼は、イエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(33)と言われたことがよく理解できませんでした。それで、イエス様に尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか。」

するとイエス様は、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と答えられました。これは先ほど言ったように、天国のことです。イエス様は、父なる神のみもと、天国に行かれます。今は来ることができませんが、しかし後にはついて来ます。

 

この言葉のとおり、ペテロは後にイエス様のもとに行きました。ローマ皇帝ネロの大迫害のとき、ペテロはローマで処刑されました。当時、ローマの処刑法は十字架刑でしたが、彼は主と同じ姿では申し訳ないと逆さにしてくれるように頼み、逆さ十字架につけられたと言われています。でもペテロは、そのときはわかりませんでした。イエス様が言われたことがどういうことなのか。それでイエス様に尋ねました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」ペテロらしいですね。彼は直情的な人間でしたから、あなたのためならいのちを捨てます!と啖呵を切ったのです。これは彼の本心だったでしょう。彼は本当にイエス様を愛していました。いのちをかけるほど愛していた。だからこそ、漁師という仕事を捨てでまで従ったのです。

 

でもどうでしょう。私たちはこの後でどんなことが起こるのかを知っています。イエス様が十字架につけられるために捕らえられると、彼はイエス様を知らないと言うようになります。イエス様はそのことも全部知っておられ、その上でこのように言われました。38節です。

「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

「まことに、まことに」とは、大切なことを言われる時に使われたことばです。ペテロよ、あなたはわたしのためにいのちを捨てるというのですか。わたしはあなたに言います。あなたは、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言います。マルコ14:31には、「ペテロは力を込めて言い張った。」とあります。絶対にそんなことはない!彼はそのように言い張りました。三度目にはのろいをかけてまで誓ったとあります。しかし、その後で彼はイエス様が言われたように、三度イエスを知らないと言いました。これが人間の弱さです。私たちはどんなに誓っても、最後までそれを貫くことは並大抵のことではありません。。イエス様はそういうことを重々承知の上で、彼を愛されました。ルカ22:31~32には、イエス様が彼にこのように言われたことが書いてあります。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

さまざまな問題によって、あるいはサタンの攻撃や困難、迫害によって、信仰を失いそうになることがあります。でも、イエス様は決して見捨てることはなさいません。それは私たちの信仰が強いからではありません。イエス様が祈っていてくださるからです。イエス様は、ペテロの信仰が無くならないように祈ってくださいました。あなたが信仰にとどまっていられるのも、イエス様が祈ってくださったからです。救われたのもそうです。だれかが陰で祈ってくれたからです。そして何よりもイエス様ご自身が祈ってくれました。今でもとりなしていてくださっています。それは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるためです。確かにペテロはイエス様を三度も否定しました。しかし、イエス様がよみがえられて、彼の信仰を回復させました。そして信仰を回復させていただいた彼は教会の指導者として立てられ、多くの人々を励まし、死に至るまで忠実にキリストに従うことができました。

 

イエス様は、私たちの弱さも知っておられます。失敗することもすべて知っておられます。その上で愛してくださったのです。私たちの過去だけでなく、今も、そしてこれからもそうです。それでも私たちをあきらめることをせず、最後まで愛してくださるのです。

 

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。イエス様はあなたの罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。まだ信じていらっしゃらない方は、信じてください。そうすれば、すべての罪は赦され、イエス様が行かれたところ、天の御国に入れていただくことができます。永遠のいのちが与えられるのです。

 

もう信じているという方は、すでに救われています。だんだん救われて行くのではなく、信じた瞬間に救われました。もうすべての罪が赦されました。ただ足は洗わなければなりません。足を洗うってどういうことでしたか?日々の歩みの中で犯した罪を悔い改めるということでしたね。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。赦されない罪などありません。聖霊を冒涜する罪、すなわち、イエスを信じないという罪以外は、どんな罪でも赦されます。どうぞこのことを覚えておいてください。長い信仰生活にはいろいろなことがあります。いろいろな問題が起こってきます。健康の問題、結婚の問題、子育ての問題、仕事の問題、人間関係の問題、本当にいろいろな問題が起こります。あるいは、自分自身のことで大きな失敗をしでかすかもしれません。しかし、それがどんな問題であっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。むしろ、そうした問題は、あなたがもっと神の愛を体験する良い機会として、神が与えておられるのかもしれません。問題そのものは辛いことですが、その問題の中で神に祈り、御言葉を読み、イエス様と交わることによって、さらに深く神の愛を体験することができます。主は、決してあなたを離れず、あなたを捨てません。ですから、この神の愛にしっかりとどまりましょう。キリストの恵みにとどまり続けましょう。そして、イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。その愛に心から応答したいと思うのです。

暗闇から光へ

2020年3月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章21~30節(P212)

タイトル:「暗闇から光へ」

 きょうは、きょうはヨハネ13章21~30節から「暗闇から光へ」というタイトルで話しします。

Ⅰ.心が騒いだイエス(21)

まず、21節をご覧ください。

「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

「これらのこと」とは、その前のところでイエスが語られたことです。イエスは「わたしのパンを食べる者が、わたしに向かってかかとをあげます。」という聖書のことばを引用して、ユダが自分を裏切ることについて、前もって語りました。イエス様は、これらのことを話されたとき心が騒ぎました。なぜ騒いだのでしょうか。それは、イスカリオテのユダが自分を裏切るということを知っておられたからです。いや、イスカリオテのユダが裏切るだけでなく、そのことを悔い改めなかったからです。その結果、彼が永遠に滅びてしまうことを思うといたたまれなかったのです。その心の深い部分で、霊の憤りを感じ、心が騒がずにはいられませんでした。

イエスは弟子たちを愛しておられました。当然、ユダのことも最後まで愛しておられました。そして彼の足さえも洗ってくださいました。イエスはこれまで何度もご自身を裏切る者がいると警告し、悔い改めを促してこられました。ヨハネは、このユダの裏切りについて、主が3度も語っておられたことを記しています。たとえば、6章ではいのちのパンの説教の後、「わたしがあなたがた12人を選んだのではありません。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」(ヨハネ6:70)と言われました。これはイスカリオテ・ユダのことです。イエスは、ユダのことを指してこう言われたのです。

また、このちょっと前にありますが、主が弟子たちの足を洗われた時も、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(13:10)と言われました。これはユダのことです。ユダはきよめられていませんでした。

さらに、この18節、19節でも、主は旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることは成就する、と言われました。

このように、イエスは弟子たちの中にご自分を裏切る者がいるということを何度も語られ悔い改めるように促してきたのに、彼はそれを受け入れませんでした。3年余り主のそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということはどんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果、永遠に滅びてしまうことを思うと、霊の憤りを覚え、心を騒がせずにはいられなかったのです。それでこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

これで4度目です。ここでは「まことに、まことに」と言っておられます。これは本当に重要なことを語られる時に使われる言葉です。それは、ユダに対して、今からでも遅くはない。だから何とか悔い改めてほしいという、主の痛いほどの思いが込められていることがわかります。

それは、このユダだけに言えることではありません。私たちにも同じです。大切なのは、何をしたかではなく、何をしなかったかです。私たちもすぐに主を裏切るような弱い者であり罪深い者ですが、それでももし、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるということを忘れてはなりません。そして、罪が示されたなら、悔い改めなければならないのです。主は赦してくださいます。今からでも決して遅くはありません。もし、あなたが罪を持っているならユダのように頑(かたくな)にならないで、悔い改める者となりましょう。

Ⅱ.イエスの懐で(22-25)

次に、22~25節をご覧ください。22節には「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」とあります。マタイ26:22には、「弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。」とあります。彼らは大変ショックでした。まさか自分のことではないだろうと、自分さえも疑ったほどです。

23節、24節を見てください。それで、弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていたので、ペテロは彼に、だれのことを言われたのかを尋ねるように合図をしました。どういうことかというと、これは最後の晩餐でのことですが、最後の晩餐とは言っても、当時はレオナルド・ダヴィンチの絵にあるようにテーブルを囲んで皆が椅子に座って食べていたわけではありません。当時はコの字型のテーブルに左ひじを付いて、横になって食べました。テーブルを囲んで、主人は左から2番目に座りました。一番左、すなわち、主人の右側に座っていたのがヨハネです。主人の右側には、主人が最も信頼する人が座ることになっていました。それがヨハネだったのです。また、主人の左側はゲスト席となっていましたが、そこに座っていたのがイスカリオテのユダでした。そこから弟子たちが順に座り、一番左の端に座っていたのがシモン・ペテロだったのです。彼はテーブルをぐるっと回って、向かい側の一番しもべの席に座っていました。ですから、ヨハネから見ると向かい側にいたので、お互いに顔をよく見ることができたのです。そこでペテロはヨハネに、だれのことを言われたのか尋ねるようにと合図をしました。おそらく声を出さないで、目くばせか何かで合図したのでしょう。あるいは、口パクだったかもしれません。「だれのことをいわれたのか聞いて・・・」ヨハネはどこにいましたか?ヨハネはイエス様の右側にいました。右側で横になっていたので、ちょうどイエス様の胸の辺りで横になっているように見えたのです。

イエス様の右に座るというのは、イエス様に最も信頼された者であるという証です。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスが愛しておられた弟子である。」別にイエス様は彼だけを愛しておられたわけではありません。弟子たちみんなを愛しておられました。いや、弟子たちばかりでなく、私たちすべての人を愛しておられました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)

イエス様はみんなを愛しておられます。それなのに彼は、自分のことを、イエスが愛しておられた弟子であると言っているのです。このように言える人は幸いです。なぜなら、そこに真の平安を得ることができるからです。そうでしょ、もし自分がだれからも愛されていないと感じていたら不安になってしまいます。また、あの人から憎まれ、この人から嫌われていると思ったら悲しくなってしまいます。ヨハネは、自分はイエス様に深く愛されていることがわかっていました。でもそれはヨハネだけではありません。すべての人に言えることです。ただ彼はそのように実感することができました。なぜでしょうか。それは単に彼がイエスの右側に座っていたからというだけでなく、イエスの愛がどのようなものであるのかをよく知っていたからです。彼はこう言っています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

どこに愛があるんですか。ここにあります。神がそのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪のために、宥めのささげ物として死んでくださったことにあるのです。神は、私たちが愛される資格があるから愛したのではありません。そうでなくても、そうでないにもかかわらず愛してくださいました。私があれができる、これができるから愛してくださったのではありません。もしそうだとしたら、それができなくなったらもう愛される資格はなくなってしまうことになります。でも、神の愛はそういうものではありません。私たちがまだ神を知らなかった時、神のみこころにではなく自分勝手に生きていた時に、聖書ではそれを罪と言いますが、そんな罪人であったにもかかわらず、神は愛してくださいました。

聖書に、放蕩息子のたとえ話があります。ある人に二人の息子がいました。弟のほうが父に、「お父さん、財産の分け前を私にください」と言いました。それで、父は財産を二つに分けてやりました。すると、それから何日もたたないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たした後でその地方に大飢饉が起こり、彼は食べることに困り果ててしまいました。いったいどうしたらいいものか・・・。そこで彼はある人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時、はっと我に返った彼は、父のところに行ってこう言おうと決心します。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

すると父親はどうしたと思いますか。息子が立ち上がって、父のもとに向かうと、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って、彼を抱き、何度も口づけしました。息子が父親に、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたに対して罪を犯しました。もうあなたの子どもと呼ばれる資格はありません。」と言うと、父親は彼に一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつを履かせました。そして肥えた子牛を引いて来てほふり、食べてお祝いしたのです。

この父親は天の神様の姿です。そして、弟息子は、私たち人間、一人一人のことです。私たちは神から愛される資格などありませんでした。むしろ、神に反逆し、自分勝手に生きていました。それにもかかわらず神はあわれんでくださり、赦してくださいました。救われるはずのない私たちを救ってくださったのです。救ってくださっただけでなく、ずっとその愛で愛してくださいます。私たちがどんなに罪を犯しても、神のもとに立ち返るなら、神は赦してくだるのです。神の愛は変わることがありません。私たちはそんな愛で愛されているのです。これが私たちキリストを信じた者たち、クリスチャンです。

ヨハネはそこに座っていました。座っていたというか、横たわっていました。それはちょうどイエス様の懐に抱かれているようでした。彼はイエス様の心臓の音を聞いたと言われていますが、まさに彼はイエス様の心臓の音が聞こえるくらい、イエスのそばにいました。彼はそのように自覚していたのです。そこに彼の安心感があったのです。

あなたはどうですか。イエス様の心臓の音を聞いていますか。イエス様のハートが届いていますか。だれも自分のことなんか愛してくれないとか、みんな自分を嫌っていると思っていませんか。そう思うと人間関係が非常に難しくなります。だれからも愛されていないと感じることがあっても、イエス様はあなたを愛しておられます。あなたもイエスの心臓の音を聞くべきです。あなたがいるべき所は、イエス様の胸元なのです。そこでイエスの愛を感じ、安心感を持っていただきたいと思うのです。

Ⅲ.暗闇から光へ(26-30)

最後に、26節から30節までをご覧ください。26節には、「イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。」とあります。イエスは、「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と言われましたが、その後のところを見てもわかるように、それでも弟子たちには、それがだれのことを言っているのかがわかりませんでした。というのは、当時の習慣では、このように過越の食事において、パン切れを浸して渡すという行為は、主人がゲストをもてなしたり、給仕したり、親しみを示すものであったからです。ですから、だれもイエスがしていることを見て、ユダがイエスを裏切ろうとしているとは思わなかったのです。ということはどういうことかと言うと、イエスは最後の最後まで、ほかの弟子たちにはわからないように、彼の罪をみんなの前であばき出すようなことをせず、しかも本人には分かるような方法で、悔い改めを迫る愛の訴えをし続けておられたということです。イエスは最後まで彼をあわれみ、愛と恵みを示されたのです。

しかし、彼はイエスの御言葉に耳を貸そうとはしませんでした。27節をご覧ください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」とあります。すごい言葉です。「サタンがはいった」ユダは主の愛と恵みを完全に拒んで、パン切れだけを受け取りました。そのとき、サタンが彼に入ったのです。サタンは最初、彼の思いに働きかけました。2節には「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを与えていた。」とあります。そして、この最後の晩餐において、主の最後の愛の訴えがなされましたが、ユダがそれを拒んだことで、サタンが彼に入ったのです。どういうことですか?サタンが入るということがあるんですか。あります。どんな人でも、主の愛の訴えを拒み続けるなら、自分では意識していないかもしれませんが、実はそこに巧妙なサタンの働きがあって、その働きに支配されてしまうことになるのです。

ですから、イエスは彼にこう言われたのです。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」もうこれ以上、望みはないということです。彼はイエスよりもサタンを選んでしまったからです。主が彼を見捨てられたから、彼が悪魔の道を選んだのではありません。彼が主の愛を最後まで拒んだので、その結果、見捨てられることになってしまったのです。このことは、私たちにも言えることです。主は何度も悔い改めなければ危険であること、そのままでは最後の裁きに会わなければならないということを、手を変え、品を変え、繰り返して語っておられます。ユダの場合のように直接的にではなくとも、ある時には聖書を通して、ある時にはクリスチャンの友人を通して語り掛けてくださっています。このようにして悔い改めのチャンスを与えてくだっているのです。しかし、それを永久になさるわけではありません。後ろの扉が閉ざされる時がやって来るのです。ですから、もしあなたが、その愛の訴えを頑なに拒み続けるなら、あなたは自分で悪魔を選び取ってしまうことになるのです。そして、もはや救いの望みは完全に断たれてしまうことになります。

それが30節にあることです。ここには、「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」とあります。ほかの弟子たちは、ユダが裏切るために出て行ったとは思いませんでした。というのは、彼は会計係だったので、祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていたからです。しかし、そうではありませんでした。彼はイエスを裏切るために出て行ったのです。彼が出て行った時、外はどうなっていましたか?時は夜でした。新改訳第三版では、「すでに夜であった。」とあります。すでに夜であったとは言っても、過越の食事は夕食ですから、夜であるのは当然です。それなのに、ここにわざわざ「時は夜であった」とあるのは、それが単に時間的な状況を伝えたかったからではなく、彼の心の状態、彼の心の闇を強調したかったからなのです。イエスは最後までユダを愛し、悔い改める機会を与えておられたのに、彼は出て行きました。外はすでに夜だったのです。夜は不安です。でも、どんな不安や恐れがあっても、必ず朝がやって来ます。朝太陽が昇ると、あれほど不安だった夜が、嘘のようにすべてが消えて行きます。でも想像してみてください。朝が来ない夜というのを。太陽が昇って来ない朝を。繰る日も繰る日も真っ暗闇です。それがずっと続くとしたらどうでしょうか。恐ろしいですね。でもそれがキリストから離れた人の状態です。キリストから出て行ってしまった人の状態なのです。そこは永遠に光を見ない外の暗闇です。そこで泣いて歯ぎしりするのですと、聖書は言っています。そこで永遠を過ごさなければならないのです。

しかし、キリストを信じた人は違います。その暗闇から光の中に移されます。コロサイ1:13~14に、このように書かれてあります。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」

神は私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子のご支配の中に、光の中に移してくださいました。どのように移してくださったのですか?「この御子にあって」です。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。イエス・キリストにあって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちをいただいたのです。

あなたはどうですか?まだ暗闇の中にいませんか。もう生きる望みもない。何を頼っていいのかわからない。今まで望みだと思っていたものが消えてしまった。いったいこれから何を頼って生きていけばいいのか。この世が作り出す望みはそんなものです。得たと思ったらすぐに消えてしまいます。しかし、神は私たちに生ける望みを与えてくださいました。神はそのひとり子をこの世に遣わし、あなたの罪の身代わりとして、そして私の罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。この方がイエス・キリストです。キリストは、死の恐怖に打ちひしがれていた人たちを解放し、罪の奴隷として、これはやってはいけないとわかっていてもついつい行い、みじめになっている私たちをそこから救ってくださいます。自分ではどうすることもできない悪の支配にあって、そこから解放してくださいます。この方にあって私たちは、罪の赦し、永遠のいのちを受けることができるのです。暗闇から光へと移されるのです。

ただ移されるというだけではありません。ずっとその光の中を歩むことができます。イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。」(13:10)と言われました。水浴した者は、風呂に入ったら、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。足だけ洗ってもらえばいいのです。これは毎日です。私たちの足は汚れます。だから、毎日洗ってもらう必要があります。罪があると祈ることができなくなります。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。もう光の中へ移されたからです。罪を思い出させる涙の夜は去り、笑みと感謝の朝を生きることができるのです。

きょうは、この後で美香さんとあかねさんのバプテスマ式が行われますが、それは、主イエス・キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しを得ていることを表しています。暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移されました。もう闇の中ではなく、光の中を歩むのです。

それは私たちも同じです。私たちも、キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しをいただきました。もはや闇があなたを支配することはありません。私たちは光の中を歩むのです。どんなことがあっても、主はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたはイエス様に愛された者、イエス様の懐に抱かれた者なのです。後は、足だけ洗えばいい。日々汚れた足を洗ってもらい、聖霊によって日々きよめられながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきましょう。

与えられた恵みに従って

聖書箇所:ローマ人への手紙12章3~8節

タイトル:「与えられた恵みに従って」

 きょうは「与えられた恵みに従って」というタイトルでお話したいと思います。このローマ人への手紙は1~11章までの部分と、12章から終わりまでの部分の二つに分けられます。パウロは1~11章までの部分で、人はいったいどうしたら救われるのかということについて明確に語ってきました。それは、信仰によってということです。人はただイエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。イエス様を信じる以外に救われる道はありません。ただイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによってのみ救われるのです。これが福音です。では、そのようにして救われた人はどのように生きるべきでしょうか。パウロは続くこの12章から、クリスチャンの具体的な生き方について語るのです。前回は、その大前提となるべき献身について学びました。すなわち、キリストの救いの恵みにあずかった人は、当然のこととして自分を神様にささげるべきだということです。その献身を土台としてパウロは、その上に築き上げられていくべき具体的な生き方について語るのですが、その一つのことがきょうの箇所で教えられていることです。3節をご覧ください。ここには、

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとり言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

とあります。すなわち、クリスチャンは自分に与えられた恵みによって、キリストのからだである教会の中で、思うべき限度を越えて思い上がるのではなく、神がそれぞれに与えてくださった信仰の量り、その賜物に応じて慎み深く歩まなければならないのです。

 きょうは、このキリストのからだである教会で仕えることについて三つのことをお話したいと思います。第一に、慎み深い考え方とはどういうことなのでしょうか。第二に、なぜクリスチャンはそのように考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。第三に、では私たちにはどんな恵みが与えられているのでしょうか。その与えられた恵みの賜物について見ていきたいと思います。

 Ⅰ.慎み深い考え方をしなさい(3)

 まず、慎み深い考え方をするとはどういうことなのかについて見ていきたいと思います。3節をご覧ください。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

 パウロはここで、キリストを信じて救われたクリスチャンは、だれでも、思うべき限度を越えて思い上がるべきではなく、むしろ、信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさいと勧めています。いったいこれはどういう意味なのでしょうか?この「考え方をしなさい」という言葉は本来、心を意味する言葉と関係のある語で、人の持っている傾向性を表す言葉です。ですから、「慎み深い考え方をしなさい」というのは、健全な思いを持ちなさいということであって、消極的で、引っ込み思案な態度を持つようにということではありません。これはちょうど「思い上がる」という言葉と対照的な言葉です。どういう態度が思い上がった態度なのかというと、思うべき限度を越えた態度です。神様がそれぞれに分け与えてくださった信仰の量りを越えてしまうことが思うべき限度を越えた態度であり、傲慢な態度であり、不健全な姿なのです。クリスチャンとしての健康な姿というのは、ただ謙遜であるというだけでなく、信仰的な考え方を持つことです。これがいわゆる一般の社会で言われている謙遜とは少し違っている点でしょう。一般の社会でも謙遜であるようにと教えられていますが、聖書で言う謙遜というのはただ自分を低く考えるだけでなく、それに「信仰」という要素を加えなければならないのです。「信仰の量に応じて」、慎み深く考えなければなりません。

 では、「信仰の量りに応じて」とは何でしょうか?「信仰の量り」とは、クリスチャンそれぞれに与えられた信仰の程度のことです。私たちはみな神様から与えられている賜物や程度が違うので、その程度に応じて奉仕しなければなりません。それは多く与えられている者が、少ししか与えられていない者よりも偉いということではありません。多く与えられた者も少しだけ与えられた者も、それが神様から与えられた恵みであると感謝して、キリストのからだである教会を建て上げていくためにその与えられたものを忠実に用いていかなければならないということです。

 マタイの福音書25章14~30節のところには、タラントのたとえが書かれてあります。

「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。

同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。」

 この1タラントを預けられたしもべの問題点はどこにあったのでしょうか。忠実でなかったことです。彼は、預けられた1タラントを土の中に隠しておいて、それを用いようとしませんでした。神様の関心はどれだけのタラントを預けられているかではなく、その預けられたタラントをどのように用いたかです。ですから見てください。5タラントあずけられたしもべも、2タラント預けられたしもべも、その与えられたタラントに対して忠実であったとき、神様は彼らに同じ祝福の言葉を言っています。どれだけ与えられたかではなく、それをどのように用いるのかが問われている。信仰の量りに応じて、慎み深く考えるというのは、こういうことなのです。これが健全なクリスチャンの心、考え方なのです。

 羽鳥明先生はこの箇所の注解において、次のように言っています。

「霊的奉仕のための第一の条件は、真実の謙遜である。これは自己卑下ではなく、各自に与えられた力、生涯についての神のみこころというものを、間違いなく評価することにかかわっている。与えられた力を過小評価することは、過大評価することとほとんど全く同じで、奉仕の実質的生涯にとって、致命的である。」

つまり、本当の謙遜とは、与えられた霊的賜物を用いて神と人に仕えることであるというのです。ですから、「慎み深い考え方」をするというのは、決して「自分はだめだ、できない」と考えることではなく、それら与えられた霊的賜物がみな神から与えられたものであることを感謝して用いることなのです。

 考えてみますと、私たちは神様の恵み、キリストの十字架と復活の力をほかにして、なんと小さな、なんと弱い、なんとみじめな者でしょうか。しかしそんな者を神様は愛して、選んで、きよめて、聖なる者としてくださいました。そして、信仰の程度に応じて、賜物を与えてくださったのです。私たちは人を支配し、人から偉そうに思われたり、人の上にあぐらをかくような思い上がった態度からではなく、与えられた賜物に応じて、信仰の程度にしたがって、互いに仕え合っていかなければならないのです。

 パウロはここで、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。」と言っていますが、これはそういう意味です。パウロは、自分がクリスチャンとして今こうして生かされているという現実を思う時、それはただ神の救いの恵み以外の何ものでもないという意識に立ちながら、そのような自分が指導者として、あるいは教師として立てられているのは、ただ神の恵みによって与えられた権威によるものであると自覚していたのです。教会においては、だれひとりとしてほかの人に要求できる資格のある人などいません。みんな赦された罪人にすぎないからです。しかし、そんな者であるにもかかわらず、そうした勧めができるとしたら、それは神様から一方的に与えられた恵みでしかないのです。そのことをわきまえながら、与えられた賜物を用いて互いに仕え合うこと、それが慎み深い態度であり、真に謙遜なクリスチャンの姿なのです。

  私たちはこのことを忘れてはなりません。このことを忘れてしまうと、思い上がってしまうことになります。慎み深い、健全な考え方を持つことができず、傲慢になったり、逆に不信仰になったりし、ほかの人をさばいてしまうことになり、いわゆるトラブルメーカーになってしまうのです。「私たちに与えられている賜物はすべて神からの恵みである」と思うこと、それが慎み深い考え方であり、信仰生活のすべてなのです。

 Ⅱ.キリストにあって一つのからだ(4-5)

 第二に、なぜクリスチャンはそのように考えるべきなのでしょうか。なぜなら、私たちはキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官だからです。4,5節をご覧ください。

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」

 パウロはここで、教会を「一つのからだ」という言葉で表現しています。教会はキリストのからだなのです。教会がキリストのからだであるというのは、どういう意味でしょうか?それは第一に、キリストと教会は一体であるということです。つまり、教会はキリストのいのちによって成り立っているということです。ですから、キリストなしに教会は生きることはできないのです。

 第二のことは、そこには多くの器官がありますが、一つに結びついているということです。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、大勢いる私たちもそれと同じなのです。からだのすべてが目だったらどうなるでしょうか?想像しただけでも気持ち悪いですね。見ることはできたとしても、ほかのことは全くできません。体の中には目もあれば耳もあり、口もあれば鼻もあり、手もあれば足もあります。そうした一つ一つの器官が一つとなってはじめてからだとしての健全な営みができるというか、健全に機能していくわけです。それはちょうど目が見るという働きを、目だけのためにしているのではなく、耳や口や鼻や手、足など、からだのほかの部分のためにしているのだということです。それと同じように、私たちクリスチャンも、教会のほかの人々のために仕えるために存在しているのです。

 右の手がかゆくなると、右の手ではかけません。そこでどうするかというと、左の手でかくわけです。知らず知らずのうちに動いてちゃんとかいているんですね。不思議です。左の手が、「私はかきません。私は私です」と言ったことがあるでしょうか。手がある時ストライキを起こして、「おれは口さんのためだけに存在している。おいしい食べ物を口に運ぶ時にだけ動くのであって、それ以外は動きたくない」なんて言うでしょうか?言いません。私たちはお互いを必要としているのであって、お互いのために働いているのです。靴のひもを結ぶ時には、身をかがめて結びます。私たちはキリストの体につながった一つのからだとして、ある人は手のようです。ある人は足のようです。ある人は口ばっかりのようです。ある人はあってもなくてもいいような爪のようです。しかし、そんな爪でもないと大変なんです。シールを剥がそうとしても剥がれません。また、爪を剥がそうとしたら痛いですよ。爪がなかったら大変なんです。盲腸はなくてもいいと昔からよく言われていますが、あれもないと困るらしいのです。私は昨年胆石が見つかって胆嚢摘出手術を受けようとしましたが、怖くなって入院した翌日に病院から逃げ出しました。医師は、胆嚢はなくてもいいと簡単に言うのですが、なくてもいい臓器などあるのかと不安になり、まだしばらくそのままにしておくことにしたのです。結局、あれから何年か後に別の病院で摘出しましたが・・・。

 皆さん、なくてもいい器官などありません。どんなに小さな器官でも必要とされています。それは教会におけるほかの人々のために、与えられた賜物をもって仕えるためです。このことが本当にわかったら、奉仕の喜びも増してくるはずですし、教会は一致して大きく前進していくのではないでしょうか。

 Ⅲ.異なった賜物(6-8)

 では、私たちにはどのような賜物が与えられているのでしょうか。最後に、私たちに与えられている賜物のリストを見ていきたいと思います。6~8節をご覧ください。

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

 私たちは与えられた恵みに従って、異なった賜物が与えられています。それはどういうことかと言いますと、人が生来持っている才能とは区別されるものであるということです。もちろん、生来の才能も聖霊によって用いられることもありますが、これはあくまでも恵みによって与えられている賜物であるということです。聖霊によって全く造り変えられた人が、超自然的なわざを行うために与えられる恵みの賜物なのです。神様は私たちひとりひとりに、それぞれ異なった賜物を与えておられるのです。ここにはその中のおもなものとして七つの賜物が挙げられています。

 まず「預言」です。「もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。」とあります。預言というのは、読んで字のごとく、神のことばを預かるということです。これは将来のことを予言することではありません。もちろん、そのことも含みますが、もっと広い意味での預言です。それは、神のことばによって預言することです。ですから、それは将来のことだけでなく、現在のことも、すべてのことを含みます。簡単に言うと、神の言葉に仕える賜物です。神様から預かった御言葉を、わかりやすく伝える賜物のことです。これは賜物によるのです。

 二つ目は「奉仕」です。別の訳には「仕える賜物」とあります。貧困者や病人を助けて、その人々に仕える働きとも考えられますが、むしろ、この賜物は他の人が主導する宣教の働きを助ける賜物のことでしょう。この賜物を受けた人は、一人でしなさいというと、うまくできませんが、指導者の下で働くと自分の持っている以上の力を発揮することができます。これは私たちが通常、スタッフとか、助け手、同労者、などと呼ばれる人たちが受けている賜物で、極めて重要なものです。

 出エジプト記17章に出てくるアロンとフルもそうでした。その時イスラエルはアマレクと戦争をしていましたが、モーセが手をあげて祈るとイスラエルが優勢になり、手を下げると劣勢になります。ですからモーセはずっと両手を挙げていなければならないのですが、経験のある方はご存知のように、ずっと手を挙げているのは苦しいのです。モーセもそうでした。そして手が下りて来ると劣勢になるのでどうしようかと思っていたとき、その両手を支えたのがこのアロンとフルでした。彼らは一人がモーセの右の手を、もう一人がモーセの左の手を持って支えたので、イスラエルは勝利することができたのです。これが奉仕の賜物です。

 三つ目は「教える人」です。教える賜物とは、聖書の言わんとしていることを説き明かす賜物です。ある面で預言の賜物と似ていますが、預言の賜物との違いを強いて言うならば、預言の賜物が霊的力をもってみことばを語るのに対して、この教える賜物はみことばを理解させる力です。難解なみことばをわかりやすく語り理解させることができます。

 四つ目は、勧めをする人です。「勧めをする人であれば勧め」とあります。この「勧める」ということばは、「慰め、励ます」という意味です。試練や苦しみに会って落ち込んでいる人がこの勧めの賜物を持った人に会うと勇気が与えられます。「死にそうだ」「苦しくて生きられない」という人が、この賜物を持った人と話して祈ってもらうと元気づけられるのです。逆に、この勧めの賜物とは全く逆のタイプの人もいます。元気づけるどころかかえって落ち込ませてしまう人もいます。そんなに重病でもない人を訪問して、「この病気は大変ですね。うちの親戚にも同じ病気にかかっていた人がいて、二ヶ月後には死んでしまいました」と言えば、その人がどんな気持ちになるかわかるものです。にもかかわらず、相手の気持ちを考えないで自分の思いで語ってしまう・・・。それは「勧め」とは全く反対のことです。私たちの語る一つ一つの言葉で相手が勇気づけられもし、落胆する場合があります。ですから、私たちはいつも人の徳を高めるような話に努めていきたいものです。伝道においては特にこのことに配慮していきましょう。

 五番目に出てくるのは、「分け与える人」です。分け与える賜物というのは、自分の持っている財を喜んで主や主の教会のためにささげる賜物のことです。これはお金があるからできることではありません。それは賜物です。お金の多い少ないに関係なく、神様が恵みを下さるときにだけ与えることができるのです。

 ヴァン・ダイクという作家の「大邸宅」という作品があります。その中にこのような意味深長な話が出てきます。ある金持ちが死んで天国に行きました。天国で自分の家に入ろうとしたら、そこは天井もろくにないぼろ家でした。それを見た金持ちが激怒して言いました。「なぜ私に、こんなぼろ家を下さるのか」そして横を見ると、とんでもない大邸宅がありました。その家の主人は、何と自分の家の隣に住んでいた貧しい医者ではありませんか。「神様、どうして私はぼろ家で、あの貧しい医者は大邸宅なんですか?」すると神様がこう言いました。「このすべての建築資材は、あなたが生きていた時に送ってきたものなのです。あなたが生きていた時には何の建築資材も送って来なかったけれど、あの医者は生きていた時、施しをし、献金をし、多くの人を助けて、あれほどの建築資材を送って来たのです。」これはもちろん作り話ですが、重要なメッセージがあると思います。

 イエス様は、「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」と言われました。(ルカ6:38)井戸は使えば使うほどどんどんきれいな水が出てくるように、私たちも神様のために、また多くの人を生かすためにお金や時間を投資するなら、神様はますます満ち溢れる祝福で満たしてくださるでしょう。そして、喜んで分け与えられる人がいます。これは賜物です。財産をどれだけ持っているかではなく、この賜物が与えられている人はどれだけ与えられていても、それを喜んで分け与えることができるのです。

 六番目は「指導する人」です。「指導する人は熱心に指導し」とあります。指導する賜物というのは、教会の群れを霊的に見守る人のことです。この指導する賜物を持った人が指導すると、平凡な器も有能な働き人に変えられます。特別な才能があるというわけでもないのに、あるいは特別な力があるわけでもないのに、このような指導者に指導されると、驚くべき力を発揮することができるのです。

 ダビデは、このような賜物を持っていました。Ⅰサムエル22章を見ると、ダビデがアドラムの洞窟に逃げ込んでいると、そこに四百人ものならず者が集まって来ました。借金を踏み倒して来た人、詐欺を働いて逃げて来た人、奥さんを捨てて来た人、憎しみにかられた人などです。世に言うクズのような人たちです。けれどもダビデはそういう人たちを訓練して、全イスラエルを統一するために用いたのです。ダビデは、この指導する賜物がありました。

 ここに出てくる最後の賜物は「慈善を行う人」です。この賜物は「あわれみの賜物」です。すなわちほかの人が苦しみにあるとき、この苦しみを自分のものと考える賜物です。ほかの人々の重荷を代わりに背負う心、苦しんでいる人をよく面倒みる姿勢のことです。しかし、これらがすべてではありません。聖書にはこれらを含めて27以上の賜物が挙げられています。

 ここに挙げられた賜物は、決して生まれながら持っている能力のことではありません。これは、教会が建て上げられ、成長していくために必要なものとして、主が教会に与えてくださったものです。それは主が恵みとして与えてくださったものですから、私たちはどのような賜物が与えられているのを見極め、あるいは、これらの賜物を切に求めながら、へりくだって、教会の兄弟姉妹に仕えるために用いていかなければなりません。神がおのおのに与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。自分に与えられた恵みの賜物をキリストのからだてある教会の兄弟姉妹のために用いること、それこそ慎み深い考え方、健全なクリスチャンの心なのです。そのような人を神様はさらに祝福し、さらに大きく用いてくださるのです。

士師記13章

士師記13章からを学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.マノアとその妻(1-7)

 

「イスラエルの子らは、主目に悪であることを重ねて行った。そこで主は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。

さて、ダンの氏族に属するツォルア出身の一人の人がいて、名をマノアといった。彼の妻は不妊で、子を産んだことがなかった。

主の使いがその女に現れて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」

その女は夫のところに行き、次のように言った。「神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いのようで、たいへん恐ろしいものでした。私はその方がどちらから来られたか伺いませんでした。その方も私に名をお告げになりませんでした。けれども、その方は私に言われました。『見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。今後、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子は胎内にいるときから死ぬ日まで、神に献げられたナジル人だから』と。」

 

イスラエル人は、再び主の目の前に罪を行いました。それで主は40年間、彼らをペリシテ人の

手に渡されました。ペリシテ人は地中海に面している地域に住んでいた民族で、イスラエルの地においてもガザやアシュケロンなど、沿岸地域に住んでいました。そのペリシテ人の手に渡されたのです。しかも、40年の長きに渡ってです。これは、預言者サムエルがペリシテ人に勝利する時まで続きます(Ⅰサムエル7章)。サムソンが士師として活躍するのは20年間ですが、それはペリシテ人による圧政の期間の間に入る出来事です。

 

ところで、ダン族に属するマノアという人がいました。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがありませんでした。当時は、子どもがいないということを神の呪いと受け止められていたので、そのことは彼らにとってとても悲しい出来事でした。

 

そんな彼女に、ある日主の使いが現れて、男の子を産む、と告げました。それゆえ、ぶどう酒や強い酒を飲んだり、汚れた物をいっさい食べないように気を付けよ、と告げたのです。また、その子の頭にかみそりを当ててはならない、とも言いました。なぜなら、その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人であるからです。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始めるというのです。

 

ナジル人とは、「聖別されたもの」という意味です。民数記6章1~8節には、このナジル人について、次のように記されてあります。

「主はモーセに告げられた。 「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。また、ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも、干したものも食べてはならない。ナジル人としての聖別の全期間、彼はぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。

彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。

主のものとして身を聖別している間は、死人のところに入って行ってはならない。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らとの関わりで身を汚してはならない。彼の頭には神への聖別のしるしがあるからである。ナジル人としての聖別の全期間、彼は主に対して聖なるものである。」

 

ここにはナジル人に対して、三つの命令が与えられています。一つは、ぶどう酒や強い酒を飲んではならないということ、二つ目に、ナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりをあててはならないということ、そして三つ目のことは、死人のところに入って行き、身を汚してはならないということです。ぶどう酒や強い酒を飲んではならないというのは、生活の楽しみを自発的に断ち、神への献身を表明することを表していました。また、頭にかみそりをあてないというのは、そのことで軽蔑されるようなことがあっても、神への献身のゆえにどのような軽蔑をも甘んじて受けることを表していました。当時の人は前髪を短く刈っていたので、ナジル人の誓願をすることで前髪が伸び、人々から軽蔑されるということもありました。しかし、どんなに軽蔑されても、神に献身した者はそれさえも甘んじて受けなければならなかったのです。そして、死体に近づくことは、汚れを避けることを意味していました。たとえそれが肉親であっても、死体に近づいて身を汚すことは許されませんでした。その厳格さは、大祭司と同等のものでした。一般の祭司でさえ、肉親の死体に近づくことは許されていたのです。(レビ記21:1-4,10-11)

このナジル人の誓願には、一定期間で終わるものと、終生の誓願とがありましたが、サムソンは終生のナジル人でした。しかし、彼の父母も一定期間ナジル人として生きることが求められたのです。

 

聖書の中には、生まれながらのナジル人が3人います。このサムソンと預言者サムエル(Ⅰサムエル1:11)、そして、バプテスマのヨハネ(ルカ1:15)です。彼らは、主のために聖別された僕としての人生を歩みました。そして、主イエスもこのナジル人としての生涯を歩まれました。主イエスは、この世から分離し、父なる神に完全に従うことによって、聖別された生涯を歩まれたのです。そして、そのイエスを信じ、イエスにつながり、イエスに従う私たちにも、霊的には、このナジル人とされたのです。ですから、クリスチャンはみな、ナジル人として生きることが求められているのです。

 

パウロはⅡコリント6章14~18節で、次のように言っています。

「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」」

ここで勧められていることは、まさにこのナジル人として生きなさいということです。それはこの世から隔離された修道院のような生活をしなさいということではありません。この世にいながらも、この世のものではなく、神のものとして、この世と分離して生きなさいということです。それは主イエスがこの世から分離し、父なる神に完全に従ったように生きるということです。なぜなら、私たちはこの世から救い出され、神のものとされたものだからからです。神のものとされた者は、この世にあっても神のものとして聖別し、世の光、地の塩として生きていかなければならないのです。

 

Ⅱ.マノアに現れた主の使い(8-14)

 

次に8節から14節までをご覧ください。

「そこで、マノアは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」

神はマノアの声を聞き入れられた。それで神の使いが再びこの女のところに来た。彼女は畑に座っていて、夫マノアは彼女と一緒にはいなかった。

この女は急いで走って行き、夫に告げた。「早く来てください。あの日、私のところに来られたあの方が、また私に現れました。」

マノアは立ち上がって妻の後について行き、その人のところに行って尋ねた。「この女にお話しになった方はあなたなのですか。」その人は言った。「わたしだ。」

マノアは言った。「今にも、あなたのおことばは実現するでしょう。その子のための定めと慣わしはどのようなものでしょうか。」

主の使いはマノアに言った。「わたしがこの女に言ったすべてのことに気をつけなければならない。ぶどうからできる物はいっさい食べてはならない。ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。汚れた物はいっさい食べてはならない。わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」

 

それで、女は夫のところに行き、そのことを告げると、マノアは、主に願って言いました。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」

マノアは妻の報告を聞き、主に願って言いました。神が遣わされた神の人を再び遣わして、生まれてくる子に何をすれば良いか教えてくれるように・・・と。

 

すると、神はマノアの祈りを聞かれたので、神の使いが再び彼の妻のところに来ました。その時マノアは彼女と一緒にいなかったので、彼女はすぐに夫を呼びに行き、その人のもとに連れて来ました。おもしろいですね。マノアが懇願したのに、神の使いはまたマノアのところではなく妻のところにやって来ました。また、マノアが妻に連れられてその神の人のところへ行ったとき、その神の使いが言ったことは、以前彼の妻に告げたことを繰り返しただけでした。つまり、「わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」(13)ということだけだったのです。なぜでしょうか?それはその必要がなかったからです。神のみこころはすでにマノアの妻に告げられました。彼にとって必要だったことは、そのことに聞き従うことだったのです。

 

時として、私たちも、既に与えられている御言葉で満足できず、もっと先のことや新しいことを知りたいと願うことがありますが、大切なのは、先のことが見えなくても、新しい情報が示されなくても、今与えられていることに感謝し、目の前に示されたことを忠実に行っていくことなのです。そうすれば、次にすべきことが示されるようになるでしょう。

 

Ⅲ.わたしの名は不思議(15-25)

 

次に、15節から23節までをご覧ください。

「マノアは主の使いに言った。「私たちにあなたをお引き止めできるでしょうか。あなたのために子やぎを料理したいのですが。」

主の使いはマノアに言った。「たとえ、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のささげ物を献げたいなら、それは主に献げなさい。」マノアはその方が主の使いであることを知らなかったのである。

そこで、マノアは主の使いに言った。「お名前は何とおっしゃいますか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちはあなたをほめたたえたいのです。」

主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」

そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主に献げた。主のなさる不思議なことを、マノアとその妻は見ていた。

炎が祭壇から天に向かって上ったとき、主】使いは祭壇の炎の中を上って行った。マノアとその妻はそれを見て、地にひれ伏した。

主の使いは再びマノアとその妻に現れることはなかった。そのときマノアは、その人が主の使いであったことを知った。

マノアは妻に言った。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから。」

妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」

 

マノアとその妻は、その時点でも主の使いが誰なのかを理解していませんでした。彼らはその人を預言者のひとりだと思っていたのです。そこで、その人をもてなしたいと思い、彼らの家に留まってもらうようにお願いしました。しかし、その人は、たとえ留まっても、食事のもてなしは受けないと断りました。そして、もし全焼のささげ物を献げたいなら、主に献げなさい、と命じたのです。

 

するとマノアは、その人に名前を尋ねました。「お名前は何とおっしゃいますか。」彼としては、このことが成就したら、預言者としてその人をほめたたえようと思ったのでしょう。

すると、主の使いは、「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」と言いました。「不思議」という名前は不思議な名前です。しかし、それはその人物が神であることを指していました。というのは、不思議を行うことができるのは神だからです。神は不思議な方です。そして、その不思議を千年以上も後にご自身の御子イエス・キリストを通して表してくださいました。まさに、神のなさった最高・最大の「不思議」は神の御子が人となってこの世に来られ、その十字架の御業によって救いの道が開いてくださったことです。

預言者イザヤはそのことを前もって預言し、やがて来られるメシヤがどのような方であのかをこう告げました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」。(イザヤ9:6)

 

そして、主はマノアとその妻に不思議な御業を見せてくださいました。マノアが主の使いに言われるとおり子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主に献げると、炎が祭壇(岩)から出てきて捧げ物を焼き尽くしたかと思ったら、主の使いが天に向かって上って行ったのです。それで、マノアとその妻は地にひれ伏しました。自分たちは死ぬのではないかと思ったのです(出エジプト記33:20)

 

しかし、マノアの妻は、こう言いました。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」

それはそうです。彼らを殺すつもりであれば、彼らがささげた全焼のいけにえをお受けになられるはずはありません。主が全焼のいけにえをお受けになられたというのは、主が彼らの祈りが聞かれたことを示していました。ですから、マノアの妻の言っているこは正しいのです。妻の方が霊的な目が開かれていました。

 

私たちもクリスチャンになってからでも、このように神のさばきを恐れてしまうことがあります。けれども、神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです。(ヨハネ3:17)もし神が私たちを滅ぼすつもりなら、私たちに御子を与えられるはががありません。神は私たちを救い、私たちに永遠のいのちを与えるために、御子を与えてくださいました。私たちは、御子にあって、神の御救いに入れていただいたのです。この神の愛を受け取り、安心して主の道を歩ませていただきましょう。

 

最後に24節と25節をご覧ください。

「この女は男の子を産み、その子をサムソンと名づけた。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。主の霊は、ツォルアとエシュタオルの間の、マハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」

 

主の使いの言ったとおり、マノアの妻は男の子を産み、その子を「サムソン」と名づけました。「サムソン」という名前は、「太陽」という意味の言葉から来ています。いわば、「太陽の子」という意味です。それはまた、彼の使命を象徴している名前でもありました。彼はイスラエルの民をペリシテ人の圧政から救い出す太陽となるからです。主が彼を祝福してくださったので、彼は大きく成長して行きました。それは肉体的にというだけでなく、知的にも、霊的にも、です。そして、彼が大きく成長して行ったとき、主の霊が彼を揺り動かしました。「マハネ・ダン」とは、「ダンの陣営」という意味です。主はダンの陣営で、彼を揺り動かし始めたのです。

 

このサムソンの姿には、いくつかの点でイエス・キリストとの類似点があります。たとえば、その出産が通常とは違っていたという点です。サムソンの母は不妊の女でしたが、主の助けによって男の子を身ごもりました(ルカ1:34-35)。そして、主イエスの母マリヤも処女でしたが、いと高き方の力、聖霊の力によって男の子を宿しました。また、サムソンは「太陽の子」という意味の名前でしたが、イエス・キリストは、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)と呼ばれました。さらに、サムソンが主の祝福を受けて成長したように、主イエスも、神の恵みがその上にあったので、成長し、強くなり、知恵に満ちて行きました(ルカ2:40)。そして何よりも、サムソンも主イエスも、主の霊に揺り動かされて活動されました。つまり、サムソンは来るべきメシヤのひな型であったのです。私たちも、主の霊に揺り動かされ、主の霊に満たされて、神から与えられた使命を全うさせていただけるように祈りましょう。

ヨハネの福音書3章22~30節「主役はキリスト」

きょうは、ヨハネの福音書3章22節から30節までの箇所から、「主役はキリスト」というタイトルでお話しします。

 

Ⅰ.ヨハネの弟子たちのいらだち(22-26)

 

まず22節から26節までをご覧ください。

「その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。ヨハネは、まだ投獄されていなかった。

ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」」

 

「その後」とは、ニコデモとの会話の後で、のことです。イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられました。それがどこであったかのかははっきりわかりませんが、おそらくヨルダン川でのことでしょう。というのは、26節に、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」とあるからです。おそらく、ヨハネがいた所からそう遠くない場所でイエスはバプテスマを授けておられたのだと思います。

 

一方ヨハネはというと、サリムに近いアイノンという所でバプテスマを授けていました。そこには水が豊かにあったからです。その頃はまだ、ヨハネは投獄されていませんでした。ヨハネはこの後でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられ投獄されますが、まだ捕らえられていなかったので、バプテスマを授けていたのです。

ですから、その頃はイエスとバプテスマのヨハネの双方がバプテスマを授けていました。これは、どういうことでしょうか?それはちょうどリレーのバトンの受け渡しのようです。ヨハネは旧約聖書の最後の預言者でした。彼において旧約の時代は終わります。旧約聖書の主な役割は、キリストが来られることを予め前もって告げることでした。そのキリストが来られたのです。ですから、ヨハネの働きが終わって、ヨハネが指し示していたキリストの働きが今まさに始まろうとしていました。そのバトンがキリストへと渡されようとしていたのです。

 

ところが、ヨハネの弟子たちはそのことが理解できませんでした。それで彼らはヨハネのところに来て、こう言いました。26節、「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。」

 

バプテスマのヨハネが、以前ヨルダン川でバプテスマを授けていた時は、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川の全地域から人々がやって来ました。その中には、パリサイ人やサドカイ人も大勢いれば、ローマの兵士たちもいました。ところが、バプテスマのヨハネが主イエスのことを、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29)と言ってあかしし始めると、人々はどんどん彼から離れて行き、イエスの方について行くようになりました。彼らは、それがおもしろくなかったのです。

 

ある註解者は、この時のヨハネの弟子たちの心境をこのように推察しています。

「ヨハネの弟子たちは、多くの者がイエスのもとに行くのを見て、いらだちを覚えたのであろう。ヨハネの使命が、イエスを指し示すことであることは百も承知していたはずなのに、『皆があの方のほうに行きます』という言葉から想像できるように、人の波が大きくイエスの方に移っていくのを見た時、弟子たちは切ない気持ちになったのであろう。そして、その切ない気持ちはいらだちへとふくれあがっていったに違いない。ヨハネの弟子たちの心の中にはイエスに対するねたみの思いが湧き上がってきたのではないだろうか。人が離れていくのを寂しいと思う気持ちが雪だるま式にふくれあがり、やがてねたみへと変わっていったのである。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのである。イエスを十字架につけたのも、ユダヤの指導者たちのねたみのせいであったと他の福音書には記されている。」

 

この時のヨハネの弟子たちの心境がよく表されているのではないでしょうか。人間の争いのほとんどは、この感情を震源地としているのです。すなわち、人をねたむ心こそが、人間の争いの原因なのです。

 

先日祈祷会で士師記12章から学びましたが、エフタに詰め寄ったエフライム人の問題もここにありました。彼らはアンモン人に勝利したエフタに詰め寄ってこう言い増した。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。」(士師記12:1)

なぜって、以前エフタがアンモン人と戦ったとき、彼らに助けを求めたのに、彼らは助けてくれなかったからです。それなのに、今ごろになって不平を漏らし、戦いを挑んでくるなんて、筋が違います。それは彼らの中に高ぶりとエフタに対するねたみがあったことが問題でした。

 

パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、彼らは御霊の人ではなく、まだ肉の人だと言っています。なぜなら、彼らの間にはねたみや争いがあったからです。それである人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っていたのです。アポロとは何ですか。またパウロとは何ですか。彼らは、あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(Ⅰコリント3:6-7)

 

あなたにはこのような思いはないでしょうか。私たちは、すぐに人と自分を比較してはねたみを抱いてしまいます。自分よりもほかの人の方が優れているのを見ると、あるいは、ほかの人がうまく行っているのを見ると、その人が妬ましくなるのです。しかし、それはただの人、つまり、イエスを知らない人と同じです。そうした思いはただ争いを引き起こすだけで、そこからは何も良いものが生まれてきません。ですから、もしあなたの中にこうした思いがあるならば、イエス様に赦していただきながら、神の御霊によって聖めていただかなければなりません。

 

Ⅱ.自分の立場をわきまえる(27-28)

 

次にそうした弟子たちの訴えに対して、バプテスマのヨハネがどのように答えているかを見てみましょう。27節と28節をご覧ください。

「ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」

 

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」とは、どういう意味でしょうか?人々がキリストの方に行くのは、神がそうさせておられるからであるということです。それなのに、ねたみを抱くことがあるとしたら、その神の主権を侵害すことになります。私たちは、どんな場合でもそこに神の御手があることを認めなければなりません。

 

それは私たちの生死に関しても言えることでしょう。たとえば、私たちの家族の中に障害のある子どもが生まれてくると、なかなかそれを受け入れることができないかもしれません。そのことで親は自分を責め続けるでしょう。しかし、そこに神の御手があると信じ、神が与えてくださったものであると受け止めるなら、その苦しみから解放されるでしょう。

 

それは自分のいのちについても同じことが言えます。人は自分の死が近づいて来るとなかなかそれを受け入れることができません。そのためにもがき苦しむのです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンは、自分の人生すら自分のものではなく、自分がこの世に生かされているのは、神が自分にいのちを与えてくださったからであると受け止めているので、そして、この世での使命を果たし終える時、神はこの世のすべての苦しみから解放して、もっとすばらしい天の御国に入れてくださるということを信じているので、安らかに死を迎えることができるのです。

 

今、さくら市ミュージアムで「青木義雄と内村鑑三」展をやっておりますが、昨日はその記念講演として内村鑑三の人と信仰についての講演会がありました。講師が、黒川知文先生と言って、私の神学校の時の講師だったので、講演を聞きに行きました。内村鑑三の信仰に改めて感動しました。

何に感動したのかというと、その講演の中で内村鑑三が愛娘のルツ子さんを天に送るのですが、その告別式で内村鑑三がこのように言ったことです。「今日はルツ子の葬儀ではなく、結婚式であります。私は愛する娘を天国に嫁入りさせたのです」そして、墓地に埋葬する際には、一握りの土をつかみ、その手を高く上げ、甲高い声で「ルツ子さん、万歳!」と大勢の参列者の前で叫んだのです。後に東大の総長となった矢内原忠雄は、当時19歳でしたが、この叫びを聞いて雷に撃たれたような衝撃を受けたと言っています。

なぜ内村鑑三がこのように言うことができたのか。それは彼の中にキリストの再臨信仰があったからです。かなわち、キリストが再臨されるとき、キリストにあって死んだ者の復活があり、生ける者の携挙があると堅く信じて動かなかったからです。その時から、彼の再臨運動が一層熱を帯びていくわけです。そして、各地での聖書講義には平均で800人もの人々が集まったと言われています

17歳で札幌農学校に入学した彼は、キリストとの出会うわけですが、26歳の時にアメリカのアマースト大学でシーリー学長との出会いによって真の救いの体験をすると、このルツ子さんの死という試練を乗り越えて、死んでも復活する再臨信仰に至り、このように言うことができたのです。

 

それは生死に関することだけでなく、私たちの人生のすべてにおいて言えることです。人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。今、私たちに起こっているすべてのことが神によって与えられているものであると受け止められるなら、すべての心のいらだちから解放されるでしょう。たとえ人が自分のところから他の人のところへ移って行くようなことがあったとしても、それが天から与えられたことであると受け止めるなら、すべてを神にゆだねることができるのです。

 

バプテスマのヨハネの場合はどうだったでしょうか。彼は28節でこのように言っています。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。」

 

彼は、自分に与えられている立場がどのようなものであるかを、よく自覚していました。自分がどのような者であるかが分からない人は、とかく傲慢になります。パウロはコリントの教会の人たちに対してこう言っています。「いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(Ⅰコリント4:7)

これはどういうことかというと、彼らが持っているものはすべて神からもらったものなのに、どうしてもらったものでないかのように誇るのかということです。彼らは、自分がどこから出発したのかを忘れていました。罪と汚れの中から、神の一方的な恵みによって、キリストの十字架の贖いによって救われたのに、そして、その神の恵みとして御霊の賜物が与えられたのに、あたかも自分の力で得たかのように錯覚していたのです。ですから、「あの人は、なぜ、自分たちのように神に仕えていないのか」と批判していたのです。それは彼らが、自分たちがどのような者であるのかを忘れていたからです。

 

自分を誇る人の多くは、この点がよくわかっていません。頭がよいということにしても、努力できるということにしても、ある種の才能を持っているということにしても、どれもすばらしいことですが、しかし、どれ一つとして自分の力で得たものではないのです。それらはみな与えられたものなのです。そういうことが分かってくると、自分の分もまたおのずと分かってくるのではないでしょうか。

 

バプテスマのヨハネは、自分に与えられていたものをよく自覚していました。「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです。」私はそういう者でしかないのです。だから、人々があの方の方へ行ったとしても、何の問題もありません。むしろ、それが本望です、と言うことができたのです。

 

謙遜ということは、口で言うのはやさしいことですが、実際にそれを行うということは、決してやさしいことではありません。特に、いかに人を蹴り落として自分が上に立つかを求めているこの競争社会の中に生きている私たちにとっては、本当に難しいことです。しかし、そのような中にあっても真に謙遜に生きるコツは、このバプテスマのヨハネのように自分に与えられた立場をわきまえ、そこに生きることなのです。

 

Ⅲ.主役はキリスト(29-30)

 

では、主役は誰でしょうか。主役はキリストです。バプテスマのヨハネはそのことを29節と30節でこのように言っています。

「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」

 

バプテスマのヨハネは、続けて弟子たちに語っています。「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。」

ヨハネはここで自分のことを、結婚式における花婿の友人にたとえています。花婿の友人とは、ベストマンとかブライズメイトのことです。日本ではベストマンとかブライズメイトのいる結婚式はあまり見られませんが、アメリカの結婚式ではよく見られます。というか、ほとんどの結婚式におります。彼らの役割は何かというと花嫁や花婿を引き立て、彼らを助け、彼らが結婚して、喜びの生活に入れるようにすることです。あくまでも結婚式の主役は花嫁であり、花婿です。その主役である花嫁を引き立て、そばに立って耳を傾け、大いに喜んでいるのが花婿の友人なのです。間違っても、自分が出すぎてはいけません。バプテスマのヨハネはここで、自分はその花婿の友人であり、花婿であられるキリストの声を聞いて喜びに満ち溢れていると告白しているのです。

 

これこそヨハネが彼の弟子たちに求めたことでした。そして、これはすべてのクリスチャンにも求められていることです。クリスチャンはみなこの花婿であられるキリストの友人であり、あくまでも主役はキリストなのです。このことを忘れてはいけません。というのは、謙遜はこのことをわきまえることから得られるものだからです。つまり謙遜は、謙遜になろうと努力することによって獲得できるようなものではなく、キリストとの正しい関係にあることによってもたらされるものであるということです。キリストはこのように言われました。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

どうすれば、たましいに安らぎが来るのでしょうか。キリストのくびきを負って、キリストから学ぶことによってです。なぜなら、キリストは柔和でへりくだっているからです。ですから、このキリストのくびきを負って、キリストから学ぶなら、たましいに安らぎを得ることができるのです。くびきとは、牛や馬など二頭の家畜をつなぐ棒のことですが、普通は牛や馬の頸部に取り付けられます。つまり、このくびきを負って、キリストとつながれているなら、私たちも柔和で、へりくだった者になることができるということです。

 

私たちは、花婿に仕える友人のように、花婿であるキリストを喜び、キリストに仕える者です。そして、花婿が花嫁と結ばれることによってその役目を果たし終えるように、キリストによって成し遂げられた救いの御業が全世界に宣べ伝えられ、多くの人々が救われて、世の終わりに天において子羊の婚宴が開かれることを待ち望みつつ、主に仕えて行く者なのです。

 

来週はM兄とT姉のバプテスマ式が行われますが、それはまさに花婿であられるキリストとの結婚式でもあります。やがて世の終わりにキリストとの婚宴が開かれる時、そこに招かれることでしょう。それはキリストの喜びであり、私たちの喜びでもあります。なぜなら、私たちは花婿のそばに立って、花婿が語ることに耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜んでいる者だからです。それが私たちの喜びでもあるのです。

 

最後のところでヨハネは、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と言っています。これこそクリスチャンとしての最大のあかしです。「私が盛んになり、あの方は衰えなければなりません。」ではなく、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」それでいいのです。それが私たちの人生であり、私たちの喜びだからです。

 

パウロは、コリント人への手紙の中で、「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント4:5)と書きましたが、それはまさにこのことでした。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。あくまで主役はキリストなのです。そのことを忘れないでください。

 

今日からアドベントが始まりました。クリスマスの12月25日と言えば、冬至のころです。一年で一番夜が長い時期です。それから少しずつ昼が長くなっていきます。キリストがいよいよ光り輝き、栄光をお受けになられるのです。それに対して、バプテスマのヨハネは半年早く誕生しました。これはあくまでもそのように定められたということであって、実際のキリストの誕生日はいつなのかははっきりわかりません。ただわかっていることは、その半年前にバプテスマのヨハネが誕生したということです。ということは、クリスマスが12月25日とすれば、彼の誕生は6月24日となります。6月24日は夏至のころで、それから次第に昼が短くなっていきます。これは極めて象徴的であると言えるのではないでしょうか。バプテスマのヨハネは、この方をあかしさえすれば、それでこの世における使命は終わり、消えていくのです。まさに彼の人生は、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」でした。

 

それは、私たちの人生も同じです。私たちの人生は、この方をあかしさえすれば、それでいいのです。それが本望です。それでこの世における使命は終わり、消えていくべき者にすぎないのです。私たちは、この神の定めを本当に理解しているでしょうか。それが本当に分かると、私たちの心は真の自由を得ることができます。私たちもこのバプテスマのヨハネから学び、彼のような生涯を送らせていただきましょう。あくまでも主役はキリストです。この方が盛んになり、私は衰えていかなければなりません。この方の声を聞いて大いに喜びましょう。キリストの心を心とする者、それが花婿であるキリストの友なのです。

ヨハネの福音書3章16~21節「永遠のいのちを持つために」

きょうは、ヨハネの福音書3章16節からのところから、「永遠のいのちを持つために」というタイトルでお話しします。

今お読みした聖書の箇所、特に3章16節は、聖書の中でも特に有名な箇所です。それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という言葉です。なぜこの言葉が有名なのかというと、聖書には多くのことが書かれてありますが、その最も大切なことがここにあるからです。聖書のエッセンスがこの言葉の中にすべて含まれていると言えるでしょう。それゆえに、この箇所は「聖書の中の聖書」、「聖書の中の小聖書」と言われているほどです。

きょうは、この有名な箇所から、永遠のいのちを持つためにはどうしたらよいかについて、ご一緒に考えていきたいと思います。

 

Ⅰ.ひとり子を与えるほどの神の愛(16a)

 

まず16節に注目してください。ここには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。

 

今日ほど愛という言葉が使われている時代はないでしょう。至る所で愛という言葉がささやかれていますが、その愛は、愛の形をしてはいても、実際には、そうではありません。むしろ愛とは正反対である場合がほとんどです。というのは、愛は自己犠牲が伴うものだからです。しかし、大抵の場合は、ほかの人に与えるものではなく、自分のためにすべてを奪うものになっています。

 

しかし、ここに本当の愛があります。それは、神が、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたことの中に現されました。ある註解者は、「ここに神の無限の愛がある。この愛は人間の知らない愛である」と言っています。何ゆえに、この愛は人間の知らない愛なのでしょうか。たとえば、この愛に最も近いものに母親の愛があるでしょう。母親にとってわが子は特別の存在で、まさに目の中に入れても痛くない存在です。母親であればわが子のために自分を犠牲にすることもいとわないでしょう。しかし、そのような愛でさえ「わが子」に限定されたもので、それを超えて愛するということはほとんどありません。

しかし、神の愛はそうではありません。神の愛は、全く愛される価値のない者でさえも愛する愛です。人間は神によって造られたにもかかわらずその神を愛することはおろか、神に背を向け、罪の奴隷となっていました。聖書では、これを罪と言っていますが、この罪深い人間のために、神はそのひとり子をお遣わしになり、十字架で死んでくださったのです。

 

旧約聖書のホセア書に出てくる物語は、この神の愛がどのようなものかをよく表しています。

ホセアという預言者は、神の愛をあかしするために、彼自身得意な生活を余儀なくされました。ホセアは、ディブライムの娘ゴメルと結婚し、三人の子どもが生まれました。しかし、妻のゴメルはホセアと結婚しながらも不貞を続け、彼よりも別の男性を求めたのです。夫のホセアは彼女を愛するあまり、その心は引き裂かれるばかりに痛み、苦しみます。けれども、ゴメルは夫から離れ、愛人たちのところに身を潜め、売春までするようになるのです。そのことを知ったホセアは恥を忍んでその場に出向き、お金を払って彼女を連れ戻します。ホセアは彼女が悔い改めることを願い、彼女のすべての罪を赦そうとするのです。

 

このたぐいまれな経験は、神が神の民イスラエルに対して抱いていた思いを表していました。背かれる者の苦しみと、その背く者への愛の深さを、彼は自分の経験を通して知り、神に反逆しているイスラエルの民を神がどんなに深く愛しておられるのかを語ったのです。いったいどこに夫を捨てて別の男に身も心も寄せた女を愛する人がいるでしょうか。しかし、ホセアは神の命令に従い、別の男に身を売っている妻を愛し、彼女を多くの代価を払って買い戻したのです。これが神の愛です。

 

この妻ゴメルの姿やイスラエルの姿は、私たちの姿でもあります。私たちは神を愛し、神の喜びと栄光のために造られたにもかかわらず、その神を愛することはおろか、神に背を向け、自分勝手に生きていました。それなのに、神はそんな背信と不遜のかたまりのような私たちを愛し、多くの代価を払って罪の奴隷から買い戻してくださいました。神は、全く愛される価値のない者さえをも愛してくださったのです。

 

いったい神はどのように愛してくださったのでしょうか。ここには、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。「ひとり子」とは、イエス・キリストのことです。この「ひとり子」という言い方は、神そのものであられるお方を意味しています。神ご自身が犠牲となってこの世に来られ、十字架にかかって死なれるほどに、愛してくださいました。その愛の広さはいかばかりかというと、「世を」という言葉の中に表されています。神の愛はその選ばれた民イスラエル人だけでなく、この世を愛されました。神の愛は、全世界のあらゆる民族に及ぶのです。しかも、その愛の大きさは、ひとり子をお与えになったほどでした。これは十字架での犠牲を指しています。尊い神の御子イエス・キリストの死こそ、神が私たちを買い戻すために支払われた代価だったのです。

 

皆さん、物の価値というのは、差し出された代価よって決まります。たとえば、ここにマイクがありますが、これは3万円くらいで買いました。3万円を払って買ったわけですが、それはそれだけの価値があったからです。では、神様は、私たちのためにどれだけの代価を払ってくれたでしょうか。何とそのためにご自身のひとり子をお与えになりました。本来であれば全く価値がない者なのに、神はそれほど価値ある者と見てくださったのです。それほどまでに愛してくださいました。

 

ローマ人への手紙5章7節~8節には、こうあります。「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

神は、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、ご自身の愛を明らかにしてくださいました。罪人である私たちのためにいのちを捨ててくださる方がおられる。これが神の愛です。これが聖書の中心なんです。このような愛は私たち人間の中にはありません。それは、私たち人間の知らない愛です。神はこの愛を、ひとり子であられるイエス・キリストをこの世に与えることによって表してくださったのです。

 

Ⅱ.永遠のいのちを持つために(16b-18)

 

いったいなぜ神はそれほどまでに愛してくださったのでしょうか。16節後半から18節にこのように記されてあります。

「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 

それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。永遠のいのちとは何でしょうか?永遠のいのちとは、単に長生きすることではありません。ヨハネの福音書17章3章には「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」とあります。

 

私たちは「永遠のいのち」という言葉を聞くと、死んだあとも続くいのちであるかのように考えがちですが、確かに、死んでからも続くいのちのことでもありますが、その本質は神の臨在のことです。唯一まことの神とキリストを知ることに他なりません。私たちが、日々の祈りの中で、あるいは神のみことばを読む中で、主がどのように自分と関わっておられるのかを知り、その神を仰ぎ見て、神の御前にひれ伏す中で生ける神と交わることこそ、永遠のいのちなのです。そこに神がおられるということです。神とキリストの臨在の中で生きること、それが永遠のいのちです。

 

それは、人がそのように造られたからです。創世記1章27節には、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあります。「神のかたち」とは何でしょうか?それは霊のことです。神は、私たちを肉体を持つ者として造られただけでなく霊を持つ者として造ってくださいました。これは神を慕い求め、神に祈る存在として造られたということです。ですから、人は神につながり、神に祈り、神と交わり、神のいのちを持つことで、本当に人間らしく、真の喜びと満足を得て生きることができるのです。

 

それなのに、最初の人であったアダムが神の命令に背いて罪を犯したことによって、この神との関係が切れてしまいました。つまり、霊的に死んでしまったのです。神との交わり、永遠のいのちを失ってしまいました。それゆえに神は、そのように霊的に死んだ人が新しく生まれ変わって神との関係を回復するために、すなわち、永遠のいのちを持つために、御子をこの世に送ってくださったのです。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、このいのち、永遠のいのちを持つためです。

 

それはまた、この地上での肉体のいのちがのちが尽きても、決して終わることがない神との交わりのことでもありのす。

母が脳梗塞で召されて10年が経ちました。召された日の朝方まだ薄暗い時間にカタッと音がしたので「大丈夫?」と起きてみると、母は意識がはっきりしていて、「いや、何だか目が覚めたんだ」というので、「そう、まあ、安心して、イエス様が一緒にいるから」というと、「そうだね」と言ってまた静かに眠りに就きました。そして、だいぶ明るくなったころ少し経って息づかいが荒くなったかと思うと、静かに息を引き取りました。母は私が手を握り締めている中で、天に帰って行きました。静かな死でした。それは、天国を確信し、まるで、ふすまをあけて隣の部屋にいくように、召されて行きました。83歳の生涯でした。私は、母との別れの悲しみや寂しさで涙を流しましたが、それは決して絶望の涙ではありません。しばしの別れの涙です。なぜなら、死は、決してイエス・キリストが与えてくださった永遠のいのちを奪うことはできないからです。永遠のいのち、それは、決して変わることのない希望なのです。

神様は、私たちにこの永遠のいのちを与えるために、そのひとり子を遣わしてくださったのです。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではありません。御子によって世が救われるためです。御子を信じる者はさばかれません。

 

ここから、私たちが救われるためには二つの側面があることがわかります。それは神がしてくださったことと、私たちがしなければならないことです。神がしてくださったこととは、もちろん、神がこの世を愛してくださったということです。神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに愛してくださいました。しかし、私たちが救われるためにはもう一つの側面があります。それは、私たちがその神の愛に応答して、御子を信じるということです。御子を信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つのです。

 

それは前回のメッセージで語った通りです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって、永遠のいのちを持つためです。」(3:14-15)十字架に上げられたイエス・キリストを仰ぎ見るなら、救われるのです。仰ぎ見るとは、信じるなら、ということですが、イエスを、自分の罪の救い主として信じるなら、救われるということです。

 

実は、前回のメッセージをホームページにアップしたところ、本当に多くの方々からメールをいただきました。その中には、十字架に付けられたイエスを信じるだけでは救われないというものもありました。自分の罪は、自分で背負って、イエス様に着いていくのが、正しいです、というのです。また、イエスが命じられたとおり、神を愛し、隣人を愛さなければ救われない、というのもありました。でも、自分の罪を、自分で背負うことができますか?神を愛し、隣人を愛することができますか?できません。だから、神様は信仰によって救われる道を用意してくださったのです。私たちが救われる道は、神がしてくださった十字架と復活の御業を信じて受け取る以外にないのです。確かに、イエスは、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに着いて来なさい、と言われましたが、それは私たちが救われるためではなく、救われた私たちがその救いの恵みに感謝してささげる応答なのであって、私たちが救われる唯一の道は、神の一方的な恵みの賜物、プレゼントであるイエスの救いの御業を信じて受け入れることしかないのです。

 

これはリーダースダイジェストという雑誌に載っていた実話ですが、カナダのある町の町はずれに刑務所がありました。

冬の寒い日、その刑務所の高い塀の外の寂しい道を12、3歳の少女が一人、粗末な外套の襟を立てて、行ったり来たりしていました。

ちょうど、刑務所の所長さんが、そこを通りかかりました。そして、「どうしたの?」と、声を掛けました。

少女は、怯えたように、小さな声で言いました。「わたし、この中にいるお父さんにクリスマスプレゼントを届けに来たのです」。

「じゃあ、私が届けてあげよう。ちゃんとあなたが届けに来たことを話して、渡してあげるから、早く家にお帰り。風邪をひかないようにね」。

その少女のお父さんは、強盗犯人で、その刑務所でも有名な、嫌われ者でした。乱暴で、直ぐに喧嘩をし、規則を守らず、看守たちの言うことを聞かず、手のつけられない囚人でした。

所長さんは、自分で、その少女のプレゼントを渡しに行って、こう言いました。「さあ、君の娘さんが、この吹雪の中を届けに来たクリスマスプレゼントだよ。開けてごらん」。

でも、そのお父さんは一言も口をきかず、包みを開こうともしませんでした。そして、恐い顔をして、所長さんをにらみつけています。

所長さんは、優しく言い続けました。「君の娘さんの心のこもったプレゼントなんだよ。さあ開けてごらん」。やっと、お父さんは、ノロノロとリボンをほどき、小さな紙の箱を開けました。

箱を開けたお父さんは、「あぁー、これは!」と大きな声をあげました。なんと、その箱の中には、目も覚めるようなきれいな金髪の巻き毛が入っていました。少女は、自分の髪の毛を、惜しげもなく、ばっさりと切って、箱に入れたのです。

そして、娘さんからのカードが添えてありました。そこにはこう書かれていました。

「愛するお父さん。クリスマスおめでとうございます。私はお父さんに何か良いプレゼントをと考えたのですが、お金がありません。だから、お父さんも大好きだった、私の大切な髪の毛を、クリスマスのプレゼントとして贈ります。

私の愛するお父さん、早くうちに帰って来てちょうだい。私はいつまでも待っています。お母さんもいなくなったので、わたしは今、伯父さん叔母さんの所にいます。二人とも、お父さんのことを良く言いません。でも、お父さん、私にとって世界でたった一人のお父さん、私はお父さんが大好きよ。どんなに辛くても、寂しくても、私はお父さんを待っています。

お父さん、お体を大切にね。私は毎晩毎朝、神様にお父さんのことを祈っています」。

手紙を読んでいるうちに、この男の目から、涙がどっと溢れ出て、子供のように泣き出しました。涙が後から後から流れ、本当に長い間、このお父さんは泣き続けました。

自分の一番大切な金髪の巻き毛をささげた娘さんの愛が、荒れてすさんだお父さんの心に平和をもたらしたのです。

その時から、このお父さんは、生まれ変わったように良い人になって、刑務所でも模範的な囚人になったそうです。

 

最も大切なものさえ与える愛は私たちを変えます。私たちを新しく造り変えるのです。そして、私たちの心に平和をもたらします。でも、そのためには、その愛を受け取らなければなりません。神があなたに贈られた大切な贈り物を、信仰によって受け取らなければならないのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ユダヤ人であっても異邦人であっても、救われる唯一の道は、神の御子イエス・キリストを信じること以外にはないからです。

 

Ⅲ.そのさばきとは(19-21)

 

では、信じないとどうなるでしょうか。信じない者はさばかれます。いや、すでにさばかれています。神のひとり子の名を信じなかったからです。19節から21節をご覧ください。

「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」

 

さばきというものは、普通世の終わりにあるものだと考えられていますが、事実、世の終わりにもありますが、しかし世の終わりにだけあるのではなく、もうすでに今現在始まっていると、聖書は言っています。これはどういうことかというと、悪いことをする者は、自分の行っていることや、その動機が神の光に照らし出されることを恐れるため、光であるイエス・キリストのもとに来ようとしないということです。そうすることによって、神のさばきを自分自身に招いているのです。つまり、イエスを信じないこと自体、神から離れていること自体が、神のさばきであるというのです。最初の人間アダムが罪を犯した時のことを考えてください。「あなたはどこにいるのか」と神に呼びかけられたとき、はどうしたでしょうか。彼は、神を恐れて、隠れました。それが神のさばきです。神によって造られ、神を愛し、神に従って生きるように造られた人間が、神を恐れて隠れたということ自体が、さばきなのです。

 

私は、以前、刑務所で教誨師をしていたことがあります。教誨師というのは、刑務所に収容されている人たちにそれぞれの宗教の立場から教え諭すことを目的に、個人と集団に行われるものですが、ある時、それに出席していた収容者たちに尋ねたことがあります。「皆さんは、実際に罪を犯して捕まるまでどんなお気持ちでしたか?」

するとそこにいるほとんどの人が同じように答えました。「あれは、生きた心地がしなかった!」

いつ捕まるかという恐れで不安でたまらなかったというのです。警察官に職務質問されようものなら、その緊張は極度に達しました。捕まって安心したというか、捕まるまでが地獄だったというのです。

これと同じです。捕まるまでが地獄です。捕まっても地獄ですが、捕まるまでも地獄です。すでにさばかれているからです。神のもとに来ようとしないこと自体、神のさばきにほかなりません。

 

それではなぜ人は神のもとに来ようとしないのでしょうか。それは光がこの世に来ているのに、自分の行いが悪いため、それが明るみに出されることを恐れるからです。つまり、悪い行ないを愛しているからです。神が望むようにではなく、自分の望むように生きていきたいのです。イエス様を信じると新しく生まれ、罪から離れなければならないと知っているので、イエスのところに来ようとしないのです。人はイエス様を信じない理由をいくつも並べ立てますが、本当の理由はただ一つ、今の生活を変えたくないだけです。

 

力ルヴァンはそのことについて、このように言っています。「彼らがキリストに近づくことの妨げとなっているのは、明らかに彼ら自身の邪悪さなのである。彼らが光よりも闇を選び、彼らに差し出されている光を避けるのは、悪意からそのようにしているばかりでなく、更に自分の罪深さを感じている心に由来しているのである」
確かにその通りではないでしょうか。そして、そのようなことは、私たちにも思い当たる節があります。キリストはそのような私たちの心の深いメカニズムを明らかにしておられるのです。

 

しかし、これは単に悪者はキリストを避け、善人はキリストに近づくということではありません。キリストが十字架につけられたあのゴルゴタの丘を思い出してください。ほかにも二人の犯罪人が、キリストと一緒に十字架につけられました。一人はキリストの右に、もう一人は左につけられました。民衆が「おまえが神のキリストなら、自分を救ってみろ」とあざけったとき、十字架にかけられた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「お前はキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言いました。

しかし、もう一人の犯罪人は彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているのではないか。私たちは、自分がしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」(ルカ23:40-41)

そして、こう言いました。「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

するとイエスは彼に言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

悪人がキリストを否定して、善人がキリストを受け入れたのではありません。この二人はどちらも犯罪人でした。その犯罪のゆえに処刑されなければならなかった罪深い人間だったのです。
では、なぜ一人の犯罪人はキリストをあざけり、一人は受け入れたのでしょうか。分かりません。ただ分かることは、もしイエス様が私にどちらになりたいのかと問われたら、私もキリストを受け入れる者になりたいということです。福音は、神様の一方的な恵みですから、私たちは何をしなくてもよいのかというと、そうではありません。御子を信じなければなりません。それが私たちに求められている応答なのです。福音は神様の一方的恵みですが、私たちはそれを受け取らなければならないのです。

 

「ちいろば」という本を書いた榎本保郎先生は、そのことを次のように言っています。「朝が来るのは私の努力ではない。しかし、早朝の素晴らしさを味わうためには、早起きが必要なのである」

私たちも、神がイエス・キリストを通して与えてくださった愛に対して、その愛に心から応える者でありたいと思います。そして、イエス様があの一人の犯罪人に、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたように、私たちも永遠のいのちを持つ者でありたいと思うのです。

士師記12章

士師記12章からを学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.エフライム人との内紛(1-7)

 

「エフライム人が集まってツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。」

エフタは彼らに言った。「かつて、私と私の民がアンモン人と激しく争ったとき、私はあなたがたに助けを求めたが、あなたがたは彼らの手から私を救ってくれなかった。あなたがたが救ってくれないことが分かったので、私はいのちをかけてアンモン人のところへ進んで行った。そのとき、主は彼らを私の手に渡されたのだ。なぜ、あなたがたは今日になって、私のところに上って来て、私と戦おうとするのか。」

エフタはギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これは、エフライムが「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったからである。

ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が「渡らせてくれ」と言うとき、ギルアデの人々はその人に、「あなたはエフライム人か」と尋ね、その人が「そうではない」と答えると、その人に、「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺した。こうしてそのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。

エフタはイスラエルを六年間さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。

 

エフタがアンモン人との戦いを終えると、エフライム人がツァフォンに進み、エフタに詰め寄って来てこう言いました。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。」

彼らの不満は、エフタがアンモン人と戦う際になぜ自分たちに声をかけなかったのかということでした。エフライム族は、マナセ族とともにヨセフ族から枝分かれした部族です。そのエフライム族が、どうしてここでエフタに不満を述べたのでしょうか。それは彼らには、自分たちこそ卓越した部族であるという自負心があったからです。その自負心が高ぶりとなって表面化することがたびたびありました。

 

たとえば、ヨシュア記17章14節のところには、土地の分割の際にヨシュアに詰め寄り、「あなたはなぜ、私たちにただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほどの数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。」と言っています。自分たちは主に祝福された特別な部族だと主張したわけです。それに対してヨシュアは、「あなたが数の多い民であるなら、森に上って行って行きなさい。そこでペリジ人やれふぁいむ人の地を切り開くがよい。エフライムの山地はあなたには狭すぎるのだから。」(ヨシュア17:15)と答えました。ヨシュアが言ったことはもっともなことでした。そんなに主に祝福された者であるなら、そんなに数の多い民であるなら、自分たちで切り開けばいいではないか。それなのに、そのことでつべこべ言っているのは、彼ら自身の中に問題があるからではないかと諫めたわけです。

 

また、士師記8章1節でも、ギデオンがミディアン人との戦いを終えた後に彼のところに詰め寄り、「あなたは私たちに何ということをしたのか。ミディアン人と戦いに行くとき、私たちに呼びかけなかったとは。」(8:1)と激しく責めました。この時はギデオンが彼らをなだめ、平和的な解決を図りましたが、今回は違います。エフタは強硬な姿勢で対応しました。

 

2節と3節をご覧ください。そうしたエフライム人のことばに対して、かつてエフタがアンモン人と戦った際に、エフライム族に呼びかけたものの、彼らが出て来なかったからだと語り、自分を脅迫するのは筋違いだと反論します。そして、ギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦い、彼らを打ち破ったのです。それは、エフライムが、「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったからです。エフライムは、ギルアデ人のことを侮辱して、逃亡者呼ばわりしました。それは、異母兄弟たちから追い出され、逃亡者となった経験があったエフタにとっては断じて受け入れられることではなく、逆に彼の神経を逆なですることになりました。

 

ついに、あってはならない部族間の内紛が勃発しました。ギルアデの人々は、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取り、エフライムの逃亡者が「渡らせてくれ」と言うとき、その人がエフライム人かどうかを方言によって見分け、もしエフライム人ならその場で殺しました。すなわち、その人に「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺したのです。こうして四万二千人のエフライム人が倒れました。

 

元はと言えば、エフライム人の高ぶりがこの悲劇の原因でした。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とあります。心の高慢は、隣人との間に争いを生み、やがてその人を滅ぼしていくようになります。あなたはどうでしょうか。隣人との間に平和がありますか。もし争いがあるとしたら、あなたの中にエフライムのような自負心や高ぶりがあるからかもしれません。へりくだって.自分の心を点検してみましょう。

 

Ⅱ.9番目の士師イブツァン(8-10)

 

次に8節から10節までをご覧ください。ここには、9番目の士師でイブツァンのことが記されてあります。

「彼の後に、ベツレヘム出身のイブツァンがイスラエルをさばいた。彼には三十人の息子がいた。また、彼は三十人の娘を自分の氏族以外の者に嫁がせ、息子たちのために、よそから三十人の娘たちを妻に迎えた。彼は七年間イスラエルをさばいた。イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。」

 

「イブツァン」という名前の意味は「速い」です。その名に相応しく、彼についての言及はわずか3節だけです。彼はベツレヘムの出身で、三十人の息子と、三十人の娘がいました。それだけ彼は裕福であり、権力を持っていたということでしょう。しかし、何と言っても彼の特徴は、その三十人の娘たちを自分の氏族以外の者に嫁がせ、自分の息子たちのためには、よそから三十人の娘たちを迎えたという点です。なぜこんなことをしたのでしょうか。彼は、息子と娘たちを他の氏族と結婚させることによって争いを回避し、平和を確保しようとしたのです。いわば、それは政略結婚だったのです。このようなことは日本の戦国時代ではよく行われていたことでしたが、当時の士師たちの間では珍しいことでした。彼はこのようなことによって氏族の結束を強めようと思ったのかもしれません。

 

Ⅲ.10番目の士師エロンと11番目の士師アブドンの時代(11-15)

 

最後に、10番目の士師エロンと11番目の士師アブドンを見て終わります。11節から15節までをご覧ください。

「彼の後に、ゼブルン人エロンがイスラエルをさばいた。彼は十年間イスラエルをさばいた。ゼブルン人エロンは死んで、ゼブルンの地アヤロンに葬られた。

彼の後に、ピルアトン人ヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。彼は八年間イスラエルをさばいた。ピルアトン人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山地にあるエフライムの地ピルアトンに葬られた。」

 

エロンについての言及はもっと短いです。彼については、彼がゼブルン人で、十年間イスラエルをさばいたということ、そして、ゼブルンの地アヤロンに葬られたということだけです。つまり、彼の出身地と士師としてさばいた期間、そして葬られた場所だけです。

 

そして、彼の後に登場するのはピルアトン人ヒレルの子アブドンについての言及も同じで、彼についてもその出身地と生活、そしてさばいた年数、葬られた場所しか記されてありません。

「ピルアトン」とは「丘の頂」という意味で、エフライムにあった町です。ですから、彼はエフライムの出身でした。彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていたとあります。当時ろばは高貴な人が乗る動物でしたので、ここから彼は非常に裕福で、社会的地位が高かった人物であったことがわかります。彼が士師としてさばいたのは8年間という短い期間でした。しかし、それは平和と繁栄の時代だったのです。

 

このエロン、アブトンがイスラエルをさばいたのはわずか18年間という短い期間でしたが、それは10章1~5節で見てきたトラやヤイルの時代のように、平和と繁栄の時代でした。それはトラとヤイルの時のように特記すべきことが少ない平凡な日々の積み重ねであったかもしれませんが、それこそが神の恵みだったのです。それは何よりも神が与えてくださった秩序の中で、互いに神を見上げ、神とともに歩んだということの表れでもあります。何気ない当たり前の平凡な日々中に隠されている主の恵みに目を留める者でありたいと思います。そして、そのような中で一生を終えこの世を去っていく人こそ、本当に幸いな人生を歩んだ人と言えるのです。あなたにとっての幸いな人生とは、どのような人生でしょうか。