民数記2章

民数記2章

 

 きょうは民数記2章から学びたいと思います。まず1~2節をご覧ください。

 

Ⅰ.旗じるしのもとに宿営しなければならない(1-2)

 

「【主】はモーセとアロンに告げられた。 「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の周りに、距離をおいて宿営しなければならない。」

 

 1章には20歳以上の者で、軍務につくことのできる者が登記されました。その数の総計は603,550人でした。それは、これから約束の地に向かって進む彼らにとって、戦いに備える必要があったからです。そのように軍隊が組織されてこそ、敵と戦っていくことができます。ですから、その最初は軍隊を整えることだったのです。きょうのところには、その配置について教えられています。ここには、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない、とあります。イスラエルの民は、自分の好きなところどこにでも宿営したのではありませんでした。部族ごと、決められたところにテントを張らなければなりませんでした。そして、そのしるしがこの旗だったのです。旗しるしのもとに宿営することになっていました。この旗は、それぞれ幕屋の周りの東西南北の4方向に掲げられています。12部族は、それぞれの方角に3部族ずつ割り当てられ、それぞれに代表の部族がいました。

 

この「旗」とは、部隊としての「旗」です。旧約聖書の中には14回使われています。そのうち13回がこの民数記で使われています。これは「旗をかかげる」とか「際立たせる」、「群れをなして集まる」という意味があります。イスラエルの民は自分の属する旗のもとに宿営したのです。全体としては、12部族が「会見の天幕」を中心にして互いに向き合い、互いに寄り添い合う形となっています。この「旗」は自分の持ち場を知って、そこで「共に生き」、「共に歩み」、「共に進み」、「共に敵と戦い」、「共に仕える」ことを意識させるものでした。

 

 それは新約聖書ではキリストご自身のことであり、キリストのことばを象徴しています。私たちはその旗じるしのもとに集められた者であり、「キリストの名」のもとに集まり、とどまらなければなりません。ヨハネ15章4~9節にこうあります。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」

イエス様を離れては、私たちは何もすることができません。イエス様にとどまってこそ敵に勝利することができるのです。ですから、私たちはキリストにとどまることを学ばなければならないのです。

 

 こうしてイスラエル人で軍務につく者の人数が数えられました。次に、彼らが宿営においてどこに位置するのか、その配置について書かれています。

 

Ⅱ.宿営の配置(3-31)

 

では、それぞれの配置を見ていきましょう。まず東側に宿営する者です。3-9節までをご覧ください。「前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとのユダの宿営の旗の者でなければならない。ユダ族の族長はアミナダブの子ナフションである。彼の軍団は、登録された者が七万四千六百人である。その隣に宿営するのはイッサカル部族であり、イッサカル族の族長はツアルの子ネタンエルである。彼の軍団は、登録された者が五万四千四百人である。その次はゼブルン部族で、ゼブルン族の族長はヘロンの子エリアブである。彼の軍団は、登録された者が五万七千四百人である。ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。」

まず前方、東側です。東側は宿営が前進していく方向です。そこにはユダ部族の旗が掲げられました。そして、この旗じるしのもとに右隣にイッサカル族が、左隣にゼブルン族が宿営しました。この三つの部族が幕屋の東に宿営したのです。その合計の人数は18万6400人です。後で他の方角の宿営地を見ますが、そのどれにもまさって、もっとも大きくなっています。9節後半をご覧ください。ここには、「彼らが先頭に進まなければならない。」とあります。これは、イスラエルが旅立つとき、東のユダ部族が先頭になって進んで行ったということです。いったいなぜでしょうか?それは、これがイエス・キリストを表していたからです。

 

創世記49章9~10節を開いてください。ここには、「ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。雄獅子のように、雌獅子のように、うずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こせるだろうか。王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う。」とあります。シロとは犬の名前ではありません。シロとはメシヤのことです。これは王なるメシヤがユダ族から出て諸国の民を従わせるという預言なのです。メシヤなる方は、このユダ族から起こります。イエス・キリストは「ユダの獅子」なのです。このイエスが先頭に立って進んでくださるのでイスラエルは勝利することができるのです。

 

それは幕屋の構造を見てもわかります。幕屋の入り口はどの方向にあったでしょうか?東側です。東から入って西へ、至聖所、神の臨在へと至ります。主イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)イエスが門なのです。だれでもイエスを通って入るなら救われるのです。イエス様こそ神に至る道であり、私たちを神と結びつけることのできる唯一の仲介者なのです。ですから、ユダ族が先頭に立って進まなければならなかったのです。

 

次に、南側に宿営した部族です。10~17節をご覧ください。「南側は、軍団ごとのルベンの宿営の旗の者たちである。ルベン族の族長はシェデウルの子エリツルである。彼の軍団は、登録された者が四万六千五百人である。その隣に宿営するのはシメオン部族で、シメオン族の族長はツリシャダイの子シェルミエルである。彼の軍団は、登録された者が五万九千三百人である。その次はガド部族で、ガド族の族長はデウエルの子エルヤサフである。彼の軍団は、登録された者が四万五千六百五十人である。ルベンの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十五万一千四百五十人。彼らは二番目に進まなければならない。 次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営が、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。宿営する場合と同じように、彼らはそれぞれ自分の場に就いて、自分の旗に従って進まなければならない。」

 

南側にはルベン族が宿営し、ルベン族の旗が掲げられます。その右隣にはガド族がおり、左隣にはシメオン族がいます。その総数は151,450人です。イスラエルが旅立つときは、ユダ族に続いて、二番目にこの軍団が出発しなければなりませんでした。

 

次に17節をご覧ください。次に進むのはレビ族です。彼らは、これらの宿営の中央にあって進まなければなりませんでした。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならなかったのです。

 

レビ人の宿営、つまり幕屋の用具や付属品を運んでいる人たちは、三番目に進みます。これは、前方からも後方からも軍がおり、幕屋が敵から守られるためです。彼らが宿営する真ん中に幕屋があり、彼らが進んでいる真ん中にも幕屋があります。これはすばらしいことです。彼らの真ん中には常に主なる神が住んでおられたのです。また、彼らは常に主なる神を中心に生活を営んでいました。

 

 次に、18~24節までをご覧ください。「西側は、軍団ごとのエフライムの宿営の旗の者たちである。エフライム族の族長はアミフデの子エリシャマである。彼の軍団は、登録された者が四万五百人である。その隣はマナセ部族で、マナセ族の族長はペダツルの子ガムリエルである。彼の軍団は、登録された者が三万二千二百人である。その次はベニヤミン部族で、ベニヤミン族の族長はギデオニの子アビダンである。彼の軍団は、登録された者が三万五千四百人である。エフライムの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十万八千百人。彼らは三番目に進まなければならない。」

 

次に、西側に宿営した部族です。西側は東側の反対側、ちょうど幕屋の裏側になります。そこに宿営したのはエフライム族です。エフライム族の旗が掲げられます。そして幕屋に向かって右隣にマナセ族、その隣はベニヤミン族が宿営しました。マナセではなくエフライムが中心になっています。マナセが兄でエフライムが弟です。それなのにマナセ、エフライムではなく、エフライム、マナセの順になっています。なぜでしょうか?それはヤコブの預言のとおりだからです(創世記48:13-14)。マナセが兄であったのも関わらず、ヤコブは腕を交差させて、エフライムに長子の祝福を行ないました。そして、弟が兄よりも強くなることを預言しました。はたして、そのとおりになったのです。

 

  次に、北側に宿営する者です。25-32節をご覧ください。「北側は、軍団ごとのダンの宿営の旗の者たちである。ダン族の族長はアミシャダイの子アヒエゼルである。彼の軍団は、登録された者が六万二千七百人である。その隣に宿営するのはアシェル部族で、アシェル族の族長はオクランの子パグイエルである。彼の軍団は、登録された者が四万一千五百人である。その次はナフタリ部族で、ナフタリ族の族長はエナンの子アヒラである。彼の軍団は、登録された者が五万三千四百人である。ダンの宿営に属する、登録された者の総数は、十五万七千六百人。彼らはその旗に従って、最後に進まなければならない。以上が、イスラエルの子らで、その一族ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」

 

北側にはダン部族が宿営し、ダンの旗が掲げられました。その右隣にアシュル族が、左隣にナフタリ族が宿営しました。

 

Ⅲ.イスラエルの宿営とイエス・キリスト(32-34)

 

最後に、32~34節をご覧ください。「以上が、イスラエルの子らで、その一族ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。しかしレビ人は、【主】がモーセに命じられたように、ほかのイスラエルの子らとともに登録されることはなかった。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、それぞれその氏族ごと、一族ごとに進んで行った。」

 

こうして、東西南北の4つの方角に整然とイスラエルが宿営しました。その数603,550人です。その姿を遠くから見たら、ほんとうにすばらしい光景であったでしょう。それにしても、なぜ神はこのような配置を取らせたのでしょうか。ここで各方角に宿営した部族の総人数に着目してください。9節を見ると、東側の総数は186,400人と一番多いことがわかります。そして、南と北がそれぞれ15万人強で、大体同じ人数です。同じ方角のレビ人の人数を数えて足すと、南も北も同じような人数になりです。そして、西がもっとも少ない135,400人です。ということは、これを上空から眺めると、ちょうど十字架の形になります。これは十字架のフォーメーションだったのです。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣だったのです。もちろん、その時点ではそんなことに気付く人はだれもいなかったでしょう。しかし、この軍団こそ、イエス・キリストご自身を指し示していたのです。

 

ここで民数記24章5~6節を開いてください。イスラエルを呪うように預言するように雇われたバラムは、この神の宿営を見てこう言いました。「なんとすばらしいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、広がる谷のよう、また川のほとりの園のようだ。【主】が植えたアロエのよう、また水辺の杉の木のようだ。」

バラムは、まじないによってイスラエルを呪うようにバラク王に雇われたのに、その美しいフォーメーションを見たとき、あまりにも美しくて思わず祝福してしまいました。十字架を見てだれも呪うことなどできません。それはかつて処刑の道具として用いられたおぞましいもので、呪われたものなのに、それが祝福のシンボルに変えられたのです。それは十字架こそ神が私たちを救うために用いられた神の愛の象徴だからです。よくアクセサリーに十字架のものをみます。十字架のネックレスとか、十字架のイヤリングです。十字架は神と私たちのアクセスになってくれたのでアクセサリーになったのです。だれも十字架を呪うことはできません。だれでもイエスの十字架のもとに行くなら罪から救われ、永遠のいのちという祝福を受けるのです。

 

ところで、神はなぜイスラエルの12部族を4つの旗のもとに、4つのグループに分けたのでしょうか。その4つというのはユダ族、ルベン族、エフライム族、ダン族です。そして、それぞれこの4つの紋章を見ると、一つのことに気が付きます。それは、これが天的な存在であるケルビムを表しているということです。

 

まずユダ族ですが、ユダ族の旗じるしはライオン、獅子でした。それからルペン族は人間です。またエフライム族は雄牛です。そしてダン族は鷲ですね。聖書の他の箇所で、この四つの動物が出てくる箇所があります。それはエゼキエル1章と黙示録4章です。エゼキエル1章10節には、人間の顔、獅子の顔、牛の顔、鷲の顔をもった生き物が当時用します。これは黙示録4章7-8節を見ると、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美している天使であることがわかります。そう、それはケルビムとか、セラフィムと呼ばれる天使たちのことであり、その類の生き物なのです。つまり、この4つの旗じるしを通して、天国のイメージを表していたのです。

 

それから、この4つの生き物ですが、これは4つの福音書を表しているのではないかと考える人もいます。最初はマタイの福音書です。マタイの福音書はユダヤ人の王として来られたキリストの姿が強調されています。ですから、王としての系図が記されてあるのです。マタイの福音書はユダヤ人のために書かれたのです。動物の王といったら何でしょうか。百獣の王ライオンです。それはユダの紋章でした。ですから、ユダ族に対応するのがマタイの福音書であると言えます。

 

マルコの福音書は、しもべとしてのキリストの姿が強調されています。仕えるために来られたキリストです。ですから、マルコの福音書には系図がないのです。エフライム族の紋章は雄牛でした。それはしもべの象徴です。ですから、エフライム族に対応するのがマルコの福音書であると言えます。

 

そして、ルカの福音書は人間としてのキリストの姿が強調されています。人の子としてのキリストです。ですから、系図はアダムまで遡って記録されているのです。ルベン族の紋章は何だったでしょうか。それは人間でした。ですから、これはルカの福音書に対応します。

 

そして、ヨハネの福音書は神としてのキリストが強調されています。それはダン族によって現されています。鷲のように空高く飛ぶことができる。それはまさに天的な存在を表していたのです。イエス・キリストこそ神の子であるということです。

 

ですから、このイスラエルの宿営はイエス・キリストご自身と、その十字架が描かれていたのです。神の子として、人の子としてこの世に来られたイエス・キリストを受け入れるなら、私たちは救われ、圧倒的な神の臨在の中で勝利が与えられるということです。そのことが現されているのが福音書です。この福音を理解して、福音に生きるなら、私たちも勝利のうちに約束の地に行くことができるのです。

わざわいなこと、幸いなこと 伝道者の書10章12~20節

2021年3月7日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書10章12~20節(旧約P1152)

タイトル:「わざわいなこと、幸いなこと」

 

 今日は、伝道者の書10章後半から学びます。この箇所も、前回に続いて、知恵を正しく用いることの大切さを教えています。

 

Ⅰ.愚か者の唇はその身を滅ぼす(12-15)

 

 まず、12~15節をご覧ください。「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を呑み込む。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」

 

愚か者の定義は、10章前半でも見ました。たとえば、3節には「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とありました。「あの人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ってみたり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するわけです。また、4節には「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とありました。すぐにカッとなって怒りをぶちまけ、その場を立ち去ってしまいます。我慢することができません。

 

ここでも、そのことばについて言及されています。「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を?み込む。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。」

その人が発することばを聞いていると、その人が知恵ある人なのか、愚かな人なのかがよくわかります。というのは、知恵ある者が語ることばは優しく人を生かしますが、愚かな者が語ることばは相手に不快感を与え、結局、自分自身を滅ぼしてしまうことになるからです。最初は単なる冗談のつもりで言ったことが、最後には悪い結果をもたらすのです。

 

その特徴は何かというと、よくしゃべるということです。永遠にしゃべり続けます。彼は黙っていることができません。黙るタイミングを知らないのです。その結果、しゃべらなくてもいいようなことをしゃべっては、墓穴を掘るようなことをしてしまいます。たとえば、自分の将来のことや、これから後に起こることを知ったかぶりしてしゃべるのです。これから後に起こること、これから先、自分の身にどんなことが起こるかなんてだれも知りません。それなのに、それを得意になってしゃべっているとしたら、それこそ自分がどれほど愚かな者であるのかを露呈しているようなものです。賢い人は、自分が無知であること、人間の知識には限界があることをよく心得て慎重に言葉を選んでしゃべりますが、愚かな人は自分の限界をわきまえずに多くのことを言って誇るのです。しかし、ことば数が多ければ失敗も多くなり、罪が露わになります。

 

このように言葉に関する言及は、箴言の中にもたくさん出てきます。たとえば、箴言15章4節には、「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。」とあります。また、箴言16章24節にも、「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」、27節には「よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ。」とあります。ヤコブの手紙にも、私たちの舌はわざわいであり、小さな火でも大きな森を燃やすように、人生の車輪を焼き尽くす、と言われています(ヤコブ3:5-6)。では何もしゃべらなければ良いのかというとそうでもありません。人間関係は心のキャッチボールですから、ことばのやり取りを通して良いコミュニケーションを図ることが求められます。問題は、どんな時に、どんな言葉を語るのかということです。ここには、知恵のある者が口にすることばは恵み深くとありますから、恵み深いことば、優しいことばをかけて、人の成長に役立つ言葉を語り、聴く人に恵みを与えなければなりません。

 

元医師で、「子どもの家福音寮」の寮長をしていた井上哲雄牧師は、あるとき男の子が廊下で立ち小便をしているのを見つけました。子どもはすぐにでも怒鳴られるのではないかとおどおどしていると、井上牧師は、「君はがまんできなかったんだね」と優しく言っただけで、何もとがめませんでした。

何年か過ぎ、成人したその少年は、「このときの寮長先生の思いやりの言葉が、今も忘れられない」と、しきりに感謝していました。

このことを聞いたカウンセラーの伊藤重平氏は、こう言っています。「がまんできなかったんだね」という言葉は、その行動を裁かず、ゆるす愛となる。

小さい親切、小さい愛の言葉が、地上を天国のように幸福にするのを手助けにする反面、偽りの舌、愚かなことばが、自分の人生ばかりか他人の人生さえも滅ぼしてしまうことになるのです。

 

15節には「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」とあります。それはことばだけのことではありません。労苦にも言えることです。愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせます。彼は町に行く道さえ知らないのです。「町に行く」というのはもっとも単純な行為ですが、それさえも知らないため道に迷ってしまうのです。そのような者がこれから後に起こることを論じるなど論外でしょう。私たちはキリストを信じ、神にかたどり造られた新しい人を着た者として、悪いことばではなく、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与える者になりたいと思います。

 

Ⅱ.わざわいの国と幸いな国(16-17)

 

次に、16節と17節をご覧ください。「わざわいなことよ、あなたのような国は。王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をする国は。幸いなことよ、あなたのような国は。王が貴族の出であり、高官たちが、酔うためではなく力をつけるために、定まった時に食事をする国は。」

 

ここには「わざわいな国」と「幸いな国」が比較されています。どのような国がわざわいな国で、どのような国が幸いな国なのかということです。愚かさと幸いのレベルが個人から国家レベルで語られています。ここには「王」ということばがありますが、これは支配者に置き換えることができます。夫婦であれば夫であり、家庭であれば親ですし、会社であれば社長、教会であれば牧師、役員、国であれば為政者となります。それを治めている人たちのことです。その王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をしているような国は、わざわいです。この「若輩で」ということばは「子どもじみて」という意味です。リーダーが子どものように幼い国は、わざわいであるということです。なぜなら、そのような王は国を治め、導く力がないからです。高級官僚たちが仕事に就かず、朝から晩までパーティー三昧です。どんちゃん騒ぎをしています。本当は仕事の準備をしなければならないのに、仕事はそっちのけで快楽にふけっているのです。こういう人が国家元首だったらどうなるでしょうか?その国は混乱することになります。そういう人が会社の社長だったら、会社は潰れてしまうでしょう。そういう親だったら家庭は崩壊してしまうことになります。そういう牧師だったら、教会は混乱するでしょう。

 

それに対して、王がしっかりしている国は幸いです。その王は人格者であり、高貴な家の出であります。彼には知恵があり、高級官僚たちが食事をするのも遊びにふけったり酔っぱらったりするためではなく、しっかり仕事をするためです。力をつけるとはそういうことです。国を治める人が怠惰であれば、国家は傾き、わざわいを招くことになります。国家の栄子盛衰は、その国の指導者がどれほど神の前にへりくだり誠実であるか、つまり、知恵があるかにかかっているのです。

 

幸いにも、私たちの国、神の国を治めておられる王は完全な方です。その方は主イエス・キリストです。キリストはこの世界に王として来られました。この方が王となって治めておられる国に住むことができるのは本当に幸いなことです。使徒ヨハネは次のように証言しています。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:10-12)

ですから、私たちがイエス・キリストを、自分の人生の王として迎え入れる時、イエス・キリストは私たちの王となって働いてくださり、祝福に導いて下さるのです。イエス・キリストが治めてくださる国は幸いな国です。この国が傾いたり、わざわいを招くことは決してありません。王であられるキリストが完全に治め、導いてくださるからです。

第一に、キリストはご自身の民を正しい道に導いて下さいます。イザヤ30:21に「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」とあります。キリストは王として私たちの人生の決断の時や、岐路に立つ時、必ず正しい道に導いてくださいます。

 

第二に、キリストはご自身の民を安全に守ってくださいます。2テサロニケ3:3には「しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。」とあります。私たちの人生は「一寸先は闇」と言われるように、何が起こるかわからない不確かさに満ちています。しかし、主はすべてを支配し守って下さいます。この王なるキリストに導かれる人は「一寸先は光」となるのです。

 

そして第三に、ご自身の民の必要をすべて満たしてくださいます。ピリピ4:19に「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とあります。王の責任は、自分の民が豊かな生活をすることができるように心を配ることです。ですから、私たちがイエス・キリストを、自分の人生の主として迎え入れる時、イエス・キリストは私たちの人生で王として働いてくださり、祝福してくださるのです。

 

あなたはこの方を王として迎えておられますか。そして、恵みとまことに満ちた人生を送っておられるでしょうか。神の国の王であられるキリストによって支配された国、その民であることは、何と幸いなことでしょうか。

 

Ⅲ.自分の口に見張りを置く(18-20)

 

最後に、18~20節までを見て終わりたいと思います。「怠けていると天井が落ち、手をこ

まねいていると雨漏りがする。パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」

 

 怠けていると天上が落ち、手をこまねいていると雨漏れがするとは、16節で語られたことのたとえです。国のリーダーなり、組織のリーダーが、自らなすべきことをなさずにいると、その屋台骨まで揺らいでしまうことになるということです。怠けていると、天井が落ち、雨漏りすることになります。私たちが最初に購入した家は築30年の古い家でしたが、少しでも教会らしくしようと瓦の屋根でしたが塔を取り付けました。するとその塔と瓦屋根の隙間から雨が入り込み雨漏りしました。結局、開拓15年目の年に新会堂を建設しましたが、その際に撤去して雨漏りしないようにしました。それで新会堂を建築する際に業者の肩に一つだけお願いしたことは雨漏りだけはしない会堂を作ってください、ということでした。「大丈夫だから、雨漏りなんてしないから」と言ってくださったので安心していたら、半年も経たないうちに雨漏りがしたのです。どうも2階のベランダのシートの隙間から雨が浸みこんだようですが、それが会堂全体に回りいろいろな所から雨漏れしたのです。ここに怠けていると天井が落ちるとありますね。そのままにしておけばやがて天井が落ちてしまうことになりますから早急に業者にお願いして修理してもらいましたが、何度点検しても雨漏りが続いて大変だった苦い思い出があります。

 

 しかし、これは建物が壊れるというだけでなく家庭や教会、社会、国が崩壊してしまうということです。自分の家、自分の国も、怠けているといつの間にか雨漏りすることになります。問題が起きてから手をこまねいていると、いつまでも手をつけないでその問題を棚上げにしていると、結局、すべてが崩壊していくことになります。

 

 19節には、「パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。」とあります。パンを作るとは、料理教室のことではありません。和気あいあいとパン作りを楽しむということではないのです。食事を作ることです。食事は楽しいですよね。食事の場は笑いのためであり、ぶどう酒は人生に楽しみをもたらしてくれます。どちらかというと私は食事を楽しむというよりも、とにかく食べることしか考えられないため妻からいつも言われます。「もう少しゆっくり食べなさい。食事は楽しみながら食べるものよ」。

 

 また、伝道者は「金銭はすべての必要に応じる」と言っています。これはどういうことかというと、「お金さえあれば何でも買える」ということです。これは正しいでしょうか?これは間違っています。確かにお金があれば食物やぶどう酒を買うことができます。また、私たちに必要なものも買えるでしょう。でも、金銭で買えないものもあります。たとえば、愛とか、喜びとか、平安とか、希望といったもの、何と言っても天国への切符を買うことはできません。お金では、真の幸福を買うことはできないのです。ですから、ここで伝道者が言いたかったことは、金銭によってほとんどのものを手に入れることができる、お金は必要のために用いられるということです。お金がすべてではありません。

 

 20節をご覧ください。ここには、「心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」とあります。日本語のことわざにも、「壁に耳あり、障子に目あり」ということばがあります。まさに、そのような人の悪口とか噂話は、巡り巡って必ずその人に知られることになるのです。なぜ?なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。おもしろいですね、鳥が運ぶのです。つまり、予期せぬ方法で、予期せぬ人物によって、そのことが伝えられることになるということです。ですから、たとえ王が未熟であっても、あるいは悪い者であっても、それを呪ってはいけません。「寝室でも」とは、家族や親友の前でさえ、という意味になります。まさか夫婦や家族のごく親しい人にだけ言ったことが外部に漏れることはないだろうと思いますが、空の鳥がその声を運び、翼のある者がそのことを告げるのです。つまり、自分の口に見張りを置く人こそ知恵のある人だというのです。

 

 あなたはどうですか。自分の口に見張りを置き、神の御言葉でいのちを生かし、神の共同体のために知恵のある者となることを求めているでしょうか。人々にこぼしていた不平不満が神にささげる祈りと変えられるように求めていきたいと思います。

 

 星野富弘さんの詩の中に、「花が上を向いて咲いている。私は上を向いてねている。あたりまえのことだけど、神様の深い愛を感じる」という詩があります(「風の旅」立風書房、p30)。

 どんな草花も暗闇に向かって咲くことはありません。みな、光の方、天に向かって咲きます。冬がくれば枯れますが、春になるとまたいのちが芽吹きます。私たちにはさまざまな人生の冬がありますが、それは春になって芽吹くためです。光に向かって咲くためです。突然の出来事に、一時は火山が噴火したかのような驚きを感じることがありますが、そこにも神様の守りの御手があるのです。この神様としっかりつながっていること、祈りによって神に向かうこと、それこそが、人々にこぼしていた不平不満が、神にささげられる祈りへと変えられる秘訣です。

 

 聖書には全部で31,173節ありますが、その真中の節は詩篇118篇8節です。そこにはこうあります。「主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。」人に信頼するよりも最初から神様のもとに行けということです。ちなみに、ギリシャ語の聖書の中で一番短い節はⅠテサロニケ5章17節です。そこにはこうあります。「絶えず祈りなさい。」人に信頼するのではなく神に信頼すること、その神に絶えず祈ること、それこそ自分の口に見張りを置き、神の御言葉でいのちを生かし、神の共同体のために知恵のある者となるための秘訣なのです。愚かな者にならないで、知恵のある者となるために神に向かい、神に祈りましょう。人に信頼するよりも神に信頼しましょう。それが、聖書が求めている知恵のある人なのです。

ローマ人への手紙2章17~29節「本当のユダヤ人」

投稿日: 2018/05/26 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「本当のユダヤ人」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1章の後半部分から、人間の罪について語ってきました。それは神を知っていながらもその神を神としてあがめようとしないばかりか、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心が暗くなって、してはならないようなことをするようになったということです。そうした人間の不敬虔と不義とに対して、神の怒りが天から啓示されるようになりました。

 では、一方のユダヤ人はどうかというと、彼らはそうした異邦人を見下し、裁いていましたが、実は彼らも、そのようにさばきながら、自分たちもそれと同じようなことを行っていたのです。彼らは神に選ばれた民であることを良いことに、その特権と恵みに甘んじて、多少の問題があっても神は大目に見てくれるだろうと錯覚していたのです。そうしたユダヤ人たちに対してパウロは、そんなにことは断じてない、神はえこひいきなどしない方であり、その終わりの日に、その人の行いに応じて報いをお与えになられると言ったのです。

 きょうのところはその続きですが、このところにもユダヤ人の罪が暴露されています。これまでもパウロはユダヤの罪を取り上げて語ってきましたが、これまではあからさまに「ユダヤ人は・・」という言い方をしないで、「すべて他人をさばく人よ」(2:1)とか、「艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも・・」(2:9)というように、一般化して語ってきました。しかし、ここからはっきりとそれがユダヤ人に対してであるということがわかるように名指しでその罪を指摘し、彼らがどういう点で間違っていたのかを示すのです。すなわち、彼らは自分たちこそ神に選ばれたユダヤ人だと自負してはいるが、そうしたことが神の民であることの証明になるのではないと言うのです。では本当のユダヤ人とはどういう人のことを言うのでしょうか。

 きょうはこのことについて三つの点でお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人たちの誇り、プライドについてです。第二のことは、そうしたユダヤ人たちの問題についてです。ですから第三のことは、本当のユダヤ人というのは外見上のユダヤ人のことではなく、心から神に従って生きる人たちのことであるということです。

 Ⅰ.ユダヤ人たちの誇り(17-20)

まず、ユダヤ人たちの誇りについて見ていきましょう。17~20節までをご覧ください。

「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」

 ここにはユダヤ人たちの誇りがしるされてあります。彼らの誇りは中途半端なものではありませんでした。なぜなら、第一に彼らには律法が与えられていたからです。神様は彼らにご自身を啓示され、みことばを与えて下さり、他の多くの民族に本当の神を証する使命を与えて下さいました。第二に、18節にあるように、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法によって教えられ、わきまえていました。ユダヤ人たちは神様からみことばが与えられていただけでなく、そのみことばによって養われていました。彼らは小さな頃からみことばの教育を受け、成人式を行う12歳になる頃には、すでにモーセ五書といって聖書の最初の五つの書を暗記していたと言われています。神様のみことばによって考え、判断する訓練が小さい頃から身に付いていたのです。他の人が外側しか見られないものでも、ユダヤ人本質を見ることができました。それはそうした神のことばによって訓練されていたからです。ノーベル賞受賞者の23%がユダヤ人だと言われていますが、それはまさに、幼いときからこうしたみことばによって訓練を受けてきたことによる祝福が大きいと言えます。小さい時からみことばによって訓練されるということはすばらしいことなのです。よく「私はクリスチャンホームに生まれ育って息苦しかった」と言う人がいますが、とんでもない、それは最も大きな祝福なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、幼い頃からそれを学んできたので、神様のみこころは何か、
すなわち、何が良いことで正しいことなのかを知っていたのです。それゆえに彼らは、そうしたことを知らない霊的盲人たちの案内人であり、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認していました。

 おそらく、この世に存在する民族の中で、もっとも誇り高き民族はユダヤ人でしょう。彼らは、自分たちは神様から特別に選ばれた民であって、いつも世界の歴史の中心にいると考えていました。そういう選民意識の虜になっていたのです。そしてそうでない人たち、すなわち異邦人を一段低い者と見なしていました。それは異邦人を「犬」と呼んでいたことからもわかります。当時のラビと呼ばれていた教師たちが書いた文章を見ると、「なぜ神様はこの地に異邦人を置かれたのか?それは地獄の燃料のためだ」と記されているほどです。時折、ユダヤ人たちが真っ赤な色の奇妙な帽子をかぶっているのをテレビで見ることがありますが、この帽子は自分たちが神様の選民であるという身分を表示するためです。この帽子にどれほどのプライドをもっていたかというと、戦争が起きても鉄かぶとの下にその帽子をかぶって行軍したほどであると言われています。

 人はそれぞれ誇りを持って生きています。誇りを持っていない人などいません。みんな何らかの誇りを持って生きているのです。そして、正当な誇りというのは私たちの人生に益をもたらしてくれます。そのような誇りは、時には自信を与え、所属意識を持たせてくれるからです。私は以前保護司をしてますが、胸につけるバッジと身分証明書がありました。一度たりとも使ったことはありませんでしたが・・・。なぜそんなものがあるのかというと誇りのためです。保護司会という会に属しているという意識を持たせるためなのです。それは国会議員も同じです。国会議員は議員バッジがあって、いつもそれを胸につけています。国会議員としての誇りのためです。会社でもロゴのついた制服を着用するのを義務付けることがありますが、それも所属意識を持たせるためです。このような正当な誇りは私たちの人生において良い役割をもたらしますが、しかしこのような誇りが、時として自分の果たすべき役割を妨げたり、将来をダメにしてしまうことも少なくありません。

 たとえば、過去の学歴や経歴を誇るあまりに、職場で少しでも気にくわない処遇を受けたりすると、「おれを誰だと思っているんだ!」と怒鳴ってみたり、「何でおれがこんなところで働いていなければならないんだ」といぶかり、会社を辞めてしまう人も少なくありません。それはこの誇りが邪魔をしているからです。自分の知っている人がテレビにでも出ようものなら、「自分はあの人のことを知っているけど、昔は大した人間じゃなかった」とか、「あいつは学生時代は全然勉強ではなかったのに」とかと言って、揶揄しりするのです。じゃ自分はどうかというと、そうしたプライドが邪魔をしてなかなか前に進めずもがき苦しんだりしているのです。

 このような誇りはむなしいものであり、人を生かすものではなく殺すものです。プライドが強くなりすぎると病的な高慢に陥ります。こういう誇りは何の助けにもならないどころか人生をだめにしてしまうのです。まさにユダヤ人の誇りはむなしく、腐ったものでした。どういう点で彼らの誇りは腐っていたのでしょうか。

 Ⅱ.ユダヤ人たちの問題(21-24)

 21~24節をご覧ください。ここには、「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。」とあります。

 彼らの問題は、神から律法が与えられ、何をすべきかを知っていながらも、それを行っていなかったことです。人に盗むなと説いておきながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、神殿のものをかすめ取っていました。律法を誇りとしていながら、その律法に違反していたわけです。

 これはクリスチャンにも通じます。「あなたはイエス様を信じているんですか」と尋ねると、「うちの父親は牧師です」とか、「親戚にクリスチャンが多いんです」とチンプンカンプンなことを言われる方がいますが、あなたがクリスチャンですかという質問と全く関係ありません。クリスチャンホームだから自動的にクリスチャンになるのではなく、親戚にクリスチャンが多ければ自分もクリスチャンなのかというとそうではありません。では、あなたは信じているんですかと尋ねると、「いや、私は信じていない」と答えたりします。これが問題です。このような人は、イエス様の十字架の血潮によって救われているのではありません。親戚にどれだけクリスチャンがいるかとか、両親が熱心なクリスチャンであるかどうかで、その人が救われるのではありません。私たちが救われるのは、イエス・キリストを信じているかどうかなのであって、そのような外見上のことが問題ではないのです。

 ユダヤ人たちが持っていた最高の誇りは、自分たちがアブラハムの子孫であるということでした。しかし、そんな彼ら対してイエス様は次のように言われました。ルカの福音書3章8節です。
「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」

 この意味は、血筋など全く関係ありません。心から神様を信じなければなりません。皆さん、ユダヤ人は今なおこのような外見上のものによって誤った確信を持っている方がおられるのです。しかし、大切なのはそうした血筋や父母の信仰ではなく自分自身がイエス様を信じているかどうかです。ヨハネの福音書1章13節には、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」とあります。イエス様を信じ聖霊によって証印を押されるまでは、どんな人であっても救いを得ることはできません。両親の信仰の遺産をよく受け継ぐなら、それは自分の財産になります。それはいくらでも誇れるでしょう。「私の家は三代にわたって主に仕え、今も熱心に仕えている。」これはすばらしい恵みです。しかし、そうした血統に頼り信仰の中身がないとしたら問題です。ユダヤ人たちは盗むなと言いながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌うと言いながら偶像崇拝のようなことをしていたのです。中身がありませんでした。彼らの宗教は外見だけの宗教だったのです。

 今はすべての権威が崩れ行く時代です。ある家で、あまりにも勉強しない息子に父親がこう言いました。「おい。少しくらいは勉強したらどうだ。リンカーンはおまえの年で独学で弁護士になったんだぞ」すると息子は何と言ったでしょうか。「何言ってんだよ。リンカーンはお父さんの年に大統領になったんだよ」。訓戒を与えようとする父親に対して、あんたなんかにそんなこと言われたくないと言って反発するのです。何が問題なのでしょうか。中身がないことです。口先だけで生きている。親が本気になってその生き方を見せるときだけ、語ることばに力を持つのです。これは親だけでなく学校の教師でも誰でも、人を指導する立場にある人ならすべての人に言えるのではないでしょうか。子どもたちに、「神様のみことばは重要だ」と何百回言っても、自分がそのみことばに生きていなければ力がありません。子どもたちは両親が何を重んじているかをちゃんと見ているのです。教会学校の聖書クイズで一番になったと報告しても、親は特に反応はしないでしょう。しかし、学校のテストで成績が一番になったと聞いたらもう大騒ぎです。友達や親戚中に話して回るのではないでしょうか。そうすると知らず知らずのうちに子どもの心に、「お父さんとお母さんは、神様を信じて従うことが一番大切だとは言うけれども、実際は学校の成績が一番になることを喜ぶんだな!」と思うようになるのです。そして、礼拝や教会のことは放っておいてもいいから、学校で一番になって両親を喜ばせなくちゃという意識を持つようになります。私たちが何を言うかではなく、どのように行うかが重要であって、そうした実際の生き方が子どもたちの心に植え付けられるのです。

 重要なのは聖書をどれだけ知っているかということではありません。重要なのはそれをどれだけ行っているかです。その生き方なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、神のみこころは何なのか、何をなすべきなのかということを知っていながら、あるいはそれを教えていながら、自分ではそれを行っていませんでした。それが問題だったのです。そのようにして彼らは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間でけがされている」というみことばのとおりになってしまいました。

 Ⅲ.本当のユダヤ人とは(25-29)

 ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、心から神を信じなさいということです。御霊によって生きましょうということです。25~29節をご覧ください。
「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

 パウロはここで、割礼の問題を取り上げています。割礼とは、男子の性器の先端の皮を切り取ることです。それは神の民であるユダヤ人のしるしであり、救いのしるしでした。割礼のない者は地獄に行くと、ユダヤ教のラビたちが教えていました。それほど割礼はユダヤ人たちにとって重要なものだったのです。その割礼についてパウロはここで何と言っているでしょうか。パウロはこう言うのです。割礼を受けているかいないかが重要なのではなく、律法を守っているかどうかが重要なのだ・・・と。すなわち、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではない。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人なのであり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼なのです。どういうことかというと、信仰というのは、内面性が重要であるということです。信仰が堕落すると外的、儀式的なことが強調されるようになり、それに力を入れ始めるようになりますが、しかし、信仰において重要なのはその内容であって、御霊によって、心から神を信じ、神に仕えていく生き方なのです。

 しかし、それはユダヤ人だけのことではありません。私たちもややもするとこうしたユダヤ人たちと同じように外見に、形式的な信仰に陥ってしまう危険性があるのではないでしょうか。たとえば、洗礼を受けさえすれば救われるといった考えです。洗礼を受けることは大切なことです。なぜなら、それは神のみこころだからです。しかし、洗礼を受けることが天国に行けるという保証ではないのです。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:17)と聖書にあるように、信じることが重要なのです。それは継続を表しています。信じ続けること、何があってもイエス様にとどまり、イエス様に従って歩んで行きますという決心です。すなわち、信仰の内面性なのです。心の中まで見通される神の前に立ち、へりくだって神を仰ぎ、神を慕い求め、神のみこころにかなった歩みをしていきたいと願う心です。その時、その誉れは、人からではなく、神から来るのです。

 アメリカにロバート・ファンクさんというアメリカ最大の牧畜業を営んでおられる方がおられます。この方はプロのホッケーチームのオーナーもしておられる方ですが、とても熱心なクリスチャンです。しかし、最初から熱心だったのかというと、そうではありません。
 この方はお母さんがクリスチャンであったことから、小さい頃からいつも教会に連れて行かれました。ところが学校を卒業してビジネスに入ったとたんに、仕事が忙しくなって教会に行かなくなってしまいました。それでも彼は、20年以上も教会に通っていたのだから、自分ではクリスチャンだと思っていました。そして、聖書のこともよく知っていると自慢していたのです。
 そんなある日、仕事の仲間に誘われてビリー・グラハムという有名な伝道者の集会に出かけて行きました。その集会には何万人も集まって来るので普通の建物ではなく、野球場で行われていました。何万人という多くの人々の中の一人として、彼は聖書の話なら大抵知っているという思いで聞いていたのです。
 ところが、ビリー・グラハムの語る一つ一つの言葉が、彼の心に新鮮な響きをもって響いてきました。そして、自分は今までクリスチャンだと思っていたけれども、もしかすると違うのではないかと思うようになりました。というのは、ビリー・グラハムが次のように言われたからです。
「本当の信仰とは、何年教会に通っているとか、聖書をどれだけ知っているかということではなく、生ける神と個人的な関係が築かれているかどうです。」
 そのとき彼は考えました。神様との個人的な関係?考えてみたら、自分は何年も教会に行って、聖書のこともよく知っているけれども、神様と個人的な関係を持っているだろうか?もしそれが本当の信仰だと言うのなら、自分にはそれがないのではないか・・・と。そして、何千人の人たちともに、イエス・キリストを主として信じて受け入れ、イエス・キリストを中心とした生き方が始まったのでした。

 Ⅱコリント5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。」というみことばがあります。この「だれでもキリストのうちにあるなら」ということばを、モファットという聖書学者は、「だれでもキリストに信頼するなら」と訳しています。つまり、たとえクリスチャンでも、キリストに信頼しないなら、キリストに信頼することを忘れていたら、新しく造られたものとしての人生を歩むことはできないのです。「新しく造られた者」とは、十字架につけられたイエス・キリストを信じて、神の子として新しく生まれることであり、その御霊によって、御霊に信頼して、日々、生ける神と個人的な関係を持って歩む人のことなのです。どんなにみことばを知って、暗唱していても、そのみことばにあるように、イエス様を信じ、御霊に従って、謙遜に歩む者でなければ意味がないのです。

 大切なのは、新しい創造です。それこそ真のイスラエルなのです。どうか、自分の知識、経験、能力といった外見だけのむなしい誇りを捨てて、イエス・キリストを信じ、その御霊によって、日々、神に従って歩んでください。そのとき、主が驚くべきみわざを成してくださることでしょう。この基準に従って進む人こそ神のイスラエル、本当のユダヤ人なのです。神はこのような人を求めておられるのです。



メッセージへ戻る

ヨハネの手紙第一2章18~29節「キリストのうちにとどまりなさい」

投稿日: 2018/05/19 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは、「キリストのうちにとどまりなさい」というテーマでお話しします。ヨハネは1章5節で「神は光であり、神には全く闇がない」と語り、この神を信じ、神の光の中を歩む者とはどのような者なのかを示しました。それは第一に自分の罪を悔い改め、御子イエスの血によって罪をきよめていただくことでした(1:9)。もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分を欺いているのであって、その人のうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。これが光を歩む者の土台、ベースです。

第二のことは兄弟を愛するということでした(2:10)。もし私たちが神を知っているというなら神の命令を守るはずです。その命令とは何でしょうか。その命令とは兄弟を愛するということです。目に見える兄弟を愛することができなくて、どうして目に見える神を愛することができるでしょうか。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

そして第三のことは、前回の箇所で学びましたが、世を愛してはならないということでした(2:15)。もし世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。なぜなら、だれも二人の主人に仕えることはできないからです。神を愛する者は、神に心を傾けなければならないのです。

 そしてきょうのところには、光の中を歩むクリスチャンが警戒しなければならないことが教えられています。それは「反キリスト」です。世の終わりが近くなると選民を惑わそうと多くの反キリストが現れますが、そのような者に惑わされないように気を付けなければなりません。どうすればいいのでしょうか。キリストのうちにとどまっているということです。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.今は終わりの時(18-21)

 まず18節から21節までをご覧ください。18節をお読みします。
「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」

ヨハネはここで「幼子たち」と呼びかけています。前回のところでヨハネは、この手紙の読者たちにそれぞれの霊的段階に分けて、「子どもたちよ」「父たちよ」「若者たちよ」と呼びかけましたが、ここでは「幼子たち」と呼びかけています。これは霊的に幼いというよりも、すべてのクリスチャンに対して語られていると理解して良いでしょう。この時ヨハネは100歳近くに達していたと思われますが、そんな長老ヨハネからすべてのクリスチャンに向けて家族のような親しみを込めて語りかけられているのです。

その内容は何というと、今は終わりの時であり、多くの反キリストが現れているということでした。それによって今が終わりの時であることがわかります。イエス様はマタイの福音書24章の中で、世の終わりの前兆、しるしについて預言されましたが、その中の一つにこの反キリストが現れることを上げました。4節、5節です。
「そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしこそキリストだ」と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:4-5)
世の終わりには多くの反キリストが現れます。これが世の終わりの前兆の一つなのです。そしてヨハネの時代にはすでにこの反キリストが現れていました。それはどういうことかというと、今がその終わりの時であるということです。

でもちょっと待ってください。イエス様がこのように言われたのは今から二千年前ですよね。でもまだ世の終わりは来ていないじゃないですか。世の終わりだと言うのであれば、もうとっくの昔に来ているはずじゃないですか。それっておかしくないですか?いい質問ですね。でもそのように言われるのは、この「終わりの時」とは何かをよく理解していないからです。一口に「時」と言ってもいろいろな時があります。まず個人的な「時」があります。今年は就職の時だという人がいれば、昨日は結婚式がありましたが、結婚の時だという人もいますし、マイホームを建てる時だという人もいます。また会社や政治の世界にも時があります。多くの人はそうした自分の時に心が奪われ、もう一つの大切な時があることを忘れています。それは神の時です。神の計画全体の中で今がどのような時なのかということを見失ってはなりません。神は天地万物を創造された時からキリストが再臨され新しい天と新しい地を創造される時までの計画を持っておられ、その時を進めておられるのです。

では、その神の計画全体の中で「今」はどのような時なのでしょうか。ヨハネはここで「今は終わりの時です」と告げています。「終わり」とは「最後」という意味です。すなわち、今は神のご計画全体の中で最終段階にさしかかっている時なのです。新約聖書では、この「終わりの時」を二つの意味で用いています。第一に、キリストが生まれてから再臨されるまでの全期間という意味です。キリストが初めに来られた時から、この終わりの時はすでに始まっているということです。もう一つの理解は、そうした中でも特にキリストの再臨がごく近い時を指しているということです。この場合キリストがいつ来られても不思議ではありません。ここでヨハネが用いているのはこの第二の意味においてです。ヨハネがこのように言ってからすでに二千年が経とうとしています。そういう意味では、時は刻一刻と世の終わりが近づいていることは確かなことだと言えます。いったいどうしてそのように言えるのでしょうか。

ヨハネはここでその理由を次のように述べています。それは、多くの反キリストが現れているからです。「反キリスト」とは何でしょうか。「反キリスト」とはギリシャ語で「アンティ・クリストス」と言いますが、意味はキリストに反抗する者、キリストに取って代わる者です。聖書ではこの「反キリスト」という言葉が、三つの種類で用いられています。第一に、終わりの時に現れる一人の反キリストのことです。この反キリストについてはダニエル書9章27節、11章31節、12章11節に言及されていますが、世の終わりに現れてエルサレムの神殿を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据えると言われています。イエス様もマタイ24章15節で、この「荒らす忌むべきもの」について言及しました。

第二に、これは反キリストの霊のです。Ⅰヨハネ4章3節を見ると、ここに「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」これは一人の反キリストのことではなく、ありとあらゆるところに活発に働いている反キリストの霊です。古くはイスラエルが奴隷であった時のエジプトの王ファラオに、あるいは、紀元前5世紀にペルシャの王アハシュエロスに仕えていたハマンもそうです。彼は、ペルシャにいた全ユダヤ人の抹殺を計画しました。あるいは近代では皆さんもご存知でしょう第二次世界大戦の時に600万人ものユダヤ人を虐殺したアドルフ・ヒトラーもその一人です。彼らはイエスを告白しないばかりか、キリストに反抗し、神が選ばれし民の虐殺を試みました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは反キリストの霊が働いていたからです。

しかし、ここで言われている「反キリスト」というのはこれら二つの意味とは違います。ここで言われている「反キリスト」とは、偽預言者たち、偽教師たちのことです。それはここに「多くの反キリスト」と複数形で書かれてあることからもわかります。具体的にはイエス・キリストの神性を否定する者たちのことです。イエス・キリストは神と等しい方ではない。イエス・キリストは神に造られた存在であって、神に劣る存在だと教えていた者たちです。前回もお話ししたように当時はグノーシス主義という教えがはびこっていました。その教えの特徴は「霊肉二元論」でした。つまり、霊は善で、肉体は悪であるという考えです。このような考えに立ちますと、肉体を持っておられたイエスが神であるはずがないということになります。そこでイエスはもともと人間だったがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時にキリストの霊が下り神のようになったが、十字架につけられる直前にその霊がキリストから離れて行ったので、その結果、人間イエスだけが十字架の苦しみを受けたにすぎないというようなまやかしを吹聴していたのです。

初代教会は常に戦いの中にありました。コリントの教会は道徳的な問題があり、ガラテヤの教会は救いの問題がりました。また、テサロニケの教会はキリストの再臨の問題が論争の中心でした。ペテロの第一の手紙では苦難の問題が強く打ち出されていました。そして今ヨハネが取り扱っているのはエペソの教会を中心とする小アジアの教会が抱えていたキリスト論でした。そしてそれは真理の根幹にかかわる大きな問題でした。

そしてそれは彼らばかりでなく、現代の私たちの教会も抱えている戦いでもあります。なぜなら、今は終わりの時だからです。多くの反キリストが現れて、神の民を惑わそうとしているのです。ですから、私たちは今がどのような時(時代)なのかを見分け、これにきちんと対処していかなければなりません。クリスチャンはただ熱心でまじめであればそれでよいのではありません。今がどのような時であるのかを見分け、真理であられるキリストにしっかりととどまっていなければならないのです。それによってキリストが約束してくださったもの、永遠のいのちを受け継ぐことができるからです。

Ⅱ.反キリストの特徴(19-25)

では、この「反キリスト」とはどのような者たちなのでしょうか。19節から25節までのところに、この反キリストについて二つの特徴が述べられています。一つは、反キリストは教会を去って行った者たちであるということです。19節をご覧ください。
「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。」

「私たちの中から」とは「教会の中から」という意味です。反キリストの特徴は教会から出て行った者たちであるということです。もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったら出て行くことはなかったでしょう。とどまっていたはずです。しかし、彼らが出て行ったのは、私たちの仲間ではなかったということが明らかにされるためでした。

でも誤解しないでください。ここで言われている「私たち」すなわち「教会」とはこのような一個一個の教会(地域教会)のことではなく、キリストのからだとしての教会、つまり、普遍的な教会ことです。もしこれが地域教会のことであったとしたら、私たちはほとんど反キリストになってしまいます。信仰を持ってからずっと同じ教会にとどまっているという人は少ないからです。しかし、ここで言っているのはそういうことではなく、キリスト教は間違っているとキリスト教信仰に反抗し、どのキリストの教会にも属さない人たちのことです。信仰告白の異なる者がどうして神の家族であり得ましょう。たとえどんなに人間的に親しくてもそれで神の家族になるわけではありません。キリスト教信仰において一致しなければ、結局、教会を去って行くことになります。それは彼らが私たちの仲間ではなかったことが明らかにされるためです。世の終わりにはこのようにして光と闇とが明らかにされていくのです。

第二の特徴は、22節と23節に記されてあります。それは、イエスがキリストであることを否定する者たちであるということです。
「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父を持っているのです。」
イエス・キリストは100%まことの神であり、100%まことの人であられましたが、ヨハネはここで特にキリストの神性を否定する者、キリストは神ではないと主張する者こそ反キリストであると強調しています。

キリスト教の三大異端として知られているエホバの証人、モルモン教、統一協会などにはいずれもこの二つの特徴がみられます。彼らはもともと教会の中にいましたが教会を出て、自分たちの独自のグループを作りました。その特徴はイエスがキリストであるということを否定していることです。
たとえば、エホバの証人は、正式には「ものみの塔聖書冊子協会」と言いますが、1884年にアメリカのチャールズ・ラッセルという人によって始められました。彼はもともと長老派の教会に通っていたクリスチャンです。9歳の時に母親を亡くすと自宅近くの組合教会に行くようになりますが、そこで聖書の教えと自分の考えが合わないため納得できないと、教会を出て独自の教理を作りました。
たとえば地獄の教理です。神が人をさばくなんてありえない、とても恐ろしいことだと、地獄の教理を否定したのです。また、イエス・キリストが神である考えられないと、三位一体の教えも否定しました。ではイエスとは何なのか。イエスはエホバなる神が創造された天使長ミカエルです。この天使長のミカエルが人間イエスになって万物を創造したというのです。つまり、イエスはエホバによって創造された被造物にすぎないというのです。彼らもイエスを信じていると言います。しかし、彼らが信じているイエスとは神としてではなく、天使長ミカエルが人間になったイエスが十字架で死なれたことを信じているのです。それは聖書の教えを逸脱しているのですが、反対に彼らは既成の教会こそ間違っていると、攻撃してくるのです。

モルモン教も同じです。モルモン教は正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」と言いますが、名前だけでは一般のキリスト教会と区別ができないほど非常に紛らわしいですね。私がまだ教会に行き始めた頃、郵便局で二人のアメリカ人に声をかけられました。彼らは自分たちがクリスチャンだというので、私はうれしくなって「そうですか、私もそうです。」と言うと、「今度ぜひ教会に来てください」と誘われたので、「わかりました。ぜひ行きたいと思います」と案内の記された名刺をいただいたのですが、帰ってから家内に話したら、「それは教会じゃない。モルモンです」と言われ、「そうか、危なかったな。行かなくてよかった」と思いました。もしあの時ホイホイと着いて行ったら、今ごろモルモン教の伝道師になっていたかもしれません。

このモルモン教の創設者はジョセフ・スミスという人ですが、彼もまたクリスチャンホームで育ちました。しかし、彼が14歳の時に神から啓示を受けたと言います。「すべての既成の教会は間違っているし、どの教会に行ってもならない」というものでした。それで彼は教会を出て、自分たちの独自のグループを作りました。それがモルモン教会です。彼は独自に与えられた啓示を「モルモン経」としてまとめ、聖書と同等の権威あるもの、いや聖書よりももっと正確に神の御旨を知ることができるものと主張しました。その教えの特徴は神論にあります。聖書は、神はただおひとりで、とこしえからとこしえまで神であり、全知全能で遍在されると教えていますが、モルモン教では、これとは違い、神は、かつて「ある地球」に住み、他の神の支配下にあって、死を免れない人間であった、と教えています。 生死を味わった人間として、神は進歩することができ、完全な者へと達し、そのあと自らの努力で神へと昇栄した、というのです。わけがわからないですね。ですから、モルモン教の教理によると、人もまた信仰の研鑽を積み、地上でモルモン教会の戒め、儀式に対して従順であることによって神々となることができる、と言います。イエス・キリストについては、天父エローヒムが生み出した旧約聖書のエホバであり万物を創造したと教えます。いすせれにせよ、モルモン教でもイエスは神によって創られた神だと主張しています。
もちろん、このような教理ですから、正統派の教会にとどまることはできず、1830年4月6日、ジョセフ・スミスが24歳のとき、ニューヨーク州でモルモン教会を設立することになります。彼は神ご自身がモルモン教会を「地上における唯一まことの生ける教会」と指定したと宣言しました。モルモン教会だけが唯一まことの教会だと主張し、既成の教会を否定したのです。

また、統一協会もそうです。統一協会は、正式には「世界キリスト教統一神霊協会」と言います。「協会」は「教会」ではなく「協会」です。創設者の文鮮明も初めは熱心なクリスチャンでした。でもクリスチャンホームで育てば自動的にクリスチャンになるというのではなく、中には異端的な教えをもってカルトを作るような者も現れます。彼も初めは長老派の教会に属し、日曜学校でも教えていました。しかし16歳の時にイエス・キリストが彼の目の前に現れ、「わたしが果たせなかった神の御旨を、あなたが変わりに担ってもらいたい」と懇願したので、最初は恐れ多いと断るも、何度も何度も懇願されたので、「わかりました。私があなたのやり残した仕事を担いましょう。」と引き受けることにしました。1954年のことです。
その教えの特徴は、キリストを否定するところにあります。イエス・キリストは祭司ザカリヤとマリヤの間に誕生した不倫の子どもだと言います。イエスは創造目的を完成した人間にすぎず、だれでも努力によってその域まで達することができる。したがって、イエスは創造目的を完成した人間として神性を持っていましたが、神ご自身ではないし、神にはなりえません。イエス・キリストの十字架の贖いは不完全だったので、神が再臨のキリストを地上に送り、地上に天の御国建設の使命を託したというのです。その再臨のメシヤ、キリストこそ文鮮明だというのです。

何ともデタラメな教理ですが、こういう教えを信じる人たちもいるんですね。彼らに共通していることは、彼らは教会を去って行った者たちであるということと、イエスがキリストであることを否定する者たちであるということです。でも世の終わりが近くなると彼らだけでなく、こうした惑わす者たちがたくさん現れるようになります。「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすのです。ですから、私たちは惑わされることがないように気を付けなければなりません。どうしたらいいのでしょうか。

Ⅲ.キリストにとどまりなさい(26-29)

ですから、第三のことは「キリストのうちにとどまりなさい」ということです。26節から29節までをご覧ください。
「私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありません。あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」

ヨハネはこの惑わす者たちについて、書いてきました。それは彼らがこうした反キリストの教え、偽りの教えに惑わされることなく、真理にとどまることによってです。24節には、「あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。」とあります。「もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。」

このヨハネの手紙におけるキーワードの一つは、この「とどまる」ということです。イエスがキリストであることを否定しないために必要なことは、私たちが初めから聞いていることにとどまることです。初めから聞いていることとは何でしょうか。それは「真理」です。20節と21節をご覧ください。ここには27節と同じことが書かれてあります。つまり、私たちには「聖なる方からの注ぎの油」があるので、みな真理を知っているのです。

ここに「知っている」ということばが繰り返して出てきます。この「知っている」ということばはこれまで出てきた「知る」ということばとは違うギリシャ語が使われています。これまで出てきた「知る」ということばはギリシャ語で「ギノスコー」ということばでしたね。それは表面的にではなく深く知るということでした。知的な面だけでなく体験的に知るということです。しかし、ここで使われている「知っている」ということばはギリシャ語で「オイラー」という語で、これは直感的に知るという意味です。パッと見ただけでわかります。瞬間的に物事の本質を判別することができるという意味です。ですから、異端的な教えを聞くとそれが間違っているということが直感的にわかるのです。何が、どのように違うのかを説明することはできないかもしれませんが、何か違うということが直感的にわかるのです。ピンときます。なぜでしょうか?20節にあるようにも私たちには「聖なる方からの注ぎの油」があるからです。この「注ぎの油」については27節にも繰り返して書かれてあります。「聖なる方からの注ぎの油」とは何でしょうか。それは聖霊のことです。すなわち、私たちには聖霊が注がれているので、聖霊が私たちに真理を教えてくれるのです。ヨハネの福音書には、この方は「真理の御霊」と言われています。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」(ヨハネ16:13)この注ぎの油が、すべてについてあなたに教えてくれるのです。ですから、エホバの証人の教えを知らなくても、モルモン教の教えがわからなくても、統一協会の教えを知らなくても、ピンときます。それが違うということが直感的にわかるのです。ちょっと聞いただけで、「あっ、違う」とパッとわかる。「ちょ」「ピン」「パッ」です。

ですから、キリスト教の三大異端について詳しく学ばなくてもいいし、学ぶ必要もありません。私たちに必要なのは真理にとどまることです。本物に触れることです。本物を知れば、すぐに偽物を見分けることができます。銀行の行員さんは手で触っただけで偽札がわかると言います。なぜなら、いつも本物に触れているからです。ですから本物を知れば偽物がわかります。私たちは聖なる方からの注ぎの油があるので、真理を知っています。大切なのは、この真理にとどまることです。私たちの問題はこの真理から離れてしまうことです。自分の置かれた状況に振り回されたり、人のことばに影響されて、真理から離れてしまうのです。

信仰の父と称されているアブラハムでさえ神が約束した地に入ることができたのに、そこにききんがあったとき、エジプトに下って行ってしまいました。それは神のみこころではありませんでした。神のみこころはそこにとどまっていることでた。それなのに彼はとどまっていることができませんでした。かぜでしょうか。神ではなく問題を見たからです。自分の生活が脅かされるのではないかと心配して、神に信頼することができなかったからです。彼にとって必要なのは神のことばに信頼し、そこにとどまっていることだったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも真理を信じています。しかし、自分の予期せぬことが起こったり、どうしようもない問題の渦に巻き込まれたりするとき、神のことばにとどまることができず、そこから離れてしまうことがあります。私たちは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなければなりません。もしそこにとどまっているなら、私たちも御子と御父のうちにとどまることができます。これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

イエス様はこのことをぶどうの木と枝の関係にたとえて、こう言われました。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4-5)

さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。世の終わりが近くなると多くの反キリストが現れて、私たちの信仰を惑わし、私たちは揺れに揺れますが、しかし、終えし得られたとおり、御子のうちに、キリストのうちにとどまりましょう。これこそ終わりの時に生きる私たちクリスチャンの歩みなのです。



メッセージへ戻る

ヨハネの手紙第一2章12~17節「世を愛してはならない」

投稿日: 2018/05/16 投稿者: Tomio Ohashi


 ヨハネの手紙から学んでおります。1章のところでヨハネは光の中を歩む人とはどういう人なのかについて述べました。それは自分が罪人であることを認め、その罪を悔い改める人です。そうすれば光であられる神と交わりを保ち、光の中を歩むことができます。御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださるからです。

 そして前回のところでは、光の中を歩む人のもう一つの特徴を述べました。それは兄弟を愛するということです。自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいるのであって、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかがわかりません。闇が目を見えなくしているからです。しかし、自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

 きょうのところには、光の中を歩む人のもう一つの姿が描かれています。それは御父を愛するということです。言い換えると、世を愛さないということです。もしだれかが世を愛するなら、その人のうちに御父の愛はありません。きょうはこの「世を愛してはならない」ということについてお話ししたいと思います。

 Ⅰ.子どもたち、若者たち、父たち(12-14)

 まず12節から14節までをご覧ください。
「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが、御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」

ヨハネは1節で、「私の子どもたち」と呼びかけて、彼らが罪を犯さないようにと勧めましたが、ここでもまた「子どもたち」と呼んでいます。しかし、ここでは「子どもたち」だけでなく、「父たち」、「若者たち」という呼びかけもなされています。どういうことでしょうか。おそらくこれは、神の家族の構成というか、クリスチャンの霊的成長段階を表しているのではないかと思われます。つまり、神の家族には信仰的に子どものような人がいれば、若者のような人、そして父のような人がいるということです。それは単に年齢的にそうであるということではなく、霊的成長の段階においてそうであるということです。この世では幼児、青年、成人、そして老人という四つのステージに分けられますが、クリスチャンの成長段階は子供たち、若者たち、父たちの三つの段階に分けられるということです。

まず子供たちとはどういう人たちのことでしょうか。12節をご覧ください。ここには、「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあります。14節には、「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。」とあります。「子ども」と訳されている原語のギリシャ語では「テクニオン」と言う言葉で、これは、いわゆる「子ども」のことです。これに対して、「幼子たち」とは「ダイギオン」ということばが使われています。これは「小さな幼子」を意味しています。ですから、ここでは生まれたばかりの小さな幼子とちょっと成長した子どもを一つのカテゴリーに入れているのです。

この子どもたちに言われていることはどんなことでしょうか。それはイエスの血によってあなたの罪が赦されたということです。もう罪責感に悩むことはありません。あなたのすべての罪は赦されて神の子どもとされました。それは14節でも言われています。ここには、「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。」とあります。「御父を知った」というのは、神がどのような方であるかを知ったということ、つまり、神は愛であるということを知ったということです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」(ヨハネ3:16)つまり、あなたの罪は赦されたという信仰の基本的事実を知ったということです。

これが信仰の出発点です。すべてのクリスチャンの土台であります。しかもここに「イエスの名によって」とあるように、それは自分の努力や決心によってではなく、イエスの御名を信じることによって一方的に与えられた恵みです。イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目に死からよみがえってくださったことによって救いの御業は完成しました。この救いは、主イエスの御名を信じるすべての人にもたらされたのです。これがすべてのクリスチャンの土台です。御霊によって新しく生まれたクリスチャンはこの事実を知り、ここに立っていなければなりません。

しかし、罪赦されたクリスチャンはいつまでもそれだけにとどまっていてはいけません。そこから霊的にステップアップしていかなければならないのです。それが次の「若者たち」という段階です。13節をご覧ください。ここには「父たち」とありますが、その前にその後にある「若者たち」を見ていきましょう。子どもは急に父になるわけではなく若者という成長段階を通って父になっていくからです。この「若者たち」に言われていることはどのようなことでしょうか。ここには、「若者たち。私があなたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。14節にも同じことが繰り返して語られています。14節には、「若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」ほとんど同じ内容です。

「若い者たち」とは、「悪い者に打ち勝った」人たちです。それは霊の戦いにおいて勝利した人たちのことを指しています。すなわち、敵である悪魔の誘惑や攻撃に勝利した人たちのことです。頼もしいですね。血気盛んというか、力強さを感じます。人間の成長段階においても20代、30代の若者は力があります。あまり肉体的な疲れを感じません。まさかユンケルとかリポビタンDといった栄養剤を飲んでいないでしょう。集中力があります。それは信仰的にも同じで、彼らは霊の戦いにおいて悪い者に打ち勝つことができます。どのようにして打ち勝ったのでしょうか?14節には、「あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。それは神のことばにとどまることによってです。「とどまる」という言葉は、この手紙におけるキーワードの一つです。神のみことばがその人にとどまることによって、悪魔に打ち勝つことができるのです。逆にみことばにとどまっていなければ、敗北してしまうことになります。神のことばにとどまらない若者は無鉄砲のように、ただ勢いがあるだけでどこに飛んで行くかわかりません。しかし、神のことばにとどまるなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

次は「父たち」です。13節をご覧ください。「父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたが知るようになったからです。」これと同じことが14節にも繰り返して語られています。父たちの特質は何でしょうか。「初めからおられる方」を知っているということです。「初めからおられる方」とはだれのことですか。そうです、イエス・キリストのことです。ヨハネの福音書1章1~3節にはこうあります。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

イエス・キリストこそ初めからおられた神です。父たちとは、この方を知るようになった人たちです。どういうことでしょうか?この「知る」ということばは原語のギリシャ語では「ギノスコー」ということばで、これはただ知識的に知るということではなく、体験的に知るという意味があります。つまり、この人たちはイエスを体験的に知ったことでこの方と深く交わり、その結果イエスのように変えられた人たちであるということです。これがクリスチャンの目標でもあります。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。良い行いをすることによって救われるのではなく、良い行いをするために救われたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いさえもあらかじめ備えてくださいました。それはイエス様に似ることによって、イエス様のようになることによってもたらされます。ですから霊的に成熟している人たちを見てください。だれの目にも魅力的です。輝いています。理想的ですね。何があっても動じません。そこには平安があります。いつも内なる喜びにあふれているのです。

先日、東京バプテスト教会の阿久津恵美さんが二人のご友人と一緒にさくらの教会を訪ねてくださいました。阿久津さんは大田原のご出身の方ですが東京に行ってから教会に行くようになりクリスチャンになられました。大田原の出身の方がどうやって信仰に導かれたのかとても興味があり、大田原に向かう車の中で尋ねました。「ところで、阿久津さんはどうやってクリスチャンになられたのですか?」すると彼女はこう答えられました。
「私はキリスト教の幼稚園に通っていたので小さい時からキリスト教には抵抗はなかったんですが、上京して就職した職場がかなり殺伐としていて人間関係も最悪だったんです。しかしその中に一人だけいつもにこにこしていて平安そうな同僚がいたんです。だからその人に、「あなたはどうしてそんなに平安でいられるの」と尋ねたら、その人はクリスチャンで毎週教会に行っているということでした。それで違う教会でしたが日曜日に教会に行ってみたんですが、皆さんとても温かく迎えてくださいました。でもあまり伝道してくれなかったので結局クリスチャンになるまで10年くらいかかっちゃったんですが、イエス様を信じることができて感謝です。」

イエス様のような人はだれの目にも明らかです。いろいろな困難や苦しみがあっても動じません。だれもがそのようになりたいと思うような魅力をもっています。それが霊的大人です。ここでは「父たち」と呼ばれています。言い換えると、そのような人はイエス様だけで十分ですという人です。イエス様が自分のすべてなのです。前回のところにも、「神のうちにとどまっているという人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」とありましたが、そういう人は、イエス様が歩まれたように歩みます。イエス様ならどうするかということを考えて歩むのです。若い時はそうではありませんでした。あれもこれもといろいろなことに関心がありました。しかし霊的に成熟してくるとだんだん一つに絞られていきます。イエス・キリストだけで十分ですとなるのです。

使徒パウロは、Ⅰコリント2章2節でこう言っています。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」(Ⅰコリント2:2)
彼は十字架につけられたイエス・キリストで十分でした。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、彼は十字架につけられたイエス・キリストで十分でした。なぜなら、キリストは神の力、神の知恵であられるからです。かつてパウロはあれもこれもといろいろ追い求めていましたが、神のお取り扱いを受けると彼の関心一つのことに絞られました。それが初めからおられる方を知るということだったのです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんは今どの段階におられるでしょうか。皆さんが子どもであることはすばらしいことです。イエス様を信じて罪赦されたということは最高の祝福です。それはすべてのクリスチャンが知らなければならないことであり、すべてのクリスチャンの土台です。でもそこにとどまっていてはなりません。私たちはさらに成長することができます。若者として勝利を味わうことができます。みことばによって霊の戦いに勝利することができるのです。しかし、そこで止まっていてもいけないのです。さらに進んですばらしい霊的高嶺に達することができます。それは初めからおられた方を知るということ、イエス・キリストのようになることです。それを目指して進まなければなりません。

Ⅱ.世を愛してはならない(15-16)

では、イエス様だけを愛し、イエス様だけを求めて生きるためにはどうしたらいいのでしょうか。15節と16節をご覧ください。「あなたは世をも世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものです。」

これは子どもたちだけでなく、若者たちにも、父たちにも、すべての人に対して語られていることです。それは世も世にあるものも、愛してはならないということです。どういうことでしょうか?これは「社会から孤立して生きなさい」ということではありません。また、「自分の趣味や楽しみはすべて捨てなければならない」ということでもないのです。また、社会から離れれば離れるほど自分がきよくされると思い込んで、「私は新聞など読みません。新聞などという世のものに触れると心が汚れますから。」とか、「テレビも見ません。見るのはNHKと『ライフライン』だけです」というのも違います。ここで言われている「世」とは、神によって造られながら神を認めようとせず、神に敵対して悪魔の支配下にある領域のことです。つまり、「御父から出たものではなく、この世から出たもの」です。それはどういうものかというと、16節にあるように、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」といったものです。悪魔はこのようなものをもって人を神から引き離そうと誘惑してきます。

「肉の欲」とは何でしょうか。「肉の欲」とは、人間の持って生まれた肉の性質、堕落した罪深い性質のことです。ガラテヤ5章19~21節には、「肉のわざは明らかです。すなわち、みだらな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」とあります。
詳訳聖書には、この「肉の欲」とは「官能的な満足に対する渇望」とあります。この世の不品行や姦淫とかいわゆる性的不道徳な欲望のことだと言われています。一般に、欲それ自体は問題ではありません。性欲にせよ食欲にせよ、ほんらい神様が人間に与えられたよいものなのです。しかし、これらの欲は神様がお許しになったルールのなかでのみ人間を幸福にするのであって、それを逸脱すると肉の欲となってしまいます。

「目の欲」とは何でしょうか。目の欲とは、外側から目を通して入ってくる誘惑のことです。ものの外観に惑わされ、真の価値を見失ってしまうことです。井戸垣彰先生は、「目の欲は肉の欲が働く入口である。」(「新聖書講解シリーズ」P157)と言っています。「肉の欲」はしばしば目から入ってくるからです。たとえば、エバが食べてはならないという木の実を取って食べたのは、悪魔に誘惑されて、それを見たからです。それを見ると、その木は食べるのによさそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかったのです。それで彼女はその見を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べました。また、ダビデがバテシェバと姦淫を行った時も、自分の部下であるウリヤの妻バテシェバを見て、その美しさに魅了されたのが原因でした。

人は何を見るかによって思いが形成され、それが行動に現れていきます。ですからイエス様も、情欲をいだいて女を見るものは、姦淫を犯したと言われたのです。それは心で犯す罪のことです。ですから、何を見るかということはとても重要なことなのです。あなたは何を見ているでしょうか。目の前にどんなものを置いていますか。気を付けたいですね。目の欲は私たちの回りにあふれています。そして目の欲は飽くことを知りません。それが私たちの肉をあおるのです。ですから、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)とあるように、目に注意しましょう。いつも良いものを見るようにしたいものです。そして、御霊に満たされ、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22-23)とあるように、御霊の実を身につけたいと思います。

次は「暮らし向きの自慢」です。「暮らし向きの自慢」とは、英語では「Pride of life」とあります。それは自分の生活を誇ることです。たとえば自分がどんな豪邸に住んでいるかとか、高級車を持っているかとか、どれだけ貯金があるかとか、ブラントもののバッグを持っているかとか、あるいは、自分がどんなに賢い人間かを誇ることもそうです。大邸宅に住むこと自体が罪ではないし、ベンツやBMWといった高級車に乗ることも罪ではありません。貯金をすることも、ブランドもののバッグやスーツを持っていることも、それ自体では罪ではありません。しかし、そのようなものを持っているから自分を偉いと思う心があるならば、そうした虚栄心や起こりがあるとしたらそれは世を愛しているのであって、御父から出たものではないということを覚えておかなければなりません。

いったいなぜこの世にあるものを愛してはならないのでしょうか。15節と16節をもう一度ご覧ください。ここにその理由が記されてあります。それは、「もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」それは「御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」すなわち、もしこの世を愛するなら、そこには、御父を愛する愛はありません。愛の性質上、人は二つのものを同時に愛することはできないのです。一方を愛して他方を憎むか、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。イエス様はこのことをマタイの福音書6章24節でこのように言われました。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」

多くの人が悩むのは、同時に二人の主人に仕えようとするからです。しかし同時に二人の主人に仕えることはできません。神にも仕え、富にも仕えることはできません。神に仕えるのか、富に仕えるのか、二つに一つであって、その中間など絶対にないのです。両方を大事にし、両方に仕えようとするなら、間違いなく神以外のものに支配され、飲み込まれてしまうことになってしまうでしょう。

Ⅲ.世と世の欲は過ぎ去る(17)

ではどうしたらいいのでしょうか。金ではなく神を愛しましょう。世と世にあるものではなく、神を愛しましょうということです。最後に17節をご覧ください。「世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」

どうして世と世の欲を愛してはならないのでしょうか。ここにもう一つの理由が述べられています。それは過ぎ去ってしまうものだからです。いつまでも続くものではありません。永続しないものに愛を注いで何になるでしょう。何にもなりません。すべては水の泡です。この世に重きを置くなら、残念ながら最後は消えて無くなってしまいます。

しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。それは岩の上に家を建てた人のようです。イエス様はマタイの福音書7章のところでこう言われました。
「ですから、わたしのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(マタイ7:24-27)

あなたは何の上に土台を据えていますか。岩の上ですか、それとも砂の上ですか。この世に土台を据えるなら、それは見え目では良いかもしれませんが、人生に洪水が押し寄せたると、倒れてしまうことになります。しかし神のみこころを行うならば、永遠の神の国に土台を据えて生きるなら、どんな嵐が襲って来てもびくともすることはありません。岩の上に建てられているからです。これこそ神を愛する者、神のみこころを行う者です。

私たちの信仰生活の目標はイエス様のようになることです。しかしその過程にはそれを妨げるものが何と多いことでしょう。様々な誘惑があります。悪魔は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったものをもって誘惑してきます。だからヨハネは、私たちが罪を犯さないためにどうしたらいいのかを教えているのです。それはイエス・キリストです。私たちには御父の前で弁護してくださる義なるイエス・キリストがおられるのです。この方が助けてくださいます。
「あなたがたの経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

イエス様も私たちと同じ試練を経験なさいました。四十日四十夜、断食した後で荒野に上って行かれました。すると試みる者がやって来て、イエス様を誘惑しました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)
これは肉の欲です。空腹を覚えているときそんなことを言われたら、どの石もパンのように見えるでしょう。でもイエス様は答えて言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」(マタイ4:4)
大切なのは神のみことばが何と言っているかであって、自分の肉の欲を満たすことではないと言って退けました。

すると再び悪魔がやって来て、今度はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の頂に立たせて言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。神はあなたのために御使いを送り、その両手であなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たらないようにするでしょう。」(マタイ4:6)
これは暮らし向きの自慢です。もしそうなれば英雄になれるでしょう。自分がどんなにすごい者なのかを誇ることができます。でもそんな悪魔の誘惑に対してイエス様はキッパリと言いました。「あなたの神である主を試みてはならない」と書いてある。」(マタイ4:7)

すると今度はイエス様を高い山に連れて生き、この世のすべての王国と栄華を見せて言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(マタイ4:8)
これも大きな誘惑ですね。人は目に見えるものに弱いからです。私はいつも教会の隣の土地を見ていて、「ここが教会の駐車場になったらいいなぁ」と思っていますが、そんな時、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを上げようと言われたら、心がグラグラするのではないかと思います。グリグラですよ。しかし、イエス様はこう言われました。「下がれ。サタン。あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。」(マタイ4:10)
すると悪魔はイエス様を離れて行きました。イエス様はここにある肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といった悪魔の誘惑に勝利しました。なぜでしょうか。御父を愛しておられたからです。御父から出ておられたからです。神から出た者は、神のみこころを行います。

そして、このイエス様が、いつも私たちとともにいてくださいます。それは私たちの模範のためでした。イエス様は私たちが受ける試練や誘惑を前もって経験され、それをよく知っておられました。この方があなたとともにいて助けてくださるのです。あなたは決して一人ではありません。主がいつも共にいて助けてくださることをどうぞ忘れないでください。そして、この主にあって悪魔の誘惑に勝利させていただきましょう。世と世にあるものを愛するのではなく、あなたのためにいのちを捨てるほど愛してくださった主を愛しましょう。そのようにして少しずつでもイエス様のような者に変えられていくことを求めていきたいと思います。



メッセージへ戻る

士師記1章

投稿日: 2018/05/12 投稿者: Tomio Ohashi


 今回から士師記の学びに入ります。まず1節をご覧ください。
「さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」
士師記は「ヨシュアの死後」から始まります。そして士師記の最後、21章25節には、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」とありますが、ヨシュアが死んでから最初にイスラエルの王となったサウロに油を注いだ最後の士師サムエルが没するまでの約300年間(B.C.1381-1050)、イスラエルの民がどのような歩みをしていたのかの歴史が記されてあります。

 「士師」とは、「さばきつかさ」のことです。それは一言でいえばイスラエルの指導者のことです。イスラエルが敵によって苦しめられているとき、軍事的指導者として戦い、また行政的にも司法的にも指導的役割を果たしました。

 全体の内容は大きく分けると三つに分けられます。第一のパートは1章から2章にかけて、ヨシュア死後のイスラエル人とカナン人の敵対関係について、第二のパートは、3章から16章にかけて士師による苦難からの解放の様子について、そして第三のパートは、17章から21章にかけて、イスラエルの民の霊的状態、すなわち、イスラエルの民はおのおの自分の目に正しいと見えることを行ったため、社会は無秩序でめちゃくちゃな状態となっていたということです。

それでは、早速1章を見ていきたいと思います。まず1節から21節までをご覧ください。まず7節までをお読みします。

Ⅰ.アドニ・ベゼク(1-21)

「さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。」そこで、ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私に割り当てられた地に私といっしょに上ってください。カナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地にあなたといっしょに行きます。」そこでシメオンは彼といっしょに行った。ユダが上って行ったとき、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を打った。彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り取った。すると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。」

ヨシュアの死後、イスラエル人は主に尋ねました。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」
なぜイスラエル人はこのように主に尋ねたのでしょうか。イスラエル人はカナン人と戦って勝利し、既にヨシュアによってその地の割り当て地が与えられていたはずです。しかし、それでもまだ完全に占領していたというわけではなく、まだ占領すべき地が残っていたからです。ヨシュア記13章1節には、主がヨシュアにこう言ったとあります。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」神の約束にしたがって、確かにヨシュアはその地を自分たちのものにすることができましたが、それでもなお占領すべき地は残っていたのです。ですから、ヨシュアが死んだ後も彼らは戦い続けなければなりませんでした。

すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。」ユダ族はカレブによって導かれた最も勇敢な部族です。ですから、上って行ってその地の住民と戦うのに最もふさわしい部族だったのでしょう。それでユダは兄弟シメオンと一緒に上って行きました。シメオン族はユダ族に吸収されるかのように、ユダ族の中に割り当て地を受けていたので、ユダとしては兄弟の中でも特に親しみを感じていたのでしょう。兄弟の中の兄弟という感覚があったに違いありません。

それで彼らが上って行くと、ベゼクでアドニ・ベゼクと戦い、カナン人とペリジ人を討ちました。ベゼクとは、マナセ族の領地のちょうど真ん中ぐらいにある町です。すなわちユダとシメオンは北上してこの町の王アドニ・ベゼグと戦ったのです。そして、そこに住んでいたカナン人とペリジ人を討ちました。

ところが、その時アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らは後を追って捕らえ、その両手両足の親指を切り落としました。これは何とも残虐な行為のようですが、相手を戦うことができないよう状態にしたということです。手の親指がなければ剣を持って戦うことができないし、足の親指がなければ、体全体のバランスをとることができず、立って歩くこともできません。結局彼はエルサレムに連れて行かれて死にました。

その時彼が言ったことばに注目してください。7節です。彼は「神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」と言いました。かつて自分が行なった罪深い行為の報いを受けていると思ったのです。かつて70人の王たちにした報いを受けて、自分の同じようにされていると思ったのです。確かに神は人の悪を憎まれます。そしてその悪に対して正しく報いを与えられます。しかし、もし彼が「神が愛と憐れみの満ちた方」だということを知っていたら、同じ状況になっても違うことを言ったのではないでしょうか。「神様、私は罪人です、私の罪を許して下さい。私の両手両足の親指が失われた事は自業自得です。でも、私の人生はあなたのものですし、あなたが始められたのですから、たとえ人が私の親指を奪い去っても、あなたの愛と計画を持ち去ることは出来ないでしょう。あなたはきっと私の人生を癒して生き返らせて下さいます。どうか私を助けて下さい。」その時、彼の指は回復しなかったとしても彼の霊的な手足は回復して、失意から希望に変えられたに違いありません。私たちも自業自得というようなことがよくありますが、それでも神は愛と憐みに満ちた方であると信じて、この神の前にへりくだり、神のあわれみを受ける者でありたいと思います。

次に8節から15節までをご覧ください。
「また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は以前はキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを打ち破った。ユダはそこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は以前はキルヤテ・セフェルであった。そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか。」と尋ねた。アクサは彼に言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」

その後、ユダ族はエルサレムを攻めてこれを取りました。そこにはエブス人という強力な敵がいましたが、そこも攻め取りました。その後彼らは南下して、山地やネゲブやシェフェラに住んでいたカナン人を攻めました。ネゲブとは砂漠地帯、シェフェラとは山地と平地の間の丘陵地帯、すなわち、低地のことです。ですからこれは、ユダ族が山地と低地と砂漠地帯一体で戦いを繰り広げたということです。そしてヘブロンに住んでいたカナン人も攻めました。ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバと言います。ヨシュア記14章15節には、このアルバという人物はアナク人の中で最も偉大な人物であったとあります。そのアルバの三人の息子シェシャイとアヒマンとタルマイが住んでいましたが、それも攻めて討ちました。

しかし、そんなカレブでしたが、かなり厳しい戦いを強いられたことがありました。それはキルヤテ・セフェルとの戦いです。それでカレブは「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」(12)と言って、自分の娘を褒美として与えてまでもこの地を攻め取ろうとしました。そのとき手を上げたのが、ケナズの子オテニエルでした。彼はこのキルヤテ・セフェルを攻め取ったので、カレブは彼に自分の娘のアクサを妻として与えました。

彼女が嫁ぐとき、彼女は夫に畑を求めるようにしきりに促すも、彼女が求めたものは湧き水でした。それでカレブは彼女に、上の泉と下の泉を与えました。どうして彼女は畑ではなく湧き水を求めたのでしょうか。それは15節にあるように、そこがネゲブの地、すなわち、砂漠地帯だったからです。どんなに畑を求めてもその畑を耕して収穫を得るためには水が必要です。それでアクサは湧き水を求めたのです。カレブは、娘のこの要求を非常に喜び、上の泉だけでなく下の泉も与えました。この泉とはため池のことです。ため池は、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などでは農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう、人工的に造成されました。、カレブはこの泉を与えたのです。

これは私たちの信仰生活においてとても重要なことを教えていると思います。すなわち、私たちには土地が必要ですが、収穫のためにはより根源的なものが必要であるということです。ではより根源的なものとは何でしょうか。それが泉なのです。とかく私たちは表面的なものに関心が向き、それを求めがちですがもっと重要なのはより本質的なもの、より根源的なものです。それは、祈りとみことばであり、そこから湧き出てくる神のいのち、聖霊の満たしです。私たちがまず求めなければならないものはこの神の国とその義であって、そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられ、神の御業があらわされるようになります。そうでないと、私たちの信仰は極めて表面的で、薄っぺらなものになってしまうでしょう。そして人間としての本来の在り方というものを失ってしまうことになってしまうことになります。そのようにならないように、私たちはいつも私たちの中に祈りの祭壇を築き、神のいのちに満ち溢れることを求めていかなければなりません。

次に16節から21節までをご覧ください。
「モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。ユダは兄弟シメオンといっしょに行って、ツェファテに住んでいたカナン人を打ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。ついで、ユダはガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。彼らはモーセが約束したとおり、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の息子を追い払った。ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。」

モーセは、ミデヤンの祭司イテロのところに住み、そこでチッポラを妻としました。ですからモーセにはイテロの息子たちである義兄弟がいたのです。それがケニ人です。そのケニ人の子孫がユダ族といっしょになつめやしの町からアラドの南にある荒野に上って行き、そこの民とともに住みました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。エリコから南にあるユダの荒野に上って行きました。彼らにとって荒野の方が住みやすかったのでしょう。

ユダ族の快進撃は続きます。今度は兄弟シメオンと一緒に行って、ツェファテに住んでいたカナン人を討ち、そこを聖絶しました。さらにアシュケロンとその地域、エクロンとその地域も攻め取りました。このアシュケロン、エクロンは海岸地域です。後にペリシテ人が住むようになる土地です。ですから、彼らはかなり広範囲にわたって攻め取ったことがわかります。どうしてこのように広範囲にわたって攻め取ることができたのでしょうか。それは主がともにおられたからです。主がともにおられたので、ユダは山地を占領することができました。しかし、平地の住民は追い出すことができませんでした。鉄の戦車を持っていたからです。けれども、それは理由になりません。主がともにおられるのであれば、たとえ敵が鉄の戦車を持っていても何の問題もないからです。それなのに追い出すことができなかったのは、神の約束よりもその置かれた状況を見て恐れたからです。主ご自身よりも鉄の戦車の方が大きくなってしまったのです。主ご自身がともにおられその敵と戦われるのですから、彼らにとって必要だったのはただ主に聞き従うことだったのです。それなのに彼らは敵の戦車を見て恐れてしまいました。ユダは完全に聞き従わなかったのです。

このようなことが私たちにもあります。主に従ってはいるけれども中途半端な従い方をしてしまうということが・・・。私たちは、自分で克服できる問題には信仰をもって対処しますが、克服できないと思うことに対しては逃げてしまうことがあるのです。ちょうど「鉄の戦車があるから」という言い訳をしてしまうのです。けれども、このように信仰において妥協があると、最終的に肉が共存し、自分自身を苦しめてしまうことになってしまいます。

21節をご覧ください。それはベニヤミン族も同じでした。ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住むようになりました。エルサレムも、谷にいた住民のように、地形的に敵が入り込めないようになっており、自然の要塞となっていました。けれども、それでエブス人を倒すことができないという言い訳にはなりません。彼らには全能の主がついておられたのですから。実際に後にダビデがエブス人と戦うようになりますが、その時まで何百年も本当は攻略することができたのに攻略せず、戦いを先延ばしにしていただけなのです。私たちは逃げることはできません。ただ前進して戦うのみです。主がともにおられるなら、主が勝利を与えてくださいます。それを信じて前進するかどうかです。鉄の戦車を見ておびえてはなりません。難攻不落の要塞を見てあきらめてはならないのです。主が戦ってくださることを信じて、主の命令に従って前進しなければならないのです。

Ⅱ.ヨセフの一族によるべテル奪回(22-26)

次に22節から26節までご覧ください。ここにはヨセフ一族によるベテロの奪回のことが記されてあります。
「ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。主は彼らとともにおられた。ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は以前はルズであった。見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。そこで、その者はヘテ人の地に行って、一つの町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。」

「ヨセフの一族」とは、マナセ族とエフライム族のことです。彼らはベテルに上って行きました。ベテルはエルサレムの北19キロに位置し、ベツレヘムとエフライムの境にある町です。以前は、ルズと呼ばれていました。しかし、ヤコブが兄エサウのもとから逃れてハランに住む叔父ラバンのもとへ向かう途中ここで天からのはしごの夢を見たことで、ここをベテル、「神の家」と呼ぶようになりました。かつてアブラハムもネゲブに向かう途中でこのベテルに滞在して、祭壇を築きました。そういう意味ではとても霊的に重要な町です。

ヨセフ一族はこのベテルを攻略するにあたりその町を探るも、なかなか攻略の糸口が見つかりませんでした。そこで彼らはその町から出てきた人を見て、「この町に入るところを教えてほしい。」と言います。「そうすれば私たちも、あなたに誠意を尽くすから。」と。かつてイスラエルがエリコを攻略した際にラハブにしたようにです。するとその人は町の出入り口を教えてくれたので、彼らは剣の刃でこの町を討ちました。しかし、教えてくれたその人とその氏族の者はみな約束したとおり自由にしてやりました。自由になったその人はどうしたかというと、ヒッタイト人の地に行って町を建て、その町をルズと呼びました。このヒタイト人とはヘテ人のことで、北シリア,アナトリア一帯を領有していたと言われています。(アマルナ文書)

Ⅲ.カナン人を追い払い得なかった村落のリスト(27-36)

最後に27節から36節までを見て終わりたいと思います。 ここにはマナセ、エフライム、ゼブルン、アシェル、ナフタリ、ダンといったカナンの中部と北部に定住した部族がカナン人を追い払わなかった村落のリストが記されてあります。
まずマナセ部族です。27節と28節をご覧ください。「マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。イスラエルは、強くなってから、カナン人を苦役に服させたが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」
エフライムも同じです。29節です。「エフライムはゲゼルの住民カナン人を追い払わなかった。それで、カナン人はゲゼルで彼らの中に住んだ。」
マナセとエフライムはカナン人を苦役に服させましたが、完全に追い払うことをしませんでした。苦役に服させるのと追い払うのでは大きな違いがあります。私たちは、肉を十字架につけて殺してしまわなければいけません。それなのに、その肉をそのままにして表面的に対処しようとすると、それが共存して逆にそれによって悩まされることになってしまうのです。彼らはいつもこうした弱さがありました。ヨシュア記17章16節にも、かつてヨシュアがマナセとエフライムに「戦いなさい」と鼓舞したのに、彼らはヨシュアにこういう言い訳をしました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(ヨシュア17:16)」
鉄の戦車が問題なのではありません。問題はだれとともに戦うのかということです。主が共に戦ってくださるのであれば何の問題でもありません。しかし、彼らは自分たちにできるかできないかを計算することで、信仰によって踏み出すことをしませんでした。

次はゼプルンです。30節には、彼らはキテロンの住民とナハロルの住民を追い払わなかったので、カナン人は彼らのただ中に住み、苦役に服しました。

次はアシェルです31,32節をご覧ください。彼らもアッコの住民やシドンの住民などを追い払わなかったので、その土地の住民の中に住みました。ここではカナン人が彼らの中に住んだのではなく、彼らがカナン人の中に住んだとあります。霊と肉が逆転しています。追い払うことをしないと支配していると思っていても、逆に支配されるようになってしまいます。

次はナフタリです。33節です。彼らもベテ・シェメェシュの住民やベテ・アナトの住民を追い払わなかったので、その土地に住むカナン人の中に住みました。

最後はダン族です。34節から36節です。「エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、なにせ、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。こうして、エモリ人はハル・へレスと、アヤロンと、シャアルビムに住みとおした。しかし、ヨセフの一族が勢力を得るようになると、彼らは苦役に服した。エモリ人の国境はアクラビムの坂から、セラを経て、上のほうに及んだ。」
ダン族がもっとも状況がひどいです。彼らは自分たちの割り当て地に住むことさえできませんでした。追い払うのではなく、追い払われてしまいました。ヨセフの一族とはエフライム族のことです。彼らが強くなったとき、エモリ人を苦役に服させました。

モーセ(申命記7章)とヨシュア(ヨシュア記23章)の警告を聞き入れなかった結果が、この士師記の種々のエピソードにつながっていきます。どんなに自分の目で良いと思えることでもそれが神の命令にかなったものでなければ、神に従うべきです。「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(ヨシュア23:11)とヨシュアは警告したが、真に、私たちは自らの霊性を守る歩みが求められています。そのことに私たちが気づかされ、この世の倫理、この世の考え方に流されず、それらを超えた聖書の教えに立つことができるように、祈り歩ませていただきましょう。



メッセージへ戻る

ヨハネの手紙第一2章1~11節「兄弟を愛する」

投稿日: 2018/05/12 投稿者: Tomio Ohashi


 前々回からヨハネの手紙から学んでおります。ヨハネがこの手紙を書いたのは、この手紙の読者が、御父および御子イエス・キリストとの交わりに入ってほしかったからです。ここにいのちがあります。このいのちの交わりに入れられるなら、喜びにあふれるようになります。当時は多くの反キリストが現れていた闇の時代でした。そうした闇の中にあってもいのちであられる神との交わりを持つなら希望と力が与えられます。喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 

それでは、キリストとの交わりに入れられた人の歩みとはどのようなものでしょうか。ヨハネは続いてこう言いました。1章5節、「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には全く闇がないということです。」したがって、6節にあるように、「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」つまり、神と交わりを持っていると言うのなら、光の中を歩むはずだというのです。とは言っても、私たちは弱い者であり、自分でこうすると決断してもすぐにその意思はどこかへ行ってしまい、気づいたら闇の中を歩んでいることがあります。光の中を歩むにはふさわしい者ではありません。

 

 大丈夫です、神はそのことを重々承知のうえで、私たちを助けてくださいますから。それはイエス・キリストの血です。御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、自分には罪がないと言うのではなく、自分にはそうした弱さや罪があるということを認めて、その罪を悔い改めなければなりません。もし私たちが罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。そうです、光の中を歩む人というのは自分が罪人であることを認めて、その罪を悔い改める人のことなのです。そうすれば神の愛と赦しという光が差し込んできます。そうすれば光であられる神との交わりを保ち、光の中を歩むことができるのです。

 

 きょうの箇所には、この光の中を歩む者のもう一つの姿が描かれています。それは兄弟を愛するということです。

 

 Ⅰ.義なるイエス・キリスト(1-2)

 

 まず1節と2節をご覧ください。

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」

 

 ここに、ヨハネがこの手紙を書いたもう一つの目的が書かれてあります。それは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。罪を犯した後で告白して赦されることは恵みですが、そうなる前に、罪に打ち勝って正しく行動できるのはもっとすばらしいことです。

 

 しかし現実的に罪を犯さないで生きるというのは難しいことです。三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである。」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことはできないのです。正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、心の醜さ、冷たい言葉などに心を痛めます。ですから、罪を犯さないというのは無理なのです。

 

しかしここに慰めがあります。私たちが罪を犯してうなだれる時、「それでもお前はクリスチャンか」と悪魔が責め立てるような時、その背後にある神の約束のみことばにより頼むからです。ここには、「しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」とあります。

れは人間社会と全く逆です。人間の社会では、それまでは立派な人間として評価されていた人でも、ひとたび罪を犯したらすぐに放り出されてしまいます。先日も5人組の若者人気グループの一人が罪を犯したら、そのとたんすべてのテレビ局が彼をシャットアウトしました。社会的な影響を考えるとやむを得ないことだと思いますが、これがこの社会の現実なのです。しかし聖書が告げる弁護者は違います。その方は「義なるイエス・キリスト」です。キリストは、もしだれかが罪を犯したなら御父の前でとりなしてくださいます。この「とりなしてくださる方」という言葉は、新改訳第三版では「弁護してくださる方」と訳されています。ヨハネの福音書14章6節では「助け主」とも訳されています。人は罪を犯した時こそ助けが必要です。その助け主こそ、弁護してくださる方、義なるイエス・キリストなのです。

 

 キリストはどのように助けてくださるのでしょうか。キリストが私たちを弁護してくださるのは、人間の弁護士のように無理に無罪を勝ち取ろうと主張したり、情状酌量を訴えたりすることによってではありません。その罪に対する神の審判は正しく、私たちは死刑を宣告されても致し方ないような者ですが、キリストはそんな私たちの罪のために宥めのささげ物となってくださるのです。

 

ここでは裁判のイメージで語られています。私たちが罪を犯して落ち込んでいる時に、私たちを訴える者がやって来て、「おい、おまえ。それでもクリスチャンか。」と言うわけです。「もうクリスチャンなんてやめた方がいいんじゃないか。そもそも神様はお前なんか愛していない。おまえがやったことは決して赦されないんだぞ」と訴えてくるのです。そして、裁判官である神様に向かい、「神様、これはどうしようもない人間です。クリスチャンとは名ばかりで、見込みがありません。もう面倒見てもしょうがないです。罰を与えてください。ギャフンと言わせてください。」と訴えるのです。そう言われたらどうですか。もっともです。もう神様に顔向けなんてできません。しかし、私たちの弁護者であられるキリストが、裁判官である神にこう弁論してくださるのです。

「父よ、確かにこの人は罪を犯しました。しかし、私がこの人の代わりに十字架にかかって、この人が受けるべき刑罰のすべてを引き受けました。この人の罪はわたしが流した血によってきよめられました。だからこの人には罪はありません。この人は無罪です。だれもこの人を罪人として訴えることはできません。」

それで裁判官である神様は、私たちに無罪を宣告されるのです。それは私たちが何かをしたからではなく、この方が私たちの罪のために、いや、私たちの罪だけでなく、全世界の罪のための宥めのささげ物となってくださったからです。

 

「宥めのささげ物」ということばはあまり聞かない言葉ですが、これは次の三つのことを意味しています。第一に、人間の罪に対して、神は怒っておられるということ。第二に、その神の怒りをだれかが代わりに受けてくれたということ。そして第三に、その結果完全な罪の赦しがもたらされたということです。キリストの十字架は、私たちの罪に対する神の怒りを完全になだめてくれました。イエス・キリストが十字架にかかってくれたことで、私たちの罪に対する神のすさまじい怒りが完全になだめられたのです。キリストが私たちを弁護してくださるというのは、神ご自身が宥めのそなえ物となってくださったという事実に基づいているのです。ですから、赦されない罪などありません。この方が弁護してくださるからです。神はこの義なるイエス・キリストのゆえに私たちを完全に赦してくださるのです。それは私たちばかりでなく、彼を信じるすべての人に対して効力があります。また、それは私たちの過去の罪ばかりでなく、これからも犯すであろう罪も含めて、すべての罪に対しても言えることなのです。なぜなら、へブル7章24節、25節にこのようにあるからです。

「イエスは永遠に存在されるので、変わることのない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」

 

すばらしい約束ではありませんか。イエス様は永遠に存在しておられます。代わることのない祭司です。その祭司の務めこそ「とりなし」です。イエス様は永遠の祭司として、私たちのために父なる神にとりなしてくださるのです。何とすばらしい約束でしょうか。これこそ光の中を歩む者の土台です。私たちは汚れた者で、罪を犯さずには生きて生けないような者ですが、キリストがそんな私たちのために宥めのそなえ物となってくださり、私たちの罪を完全に赦し、今も父なる神にとりなしてくださるので、私たちも光の中を歩むことができるのです。

 

Ⅱ.イエスが歩まれたように(3-6)

 

次に3節から6節までをご覧ください。ここには、光の中を歩むとはどういうことなのかが具体的に語られています。

「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」

 

光の中を歩むとはどういうことでしょうか。それは、神の命令を守るということです。「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。」しかし、「神を知っていると言いながら、その命令を守っていなければ、それは偽りであり、その人のうちには真理はありません。」というのは、私たちが神を知っている(4)とか、神のうちにいる(5)、神にとどまっている(6)というのは、神の命令を守る(4)とか、みことばを守る(5)、イエスが歩まれたように歩む(6)ということによって現れるからです。私たちが神を知り、神が私たちを愛してくださっていることを知っているならば、私たちは神が言われていることに喜んで聞き従うはずだからです。けれども神を知っていなければ、神のみことばは苦痛以外の何物でもありません。自分の願いどおりに生きることが楽しく自由なことのように思われ、そこに幸せや真の人間らしさがあるかのように思えるからです。実際には罪の奴隷として欲望のままに、欲望に引きずられて生きているのにすぎないのですが、そのようには思えません。なぜ?神を知らいからです。

 

しかしそのような人でも、神を知るなら変化が起こります。神の命令と神のことばがその人の内で喜びとなり、道しるべとなり、善悪の判断の基準となります。神のみことばに従って正しく歩みたいという願いが起こされ、その願いは生活全体を支配するようになるのです。この「知る」ということばは、ギリシャ語で「ギノスコー」と言いますが、これは単に頭で知る以上のことです。それし体験として、人格的に知ることを意味しています。そのように神を知るなら、確実に変わるのです。

 

そして、5節にあるように、私たちが神の命令を守ることで、その人のうちに神の愛が全うされます。「全うされる」というのは下の注釈にもあるように、「完全に実現している」ということです。神が私たちを愛してくださった愛は、私たちがみことばに聞き従うことで全うされるのです。すなわち、その目的に達するということです。言い換えるなら、もし私たちの一部分、たとえば知識とか感情といった部分が変わっただけなら、神の愛は途中で止まっているということです。完成していません。しかし神の命令を守る時、確かに「私は神のうちにいる」という確信を持つことができます。神の子として生まれ変わり、神との交わりの中に入れられているという確証を得ることができるのです。

 

では神の命令とは何でしょうか。それは7節以降に書かれてありますが、その前に6節のことばに注目してください。ここには、5節で言われていた「神のみことばを守っている」ことはイエスが歩まれたように歩むことであると言われています。神を信じ、キリストとの交わりの中に入れられた者は、当然その模範にならうはずだというのです。またそうすることがその人にとっても喜びであるはずです。往年の名バッターで、後に巨人軍の監督としてV9を達成した川上哲治氏は、巨人軍の監督に就任した時、巨人軍の創立者である正力正太郎氏と一体になってやっていくという大方針を打ち立てました。そして実際に困った時や壁にぶつかった時、「正力さんならどう対処されるだろうか」と考えて決断を下したと言います。同じように、クリスチャンは、キリストならどのようにされるのかを考えて歩むのです。

 

しばらく前に、W.W.J.D.というイニシャルが入ったブレスレッドとか、グッズが流行りましたが、これは「What Would Jesus Do?」の略で「イエス様ならどうする?」という意味です。イエス様ならどうするかということをいつも考えて行動するということです。これはすばらしい言動の基準だと思います。それは神のうちにとどまっている人のしるしだからです。

 

14世紀にカトリックの修道僧トマス・ア・ケンピスという人が「キリストに倣いて」という本を書きました。この書はカトリック教会において最も偉大なディヴーションの手引書の一つと言われていますが、多くのプロテスタント教会でも高く評価されています。それはイエス様ならどのように考え、どのように発言さし、どのように行動するのか、ということを考えて生活することを勧めているからです。もちろん、私たちはトマス・ア・ケンピスのように修道院で生活することはできませんが、その置かれた環境の中で、イエス様ならどのように行動されるのかを考え、イエス様が歩まれたように歩まなければなりません。それが神の命令を守るということなのです。

 

Ⅲ.兄弟を愛する(7-11)

 

では、イエス様はどのように歩まれたのでしょうか。神の命令を守るとは具体的にどういうことなのでしょうか。7節から11節までをご覧ください。

「愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。」

 

ここには、それは新しい命令ではなく、彼らが初めから持っていた古い命令だと言われています。それは彼らがすでに聞いているみことばです。それは兄弟を愛しなさいという命令です。これは新しい命令ではなく、彼らがすでに聞いていた命令です。ある時、一人の律法学者が、イエス様のところにやって来てこう尋ねました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」するとイエスは彼らに言われました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:39)「この二つの戒めに律法と預言書の全体がかかっているのです。」(マタイ22:40)

つまり、神の命令の中で一番重要なのは神を愛し、隣人を愛することだと言うのです。律法全体と預言書、すなわち、聖書全体がこの二つの戒めにかかっているのです。

 

また、ヨハネ13章34節で、イエス様はこう言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 

ヨハネはこの古い命令を、新しい意味内容を持った命令として書き送っています。なぜでしょうか。なぜなら、この命令はキリストにおいて真理であり、光の中を歩む私たちにおいても真理だからです。まさに、兄弟愛はこの光の中を歩むクリスチャンにとってふさわしい歩みなのです。ここで「兄弟」と言われているのは特に同じ神の家族であるクリスチャンのことを指しています。兄弟愛はクリスチャン相互の間から始まってさらにその輪を広げていくことになるからです。

 

一方、9節にあるように、「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。」これは、2章4節で語られたことと同じように、外に現れた実際の生活を点検することによって自分の内側を見つめるようにという招きです。その人が光の中にいるということは、兄弟を愛しているという外側の行動によって確認できるのであって、自分ではどんなに光の中にいると思っていても、実際には兄弟を憎んでいるとしたら、それは今もなお闇の中にいることになるのです。この「憎んでいる」というのは広い意味で冷たい心、無関心、軽蔑なども含んでいます。積極的に兄弟を憎むということはなくても、同じ神の家族であるクリスチャンに対して無関心であったり、冷たい心であれば、それは兄弟を憎んでいることと同じなのです。「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」だと言われますが、世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

 

ガラテヤ5章14節には、「律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」とあります。兄弟愛こそすべての律法の要約であると聖書は言っています。だからこの兄弟愛の中には私たちの隠れた内なる本質が現わされていると言えるでしょう。

 

ではどうしたら兄弟を愛することができるのでしょうか。私たちは生まれつき自分さえ良ければいいという自己中心的な性質を持っています。そのような者がどうやって兄弟を愛することができるのでしょうか。それは「神を知る」ことによって、「神のうちにいる」ことによって、そして「神にとどまっている」ことによってです。

 

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。」(Ⅰヨハネ3:16)つまり、「キリストが私のためにいのちを捨ててくださった」ということを心底、体験しているならば、できるというのです。

 

三浦綾子さんが書いた小説「塩狩峠」は、明治時代に北海道の塩狩峠で実際に起きた鉄道事故に基づいて書かれた小説です。険しい峠を機関車がゆっくりと進んでいた時、突然最後尾の客車の連結が外れ、暴走し始めました。その時、主人公の永野信夫は自分の身を挺して列車を止め、大勢の乗客の命を救いました。彼はどうしてそのようなことができたのでしょうか。それは彼がキリストを信じ、その愛に生かされていたからです。クリスチャンであった彼は、この聖書のみことばにささえられながら生きていたと言われています。

「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持ってていません。」(ヨハネ15:13)

それはイエス・キリストのいのちを捨てるほどの大きな愛でした。彼はその愛に生かされていたのです。もちろん、この愛に生かされていれば誰でもあのようなことができるわけではありません。しかし、少なくても、そのように生きたいと願う動機となるのは確かでしょう。

 

聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。強盗に襲われた人を助けてくれたのは神に仕えていた祭司でも、レビ人でもありませんでした。それはユダヤ人が蔑視していた一人のサマリヤ人でした。彼がこの傷つき、苦しんでいる人の隣人になったのです。兄弟は神をどれだけ知っているかということではなく、このサマリヤ人と同じようにする人です。そのような人こそ強盗に襲われた人の隣人になったのであり、互いに愛し合いなさいという神のみことばに生きる人なのです。

 

神が光であるならその神と交わる時、私たちも光となります。その歩みとは自分の罪を告白し、キリストの十字架によって罪をきよめられて歩むことであり、きょうのところで見たように、自分の兄弟を愛することです。傷つき、苦しんでいる人を見た時、あるいは、困っている人を見た時、実際に助けを与える人です。そのような人こそ隣人となるのです。

 

私たちもこの神との交わりに入れていただきましょう。そして、神が光の中におられるように、共に光の中を歩ませていただこうではありませんか。



メッセージへ戻る

ローマ人への手紙2章1~16節「神のさばきに備えて」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「神のさばきに備えて」というタイトルでお話したいと思います。1章後半のところでパウロは、神を神としてあがめず、感謝もしない人々に対して、神の怒りが天から啓示されていると語りました。それは特に異邦人に対してでありましたがそれは異邦人だけでなく、神の選民であるユダヤ人に対しても同じです。きょうのところにはそのユダヤ人の罪に対する神のさばきについて述べられています。きょうはこのユダヤ人に対する神のさばきについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。第一のことは、神は正しくさばかれる方であるということです。第二のことはその理由です。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。第三のことは、ですから神のさばきの日に備え、悔い改めてイエス・キリストを信じ、神のみこころにかなった歩みをしましょうということです。

 Ⅰ.神は正しくさばかれる(1-5)

まず第一に、神は正しくさばかれる方であるということについて見ていきたいと思います。ここにはユダヤ人の罪に対する神のさばきが述べられています。それは他人をさばいてしまうことです。1~5節までのところに注目してください。まず1節です。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

 異邦人の場合は、自分が罪を犯しているだけでなく、罪を犯している人の姿をみてそれを行っている人に心から同意しているのですが、では選民ユダヤ人はどうかというと、そのように罪を犯している人をさばきながら、自分自身も同じこと(罪)を行っていました。いわゆる「善人意識」です。彼らは、自分は正しい者だと思い込み、他の人をさばいたのです。言い換えると、彼らはみことばを自分に適用するのではなく、他人に適用していたわけです。

 自分が正しいと思っている人は、罪の話をしてもなかなか心に響きません。自分には関係ないと思っているからです。1章に出てきた神の怒りと刑罰について聞いても目の色一つ変えないでしょう。なぜなら、そのみことばは罪人たちに語られたことばであって、自分に対してではないと思うからです。善人意識をもっている人の問題はここにあります。罪の話は全部他人のことだと思うので、有罪宣告をなさる神の前に膝をかがめることができないのです。ですから、そのような人の信仰生活には悔い改めがありません。その結果、信仰が実に淡々としたものとなってしまい、罪が赦されという感激がないのです。私たちの信仰が成長していくために必要なことは悔い改めです。罪の自覚と悔い改めがあるところに神の聖霊が臨み、信仰的に、人格的に成長していくことができるのですが、悔い改めがないと、なかなか成長していくことができません。

 よく説教をしていると、その語ったみことばに対して反応を示してくださる方がおられます。牧師として、語ったみことばに対してそのような反応があるというのはうれしいことです。語ってもうんともつんともないと、「あれっ、きょうの説教はあまり響かなかったかな」とか思って悩むこともあるのですが、後で何らかの反応があると、少なくともその人の心には届いていたんだと安心するのです。ところが、中にそのみことばを自分にではなく、他の人に適用される方がおられるんです。「先生、今日のお話はとても恵まれました。今日の説教は○○さんにぜひとも聞いてほしかったですね。来られなくて残念です。」と。この方にとってみことばは、自分に適用するものとしてではなく、他の人に適用するものとして聞いていたのです。このようなことは意外と多いのです。たとえば「妻は夫に従い、夫は妻を愛しなさい」と説教すると、それを自分に適用しないで、相手に適用してしまうのです。「ねえ、あなた聞いた?今日牧師さんが、夫は妻を愛しなさいと言ったでしょ。それなのにあなたは一体何よ」と食ってかかるのです。すると夫も夫で、「おまえこそ、妻は夫に従えとあっただろう。それなのに服従のかけらさえないじゃないか」と言い返すのです。神のみことばが夫婦喧嘩の火種になってしまうこともあるのです。それを自分にではなく他の人に適用してしまうからです。

 皆さん、みことばは他人に適用するものではなく、自分に向かうもの、自分を変えるものとならなければなりません。祝福とは何でしょうか。祝福とは、神のみことばを聞くとき、それによって自分の心に悔い改めの心が生じることです。心が刺されるという思いをすることなのです。ペンテコステの時、ペテロが説教を聞いた人たちは、どんな態度をしたでしょうか。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(使徒2:37)

 彼らは心を刺され、「兄弟たち、私たちはどうしたらいいのでしょうか」と言ったのです。それを他の人に適用するようなことはしませんでした。「そうだ。祭司長たちは悔い改めるべきだ」とか「これはパリサイ人たちに必要なことだ」とか、そのようには言わず、これを聞いて心を刺され、みことばの前に自分の罪を告白したのです。そのとき、ペテロもはっきりと言いました。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(同2:38)
それゆえに、彼らは悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われたのです。

 しかし、善人意識にとらわれている人は、それを他人に適用するので、他人をさばいてしまうのです。このような人は、自分自身のあやまちには寛大ですが、他人のあやまちに対しては敏感で、それを大きく見る傾向があります。自分の罪は見ないでいつも他人の罪ばかり見て、それを問題にするのです。イエス様はこのような人に対して、次のように言われました。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3~5)

 ルカの福音書18章には、祈るために宮に行ったパリサイ人と取税人の姿が出ています。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをささげました。
「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」(ルカ18:11)
一方、取税人はというと、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)

どちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者が高くされるからです。パリサイ人は、自分の罪を見ないで他人の罪を見ました。ですから彼には恵みがなかったのです。一方の取税人は、自分の罪を持って神様の御前に出、その罪を嘆いて、神様の恵みにおすがりしました。ですから彼は罪の赦しと恵みを受けたのです。皆さん、最高の恵みは、すべてのみことばが自分に向けられているとように聞こえることなのです。そして、そのように信じることこそ祝福なのです。

 いったいユダヤ人はなぜそのように受け止めていたのでしょうか。それは自分たちの中に、神様によって特別に選ばれた者であるという特権意識があったからです。4節をご覧ください、

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

 彼らは、自分たちが神によって特別に選ばれた神の民なのだから、その慈愛と寛容と忍耐によって、自分たちは異邦人たちのようにはさばかれるようなことはないだろうと考えていました。しかし、それはとんでもない誤解でした。神は正しい方であって、そのさばきはそのようなことを行っている人々に必ず下るのです。もし神がそのさばきを控えておられるとしたら、それこそ慈愛と忍耐と寛容によるものであって、悔い改めの機会が与えられているからなのです。決して神のさばきから逃れられることではありません。神は正しくさばかれる方だからです。

 しかし、それはこのユダヤ人だけのことではありません。すでにイエス様を信じて神の子とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちは主イエス・キリストによって神の子とされ、神の特別の恵みを受けました。まさに慈愛と忍耐と寛容です。しかし、それは何をしても神様は許してくださるということではありません。彼らのように他人をさばいて自分も同じようなことをしているとしたら、そこには異邦人同様、神の怒りが下るのです。恵みによって救われた以上、どんな生活をしても構わないのだという考え方は、少なくとも聖書の中にはありません。聖書ははっきりと、わたしたちの行いに対してさばきがあるということを示しているのです。それは行いだけでなく、ことばと思いをも含めたすべての面においてです。であれば私たちは、自分たちは結構善い人間だという意識を捨て、神の前にさばかれてもしょうがないほど汚れた者であるということを認め、あの取税人のように、胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と言うような、へりくだった者でなければならないのです。

 Ⅱ.神にはえこひいきなどない(6-11)

第二のことはその理由です。なぜ神様はそのようにさばかれるのでしょうか。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。6~11節までですが、6節をご覧ください。ここには、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」とあります。ユダヤ人だからとか、ギリシャ人だからといった区別はありません。ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、どんな人であっても、神は、ひとりひとりに、その行いに従って報いをお与えになるのです。これはどういうことでしょうか。これは何回読んでも難解な聖句です。パウロはここで、救われるためには善いわざが必要だと言っているのではありません。もしそうだとしたら、信仰によって義と認められるという福音の中心的な真理が損なわれてしまうことになります。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。おそらく、ここでは信仰によって救われるとか、福音の恵みとか、そういうことを論じているのではなく、ひとりひとりの行いに従って報いがあるという一般的な原則が述べられているのです。つまり、

「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。」(7~10)

ということです。このような原則は、聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、マタイの福音書16章27節には、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」とありますし、Ⅱコリント5章10節にも、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。また、ガラテヤ6章7~9節にも、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。

 ですから、ここでパウロが言いたかったのは行いによって救われるということではなく、善を行えば、時期が来て、その刈り取りをするようになるという原則だったのです。パウロが信じていたことは人は行いによっては救われず、ただ神の義であるイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるということであり、福音のうちにこそその神の義が啓示されているということでした。ただ、終わりの日に受ける報いについては、ユダヤ人やギリシャ人といったことと関係なく、その人の行いに従って報いが与えられるということでした。それは神にはえこひいきがないからであり、その報いは、善を行うか、それとも悪を行うかによって決まるからです。

 Ⅲ.神のさばきの日に備えて(12-16)

ですから第三のことは、この神のさばきに備えましょうということです。とはいえ、何が善で、何が悪であるかということを、いったいどうやって知ることができるのでしょうか。ユダヤ人ならば律法が与えられていましたから、その律法によって善悪の判断を下すことができましたが、異邦人の場合はそういうわけにはいきません。彼らは神の律法など持っていないからです。では、異邦人が善を行うということはできないのでしょうか。いいえ、できます。14、15節には、

「―律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」

とあります。確かに異邦人は律法を持たない者ですが、しかし、律法の命じる行いができるのです。どうやって?良心によってです。異邦人はユダヤ人のように神の律法を持っていませんが、心の中の良心によって何が善であり、何が悪なのかといった判断ができるだけでなく、悪に対してはそれを退けようとする働きがあるのです。「良心が痛む」という表現がありますが、人間は紛れもなく道徳的な存在であり、神がその良心をとおして私たちの心の中であかししておられるのです。14節の「自分自身が自分に対する律法なのです」というのは、そういう意味です。しかし、罪深い人間の良心はゆがめられ、その判断力は必ずしも正しいものではありません。たとえば、殺人を犯せばだれでも良心が痛みますが、偶像礼拝に対してそうではないというのは、罪によって良心がゆがんでしまったからなのです。良心はある面で「神の声のエコー」ですが、人間の罪によってそれがはっきり聞こえなくなっているのです。とは言え、それでもこの良心によって異邦人にも律法の知識があるのは明らかですから、すべての人はその善を行うことができるのであって、その行いによってさばかれるのです。ですから結論は何かというと、16節です。

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」

 ここには神のさばきについてはっきりと言及されています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。それが明らかにされるのはいつかというと、終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているのです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、神の義にお頼りしながら、神に喜ばれる歩みを求めていかなければなりません。

 アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身の伝道者がいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やす(きもをひやす:驚き恐れてひやりとすること)ほどの悪人で、淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは一つもありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼が欲しいすべてのものを手に入れました。それにもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋には鍵を幾つもかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視せずにはいられませんでした。いつも絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも数え切れないほどありました。心の孤独と悲しみ、つらさに、来る日も来る日も身震いしながら暮らしていたそうです。平安がなかったのです。イザヤ書48章22節にあるように、まさに「悪者どもには平安がない」のです。

 数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が犯した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまいました。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったのは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」でした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼に安息はありませんでした。

 終わりの日に受けるであろう神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対する、明確な解決を持っていない人はみんな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きているのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

 皆さんは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられるでしょうか。キリストのところに来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何の恐れもないのです。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りをくだされるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるからです。



メッセージへ戻る

ローマ人への手紙1章16~17節「救いを得させる神の力」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「救いを得させる神の力」というタイトルでお話したいと思います。きょうのところには、ローマ人への手紙全体の中心テーマが記されてあります。それは、救いを得させる神の力としての福音です。福音とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、福音は救いを得させる力であるということについてです。第二のことは、それを受ける手段についてです。それは信仰です。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。第三のことはその理由です。それは、この福音のうちに神の義が啓示されているからです。

 Ⅰ.救いを得させる神の力(16)

 まず第一に、福音は、救いを得させる神の力であるということについて見ていきたいと思います。16節のところでパウロは、「私は福音を恥とは思いません。」と言っています。この前のところで彼は、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と、この福音のあまりものすばらしさのゆえに、この恵みはどうしても返さなければならない負債だと語ったのに、ここに来て、「私は福音を恥とは思いません」と、一見弱々しいように宣言しているのはどうしてなのでしょうか。彼の中に福音に対してどこか恥と感じるようなことがあったのでしょうか。そうではありません。実は、このように「福音を恥とは思いません」という言い方は、一見否定的に見えるような言い方ですが、実はこれは、逆に誇っている表現なのです。このように否定的に表現することによって、逆の事柄を強調しようとしたのです。たとえば、マルコの福音書12章34節には「あなたは神の国から遠くない」とありますが、これは、神の国にごく近いところにいるということを強調しているのです。同じようにパウロがここで、「私は福音を恥じとは思わない」と言ったのは、彼が福音をどんなに高く評価し、それを誇りとしていたかの表れであったわけです。これまで福音を語ったために彼がどんなにひどい目に遭ってきたかを思うとき、このローマ帝国の首都において福音を語ることがどんな苦難が伴うことなのかくらい十分承知していたはずです。それは軽蔑以外の何ものでもなかったでしょう。皇帝崇拝が盛んに行われ、皇帝の権力があらゆる形で誇示されていたこのローマでは、それに対抗しうるものなど何一つないかのように感じたことと思います。そのようなローマで福音を語ることはある意味で人を気おくれさせ、恐れおののかせ、気恥ずかしい思いを抱かせたことでしょう。しかしそうした中にあってパウロは、「私は福音を恥とは思いません」と言って、福音を誇ったのでした。いったいパウロはなぜそのように言うことができたのでしょうか。それはこの世の政治、経済、文化がどれほど偉大であり、光り輝いたものであっても、福音にはそれにまさる価値があることを、彼がよく理解していたからです。それは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。ここに福音の価値がいかんなく言い表されていると思うのです。それは、この福音は神の力であるということです。それは単なる教訓とか、哲学、倫理ではなく、力なのです。それは、救いを得させる神の力です。

 それにしても、パウロはなぜここで福音を力だと言ったのでしょうか。それは、この救いは罪からの救いのことだからです。一般的に人は「救い」という言葉を聞くとき、それが病気の癒しや貧乏からの解放、あるいは、私たちの人生において直面している問題からの救いであるかのように錯覚しがちですが、ここで言われている救いとは、そうした問題からの救いのことではなく、そうした問題も含めたあらゆる問題の根源である罪からの救いのことだったのです。そしてこの罪からの救いは、私たちの力で解決できるようなことではありません。悪魔の支配下に置かれている人間は、どんなに跳んだり跳ねたりしても、あるいは力をふりしぼって頑張っても、徹夜で本を読んで勉強しても、その縄目から自分を救い出すことはできないのです。人が罪から救われるためには、悪魔よりもはるかに強い力がある方に解放していただかなければなりません。それは神です。そのような罪の中にいる人間を救うことができるのは全能の神以外にはいないからです。皆さん、考えてみてください。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、自分でどんなに変わろう、変わろうと思っても、なかなか変わられないというのが現実なのではないでしょうか。

 私はもう何年も牧師をしていますが、最も多く受ける質問は、「どうして私は変わることができないのか」というものです。「変わりたいと思っていても、どうしたら変わることができるかわからない。変わる力がない」ということなのです。皆さんにもそのような経験がおありでしょう。私たちはよくセミナーや大きな集会に出かけて行き、自分の人生をその場で変えてくれるような方法を探しますが、それをしてもなかなか変わりません。私は健康維持のためにふと思い立って散歩を始めたりするのですが、二週間も経つと最初の決意はどこかに行ってしまい、いつの間にか元通りになってしまいます。今、はまっているのはラジオ体操です。外に出るのは寒いので何かいい方法はないかと考えていたとき、どなたかがラジオ体操をやっていると聞いて、早速インターネットのユーチューブからダウンロードして時間の合間にやっています。これならどこにも行かなくても、自分の家で、好きな時にできるのでいなぁと思っているのですが、これだっていつまで続くかわかりません。すぐに元通りになってしまうかもしれません。変わるということは本当に難しいのです。時々、自己啓発の本を読んでみたりすることもありますが、問題は、そのような自己啓発の本は「何をすべきか」は教えてくれても、それを「実行する力」を与えてくれないことです。それらの本には「悪習慣を断ち切りなさい、前向きになりなさい。否定的にならない。」と教えますが、どうやったらそれができるかは教えてくれないのです。いったいどうしたら自分を変えることができるのでしょうか。どうしたら今の自分の殻を突き破ることができるのでしょうか。

 ここにすばらしい知らせがあります。それは「福音」です。福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。私たちが必要としているのはこの「力」ではないでしょうか。新約聖書の中には、この「力」という言葉は57回出てまいります。この言葉は、歴史上最も力強い出来事、そうです、イエス・キリストの復活の出来事を現すために使われています。人生において最も大切なことは、キリストを知り、キリストの復活の力を体験することです。この復活の力について、パウロは次のように言っています。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:19~21)

 この「力」と訳された言葉は、ギリシャ語の「デュナミス」(dunamis)という語ですが、これは英語の「ダイナマイト」(dynamite)の語源になっている言葉です。神の力は、今から二千年前にイエス・キリストを死の中からよみがえらせた復活の力であり、悪魔の要塞を完全に打ち破ることのできる力なのです。この神の力が私たちを悪魔とその罪の支配から救い出すことができるのであって、この神の力があらゆる問題に打ち勝つ力を与えてくださり、その人格を全く新しいものに造り変えることができるのです。この救いを得させる神の力が、私たちに差し出されているのです。それが福音です。

 Ⅱ.信じるすべての人に(16)

 ではどうしたらこのすばらしい神の力をいただくことができるのでしょうか。第二のことは、それは信仰によってであるということです。もう一度16節に注目してください。ここには、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とあります。

 ここで重要なのは、この神の力は、「信じるすべての人に」差し出されているということです。福音がどんなに力があっても、これを信じなければ救われることはできません。ある人はこう言うでしょう。「他の宗教における救いの可能性も排除してはいけない」と。「分け登る 麓の道は多かれど、同じ高嶺の月を見るかな」ってあるように・・・。どの宗教を信じたって、結局、行き着くところはみな同じだというのです。しかしそれは違います。十字架につけられて死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じること以外に救いはありません。このメッセージを投げ捨ててなりません。もしこれを放棄したら、それはもうキリスト教とは言えないからです。何を信じても同じだというのは一見、心が広い人であるかのように見えますが、それは真理ではありません。なぜなら、聖書は次のようにはっきりと言っているからです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 あるいは、このように言われる方もおられるでしょう。「あの人が救われるのなら、私はあの人よりももっとましな人間だから絶対救われるはずだ。」と。あるいは、「世の中の人たちはみんな罪を犯しているが、私はそんなに大きな罪を犯しているわけではないから、天国に行けるはずだ。私が行けなかったとしたら、あと誰が行けると言うのだ・・・。」と。しかし、誤解しないでください。天国は、相対的なものではありません。他の人と比較してどうなのかではなく、絶対的な神様の目で見てどうなのかということです。ほかの人と比較して少々善良であってもなくても、それは沈んでいく船の客室で、大きく揺れる絵の額を見比べて、どれが一番傾いているかを論じるのと同じで、全く的外れなことです。沈没するのは同じなのです。百人中二十人が天国に行けて、八十人は落第して地獄に行くというものではありません。信じて従うならすべての人が天国に行けるし、罪を悔い改めないでイエス・キリストを信じないなら、すべての人が地獄に行ってしまうのです。

 あるいは、私たちの中には、一生懸命に良いことをしたら天国に行けると思っている人も少なくありません。つまり、自分がたとえ40くらいの罪を犯しても、60くらいの功績を積めば20ポイントもプラスなんだから、天国に行けるはずだと考えるのです。しかし、これも間違いです。神様は、私たちがどれだけ良いことをしたかではなく、私たちの罪が清められているかどうかによって決まるのです。少しでも罪があるなら、全く聖い神様は、私たちを受け入れることはできません。そうでしょ。たとえば、きれいに透き通っていて、どんなに美味しそうな水でも、そこにほんの少しだけねずみの糞が入っていたら飲めますか。99%清くても、1%汚れているだけで全部捨てるように、ある程度清いから天国に行けるということではないのです。

 ならば、いったいだれが天国に行くことができるでしょうか。だれもいません。私たちは生まれながらに罪人であって、不完全な者なのだから、完全に聖くなることなどできないからです。しかし、あわれみ豊かな神は、その罪を赦し全く罪のない者としてくださるために、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。この方を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったことにより、この方を信じる者の罪はすべて洗い流されるのです。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ4:22)

 皆さん、私たちがキリストを信じたそのとき、それまでかすみのようにかかっていた罪がすっかりぬぐいさられるのです。神様がキリストによってその罪を贖ってくださるからです。私たちの罪が赦され、天国に行くことができるのは、ただこの救い主イエス・キリストを信じる以外にはありません。イエス・キリストを信じるなら、だれでも、どんな人でも救われるのです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。ですから、聖書は一貫して、「ただ信ぜよ。さらば救われる」と言っているのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)ただ信仰によって、この救いを受けることができるのです。

 Ⅲ.神の義は福音のうちに(17)

 ではなぜ福音を信じるだけで救われるのでしょうか。それは神の義がこの福音の中に啓示されているからです。最後にこのことについて見ていきましょう。17節をご覧ください。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

 ここで注目したいことは、この福音の中に「神の義」が啓示されているということです。福音のうちに神の義が啓示されているとは、どういうことでしょうか。実は、この「神の義」こそ聖書全体の重大なテーマであって、これを曖昧にすると、聖書で本当に言わんとしていることがつかめなくなってしまいます。それほど大切な事柄です。これがすべての根底にあるといってもいいでしょう。たとえば、皆さんは、神はどのようなお方ですかと尋ねられたとしたら、いったい何と答えるでしょうか。神は愛ですと答えるでしょう。しかし、その愛とは、実は、この義に基づいたものであって、私たちが考えるようなセンチメンタルなものではありません。ですから、神はどのようなお方ですかと問われたら、その第一のご性質は「義なる方」となるのです。神は義なる方、全く正しい方です。ここからすべてが発しているのです。ですから、救いということを考える時にも、単に肉体の癒しとか、問題の解決といった御利益が中心なのではなく、罪からの救いということが中心になるわけです。

 ところで、ここで「神の義が啓示される」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。これは神が定められた律法の要求に対する人間の正しい関係を意味しています。人はだれも自分の力によって義と認められません。神が要求している律法を完全に行う人など一人もいないからです。ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、神様はこの世にキリストを送ってくださったのです。それは私たちの義ではなく、この神のひとり子であられるキリストの完全な服従に基づいた義をいただくためです。神の律法の要求を完全に行うことができるキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったことによって、この方を信じるなら、私たちの中にその神の義が全うされるようになったというのです。私たちはこのキリストによって、神と正しい関係を持つことができるわけです。

 では、「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とはどういうことなのでしょうか。これは神との正しい関係が、信仰によって始まり、信仰によって完成されるという意味です。これは今に始まった新しい教えではなく、実は、旧約聖書の時代から一貫して流れていた真理でした。その一つの例が、「義人は信仰によって生きる」ということばです。これは旧約聖書のハバクク書2章4節からの引用ですが、イスラエルにカルデヤ人が侵略してきた時、そのような国家的危機の中で、預言者ハバククが語った言葉です。彼はその時何と言ったかというと、主に拠り頼む者は勝利を得ると言いました。一生懸命に武器を作り、どうしたら勝てるかと戦略を練れば勝利できるのではなく、主に拠り頼むことによってのみ勝利することができると言ったのです。義人は信仰によって生きるとはそういう意味です。神との正しい関係はこの信仰によってのみ得ることができ、また信仰によって全うすることができるのです。

 皆さん、私たちは自分はできると思いがちです。そして、救われるために自分で何とかしようとします。ある面でそれは大切なことでしょう。しかし、このような努力やがんばりだけでは、私たちの人生を破壊し、破滅に陥れるこの罪から救い出すことはできません。この罪の前には、私たちは何もすることができないのです。全く無力なのです。私たちができることはただ一つ。それは受け入れることです。十字架で死なれ、三日目によみがえられて、死に勝利された復活の力を受ける以外にないのです。

 ある家族が賭博で無一文になってしまいました。家中の財産をすっかり失ってしまったのです。賭博というのはどうも伝染するのか、この家はおじいちゃんが賭博で破滅しかと思ったら、お父さんも賭博で家を潰してしまったのにもかかわらず、息子まで賭博をするようになったのです。息子自身もそのことをよく知っていて、「祖父は賭博で破滅した。親父も賭博のために人生を棒にふった」と言っていたそうです。それなのに賭博をやめることができませんでした。この息子は教会に通い始めると、悲壮な覚悟を決め、牧師の前で何と斧で手の指を全部切ってしまいました。「これで二度と賭博はしない」と決心したのですが、その覚悟も長続きはせず、彼は再び賭博を始めてしましいました。指のない手でどうやってしたのか?何と足の指に花札をはさんで賭博をしたのです。これが罪の力です。これほどの罪の力を、いったいどうやって断ち切ることができるのでしょうか。イエス・キリストです。私たちにはできないことを神はしてくださいました。神はキリストをこの世に送り、十字架につけてくださって、この方を信じる者をみな、許してくださると約束してくださったのです。このイエス・キリストの血潮がなければ、誰一人、罪の力を断ち切ることはできません。私たちはただその十字架で死なれたイエス様が自分の救い主であると信じ、この方にお頼りして、忠実に生きさえすればよいのです。福音こそ、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。

 地上においた船をどんなに動かそうとしても、動かすことはできません。屈強な男たちが十人か二十人かかっても、1トンの船さえ動かすのは用意なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼子がちょっと押しただけでも動くようになります。神様が御業を行われる方法とは、まさにこのようなものです。自分の力、才覚でやろうとするのではなく、「神様、どうぞ恵みの水を送ってください。そしてこの困難を乗り越えさせてください」と主にしがみついて、重荷をゆだねるとき、私たちの取るに足らない力でも悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議に人生が転回し始めるのです。義人は信仰によって生きる。皆さんもキリストを信じる信仰によって、そのような世界を生きることができますように。



メッセージへ戻る

ローマ人への手紙1章8~15節「返さなければならない負債」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「返さなければならない負債」というタイトルでお話したいと思います。先週は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに自分を紹介するにあたり、パウロが「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と紹介したことを学びました。パウロは、自分がこの福音のために選び分けられた者であるという強い自覚と使命感がありました。このような使命感があったからこそ、彼は本気で福音のために献身することができたのです。

 さて、きょうのところは先週に引き続きこの手紙全体の導入の部分ですが、きょうのところでパウロは、自分がなぜローマに行きたかったのか、その理由を述べています。11節を見るとここには、「私があなたがたに会いたいと切に望むのは」とか、13節にも、「何度もあなたがたのところに行こうとした」とか、15節のところにも、「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」とあります。いったいパウロはなぜそんなにローマに行きたかったのでしょうか。きょうはその理由を三つのポイントでお話したいと思います。

 第一のことは、それは彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。第二のことは、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと願っていたからです。そして第三のことは、それが返さなければならない負債であると思っていたからです。

 Ⅰ.全世界に言い伝えられている信仰(8)

 それではまず8節をご覧ください。パウロがローマに行きたかったのは、ローマのクリスチャンたちの信仰が全世界に伝えられていたからです。

「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

 パウロはまずローマのクリスチャンたちのことで、神に感謝しています。それは、彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。全世界に言い伝えられていた信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。これと同じようなことがテサロニケ人への手紙の中にも記されてありますのでご覧いただきたいと思います。Iテサロニケ1章8節です。

「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

 ここで言われている信仰とは、彼らの聖い生活とか、愛に満ちた生活ということではなく、神に対する信仰です。それはどのような信仰かというと、キリスト信仰のことです。キリストによって罪から救われ、新しい人生に導かれた者として、そのキリストとともに生きる信仰のことなのです。パウロはその信仰をガラテヤ人への手紙の中で次のように告白しました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 この信仰です。ローマのクリスチャンたちは、この信仰に生きていました。皇帝を神としてあがめるローマ帝国の首都にあって、この信仰に生きることはどんなに大変なことだったでしょう。けれども彼らはこの信仰に生き、キリストを立派にあかししていたのです。それはローマ全体から見たならほんの一握りの人々であったかもしれません。しかし、彼らのそうした不撓不屈(ふとうふくつ:どんな困難に出あっても心がくじけないこと)の信仰は、ほかの地にいるクリスチャンにとって大きな励ましであり、また良い模範となりました。パウロはこのローマのクリスチャンたちがそのような信仰を持つようになったことを神に感謝したのです。

 それは昔から信仰に生きた人たちに共通して見られるものです。たとえば、ダニエル書にはシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという三人の少年たちが登場しますが、彼らはバビロンの王ネブカデネザル王から、もろもろの楽器の音を聞く時には、ひれ伏して、彼が造った像を拝むようにと命じられても、決して拝もうとしませんでした。それによってたとえ火の燃える炉の中に投げ込まれてもです。その時彼らは王に次のように答えました。

「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17,18)

 「しかし、もしそうでなくても・・」というのがすばらしいと思います。私の神は、私の信じている神は、そのような火の燃える炉から救い出すことができますが、たとえそうでなくても、決して金の像を拝むようなことはしない、そう言ったのです。彼らは自分たちのいのちに優先する信仰として、どんな状況にあっても揺るがない、ただ神だけに拠り頼む、そのような信仰を持っていたのです。

 皆さんはいかがですか。皆さんには、「もし、そうでなくても」という信仰がおありでしょうか。もし自分の思うように進まなくても、もし自分の願いが叶わなくても、もし、このことによって苦難を受けるようなことがあっても、それでも私はこの神に拠り頼むという信仰がおありでしょうか。

 スウェーデンの宣教師デヴィッド・フラッドという人の伝記を読みました。彼は福音を伝えるために、妻と2歳の息子とともに1921年、アフリカのコンゴに向かいました。飢餓と病気、敵対的な部族の人々の中で困難な働きを続けました。宣教の唯一の実は、一人の幼い少年だけでした。彼はそこで毎週日曜日にその幼い少年に聖書を教えました。そんな中、妻が娘を出産して七日目に世を去ってしまったのです。度重なる困難に疲れ果てたフラッドは、妻まで失ったことで自暴自棄に陥りました。神に失望し、殉教まで覚悟していた信仰を捨てて、現地の宣教本部に娘を預け、息子だけを連れて本国に戻ったのです。
 その後、73歳になった彼は、40年ぶりにはじめて会った娘から驚くべき事実を聞くのです。娘は、父に会いに来る途中、ロンドンのある集会で黒人の牧師に会ったのですが、それがあのコンゴの少年だったのです。その少年は立派に成長して牧師になり、福音の不毛地と言われたコンゴで神に仕える器となったのです。そして今では32カ国に宣教師を送り、11万人ものクリスチャンのいる教会の牧師となりました。父の献身と母の殉教によって、コンゴに新しいいのちがたくさん生まれていたのです。娘が「お父さんのしたことは決して無駄ではなかったのです」という言葉に、フラッドは涙して悔い改めたのでした。
 主のために努力したのに、結果が思ったとおりでないとき、私たちは失望します。しかし、たとえそうでなくても、それでもただ神に従うという信仰が重要です。まことの神を信じるなら、あらゆる結果を感謝して受け入れることができるようになるのです。

 実にローマのクリスチャンたちにはそのような信仰がありました。この世のこと、この地上のものを求めてやまないこの世の人たちとは違って、神のこと、永遠のことを求めて生きていたのです。そういう原理に生きていました。信仰が生きていたのです。ローマのクリスチャンたちはパウロによって信仰に導かれたわけではありませんでしたが、彼らがそのような信仰を持って歩んでいるというあかしを聞き、そのように導かれた神に感謝をささげると同時に、そういう彼らに何とかして会いたいと願っていたのです。

 Ⅱ.ともに励ましを受けるため(9-12)

 パウロがローマに行きたかったもう一つの理由は、ともに励ましを受けたかったからです。9~12節をご覧ください。

「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」

 まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちではありますが、パウロはいつも彼らのことを思っていました。どのように?祈りによってです。祈りによって彼は、いつも彼らのことを思い、神のみこころによって、何とかして道が開かれて、彼らのところに行けるようにと願っていたのです。いったいなぜパウロはそんなにも彼らのところに行くことを切望していたのでしょうか。それは11、12節にあるように、御霊の賜物をいくらかでも彼らに分け与えて、彼らの信仰を強くしたかったからです。なぜ彼らの信仰を強くしたかったのでしょう。伝道者、牧師であればそれは当然のことです。そのために自分が用いられるのであれば、喜んでそうしたいと思うのが普通です。しかしパウロの場合はただそのような理由だけではありませんでした。この手紙の終わりの方、15章を見ていただくとわかりますが、どうも彼はもっと遠く西方に、イスパニヤ、今のスペインですね、そこまで福音を宣べ伝えたいと願っていたようです。その宣教の拠点としてこのローマ教会に立ってほしかった。そのために必要だったことは、彼らが福音によってその信仰がしっかりと立っているということでした。なぜなら、福音に力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって神の力です。その福音にしっかりととどまっていてほしかった。だからこの手紙を書いたのです。本当なら、ローマまで行って直に会い、顔と顔とを合わせて教えるのに越したことはありません。しかし今はそれができないので、こうやって手紙を書いて彼らを強めようとしているのです。

 しかし、パウロがローマに行きたかったのは、そのように彼に与えられた御霊の賜物を分け与えて、彼らを強くするためだけではありませんでした。12節、「というよりも、彼らの間にいて、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたかったからなのです。」

 皆さん、私たちクリスチャンには、それぞれ御霊の賜物が与えられています。この御霊の賜物についてパウロは、ローマ書12章3~8節のところで次のように言っています。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

 一つのからだには器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとりが互いに器官なのです。ですから、その与えられた御霊の賜物を、主に喜ばれるように、ほかの人々のために用いていかなければなりません。パウロには預言の賜物があったでしょう。教える賜物も、勧める賜物も、指導する賜物もあったかもしれません。かといって、彼がオールマイティーであったかというとそうではありません。おそらく、人を励ますという賜物は弱かったのではないかと思います。それはあのバルナバとの激しい反目をみるとわかります。彼らが第二次伝道旅行に出かけて行こうとした時、マルコを連れて行くかどうかで話し合った時、彼らの間に激しい反目が起こりました。先の伝道で途中から戻った者など伝道者としてふさわしくないと主張したパウロと、いや、人はみな弱さがあって完全ということはないんだから、そういう人をも受け入れていく必要があると主張したバルナバとの間に、激しい口論が生じたのです。結局、マルコを連れて行ったのはバルナバでした。パウロはなかなか受け入れることができなかった。もちろん、後でパウロはそのマルコさえも心から許し、受け入れましたが・・・。どちらが正しかったのかというよりも、人にはいろいろな性格や賜物、考え方があるので、そのような違いが生じてくるのです。しかし、それはやはりパウロの度量のなさというか、弱さからくる限界でした。やはり人を励ますという点ではバルナバの方が優れていました。とは言ってもみながバルナバだったらいいのかというとそうではありません。バルナバのような人がいて、パウロのような人がいて、それぞれに与えられた賜物を用いることによってともに励ましを受けることが大切なのです。神様は、そのために必要な人材してそれぞれを教会に置いてくださったのです。ですから、それぞれに与えられた賜物を用いて、互いに主に仕え合わなければなりません。そのためには、自分に与えられている霊的賜物を、ほかの兄弟姉妹に喜んで分け与えようという愛と、自分もまた教えられ、祝福を受ける必要があるということを十分認識し、そうした欠けを補いたいという謙虚さが必要です。この両者のあるところにクリスチャンの交わりがあり、それは大きな恵みをもたらしていくのです。

 19世紀のアメリカの偉大なリバイバリスト、D・L・ムーディの周りには、彼を支えた多くの人たちがいました。賛美の奉仕をしたのはサンキという人ですが、この人は生涯ムーディとともに働きました。ムーディーが行く先々で、まずサンキが賛美して人々の心を開き、熱くしました。ムーディとサンキの関係は、まさに同労者の関係でした。またムーディはサンキだけでなく、R・A・トーレイという神学者もいつも連れて行きました。この人は、それほど説教がすぐれていたわけではありませんでしたが、しっかりとした神学的背景を持っていたので、靴屋から献身し、それほど教育を受けられなかったムーディにとっては、そうした神学的知識で理路整然に文章をまとめ、説教の原稿を作ったり、バイブルスタディの教材を作ったりしてもらえたことは、大きな助けでした。

 パウロは、「あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」と言いました。私たちはこのような励ましをみな必要としているのです。お互いに心を開き、このような交わりを持つように励みたいものです。

 Ⅲ.返さなければならない負債(13-15)

 パウロがどうしてもローマに行きたかった第三の理由は、それが返さなければならない負債だったからです。13~15節までをご覧ください。ここでパウロは、

「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

と言っています。パウロは、何度もローマに行こうとしましたが、なかなかそれを果たすことができませんでした。なお妨げられていたのです。パウロがこの手紙を書いたのは、第三次伝道旅行でエペソに3年間滞在したのち、マケドニヤ、アカヤを訪れた時でした。コリントに三ヶ月間滞在していた時でした。コリントといったらローマまでひとっ飛びです。もう少しで行けるというところまで来ていましたが、マケドニヤからの献金を携えてエルサレムに行かなければなりませんでした。今なお妨げられているのです。しょうがないから彼はそこで手紙を書いて、隣町ケンクレヤの女執事フィベに託して手紙を送り届けたのです。それにしてもなぜパウロはローマに行くことをそれほど願ったのでしょうか。その理由は14節にあります。

「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

 パウロはそれを「返さなければならない負債」だと思っていました。「負債」とは、辞書で調べてみると、「他から金銭や物品を借りて、返済の義務を負うこと。また、その借りたもの。借金。債務。」とあります。それは義務なのです。ローマ人やギリシャ人に対して実際に負債を負っていたというのではなく、その人たちに返さなければならない負債を「神に対して」負っていたという意味です。つまり、神がそのことを要求しておられるとパウロは考えていたのです。

 パウロはその使命を負債のように感じていました。負債を負っている人なら、あるいはかつて負ったことのある人ならパウロの気持ちがよくわかるのではないでしょうか。それが常に重荷となってのし掛かってきます。「返さなければならない」というプレッシャーとなって日々全身に重く感じるのです。パウロがローマに行って福音を伝えたいと思ったのは、それは神から与えられた大きな恵みのゆえに、どうしても返さなければならない負債だったのです。

 ここに私たちクリスチャンのあるべき姿がよく表されているのではないかと思うのです。つまり、私たちは自分が何をしたいのか、どこに行きたいのかといった個人的な思いからあれをしよう、これをしようと選択して生きているのではなく、神が何をしてほしいのかを知り、それを行っていくことが大切であるということです。そういう基準で生きる(行動する、選択する)ことです。

 現代の人は「こうしなければならない」ということを極端に嫌います。代わりに「権利、権利」と、権利ばかりを主張するのです。しかし、すべての状態が自分の都合に合致しなければ喜べないというのは自己中心的であり、幼い人で、その心を変えなければ、いつまでたっても成長はありません。すべての事が自分の思うとおりにはいくとは限らないからです。神から与えられた仕事を、神のために、神のお喜びのためにやるという心を持つ時に、大人のような立派なクリスチャンになることができるのです。パウロはそうでした。彼はいつも神のために何が一番良いことなのかを求めて生きました。たとえばコリント第一の手紙9章には、彼は飲み食いする権利、妻を連れて歩く権利、まあ、これは結婚のことですが、それから働きのために報酬を受ける権利があるが、そのような権利を一つも用いなかったと告白しています。なぜでしょうか?より多くの人を獲得するためです。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(Iコリント9:19)

 彼はすべてのことを福音のためにしました。パウロは信仰によって、福音のために何が一番良いのかという選択をしました。それが霊的大人の考え方です。そのように考えるなら、このような義務は祝福であることがわかります。また、そのような務めが私たちに与えられているということは、神がそのような者として私たちを認め期待しておられるということの裏返しでもあるわけですから、本当に感謝なことなのです。数年前のペットの流行は「ホーランドロップ」といううさぎだそうですが、どんなにホーランドロップが癒し系のかわいいうさぎだからといって、そのうさぎに家中を掃除することを期待するでしょうか。しないです。そのようなものとして認めていないからです。家にはかわいいフェレットがいますが、このフェレットに何らかの責任を与えたりするでしょうか。「フェレットちゃん、きょうはおとなしくお留守番しているのよ」なんて言いません。そのようなことを期待していないからです。カエルにお買い物を頼みますか?「頼むから美味しい食べ物を買ってきてくれませんか」なんて・・。しません。できないからです。そんなこと言ったら、「もうカ~エル!」なんて言われるでしょう。そのように責任を与えるということは、それができると認めているからであって、できなかったら与えません。神様は私たちにそのような務めを与えてくださったというのは、そのような者として私たちを見ておられるからなのです。もし私たちが神から与えられた義務と責任をすばらしいものとしてとらえることができれば、一人の人間として、クリスチャンとして、必ず成長していくことになるのです。

 パウロは、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と言いました。「ギリシャ人にも未開人にも」とか、「知識のある人にも知識のない人にも」というのは、世界中のあらゆる人々にという意味です。パウロの関心は、世界中のどこにおいても、この福音を宣べ伝えることでした。それが自分に与えられた使命であり、どうしてもしなければならない負債だと考えたのです。それはパウロだけではありません。私たちも同じです。私たちも同じ負債を負っているのです。私たちはそれほど大きな神の恵みを受けたからです。神の御子をこの世に与え、十字架につけて死なせ、三日目によみがえらせることによって、この方を信じる者はだれでも救われるという道を開いてくださったのです。そのおかげで、私たちはたましいの救いを得ることができました。何と大きな恵みでしょうか。私たちはそれほどの恵みを受けたのならば、その恵みを何らかの形でお返ししたいと思うのが当然ではないでしょうか。パウロはその神の大きな恵みのゆえに、この福音宣教を、どうしても返さなければならない負債だと感じていたのです。それは私たちも同じです。私たちも恵みを受けたのです。ですから、これがどうしても返さなければならない負債、いや、それこそ私たちの願いであると受け止めるられるなら、神の国がますます大きく前進していくだけでなく、私たち自身の祝福ともなるのです。

 ですからパウロは何とかしてローマに行きたかった。ローマにいる彼らにも、ぜひ福音を伝えたかったのです。私たちもパウロのような情熱をもって、神のみこころに生きることを求めていきたいものです。



メッセージへ戻る