黒いけれども美しい 雅歌1章5~8節

2021年5月16日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌1章5~8節

タイトル:「黒いけれども美しい」

 

 前回から雅歌を学んでいます。きょうは、1章5節から8節までの箇所から「黒いけれども美しい」という題でお話します。「雅歌」とは「歌の中の歌」という意味です。これは花婿と花嫁の最高の愛の歌です。2節から花婿に対する花嫁の歌が続いています。2節には「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」とあります。どうしてですか。花婿がそれほど麗しい方だからです。2節の後半には「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく」とあります。主イエスが与えてくださる愛は、この世が与える喜びや楽しみよりもはるかにすばらしいのです。

 

3節には、「あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は注がれた香油のよう。」とあります。これは、神に献げられた芳しい香りです。キリストは、神でありながらご自身を虚しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえに神は彼を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになられました。捧げ尽くすところにいのちの祝福があります。キリストはご自分のいのちを献げられたので、その香油は香り芳しいのです。

 

4節には「私を引き寄せてください」とあります。この方は私たちを引き寄せてくださる方です。私たちが神を愛したのではありません。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があります。神が私たちを引き寄せてくださいました。私たちはキリストの花嫁として、花婿であられるキリストとの関係に入れられたのです。何という恵みでしょうか。しかし、そればかりではありません。花嫁の花婿に対する愛の歌はまだ続きます。

 

Ⅰ.私は黒いけれども美しい(5-6)

 

まず5~6節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。ケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、私は黒いけれども美しい。あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」

 

花嫁はエルサレムの娘たちに語りかけています。「ケダルの天幕」とは、黒やぎの毛でできたテントのことです。「ケダル」とは、創世記25章13節に出てくるイシュマエルの子どもの一人です。イシュマエルとはアブラハムと妻サラの女奴隷ハガルとの間に生まれた子どもです。その次男がケダルです。彼は、今日のアラブ民族の祖先となります。彼らは遊牧民となりましたが、黒やぎの毛で作られた天幕に住みました。それは黒く、汚れていました。花嫁は自分の姿を見て、そのケダルの天幕のように黒いと言ったのです。しかし、ただ黒いのではありません。ここには「黒いけれども美しい」とあります。それはソロモンの幕のようです。「ソロモンの幕」とは、神殿の聖所と至聖所を仕切る垂れ幕のことです。この垂れ幕については、出エジプト記26章31節にこうあります。「また青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。」これはイエス・キリストご自身を表していた、最も美しい幕でした。ですからここで花嫁が言っていることは、自分はケダルの天幕のように黒く汚れているけれども、ソロモンの幕のように美しいということです。

 

どうして彼女はそのように言うことができたのでしょうか。それは花婿がそのように見てくれるからです。8節を見てください。ここには「女の中で最も美しいひとよ」とあります。これは花婿の言葉です。確かに彼女は真昼の日照りの中で畑の見張りをさせられ、日に焼けて浅黒くなっていたかもしれませんが、花婿にとっては最も美しく、愛すべき最高の花嫁だったのです。だから彼女は、「私は黒いけれども美しい」と言うことができたのです。

 

これは私たちにも言えることです。私たちもケダルの幕のように黒く罪に汚れた者ですが、主はそんな私たちを見てこうおっしゃってくださる。「女の中で最も美しいひとよ」それゆえ、私たちも「私は黒いけれども美しい」と言うことができるのです。大切なのは私たちが自分をどのように見るかではなく、主がどのように見てくださるかということです。人がどのように見るかではなく、神さまがどのように見てくださるかということなのです。神さまが見られるその姿こそ私たちの正確な姿であり、私たちが持つべきアイデンティティーなのです。

 

それにしても、彼女はどうしてそのように見ることができたのでしょうか。6節にはその理由があります。「あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」

花嫁はここで、自分がこのように黒くなったのは生まれつきではないと言っています。日に焼けたからだと。母の息子たち、すなわち兄弟たちが、私をぶどう畑の番人にしたので、炎天下にさらされた結果、日焼けして浅黒くなってしまったのです。

 

でもそうでしょうか。確かに日に焼けて黒くなったということもあるでしょうが、でも普段生活するうえではそんなに気にならなかったでしょう。彼女が自分は黒いということをこんなに意識しているのは、実は花婿であられる王の前に出たからなのです。彼女は透き通るように美しく光輝いた王の前に出たとき、自分があまりにも黒いということに気付かされたのです。私たちも主の御前に立つとき、自分がいかに黒いのか、汚れているのかがはっきりわかります。暗闇の中にいると自分の黒さには気付きません。光の中に立たされて初めてその黒さに気付かされるのです。

 

あの預言者イザヤもそうでした。彼は自分が預言者としてイスラエルの民の姿を見たとき、「わざわいだ」と何度も非難し断罪しましたが、高く上げられた御座に着いておられる主を見たとき、そのものすごい聖さに打ちのめされてしまいました。そしてこう言ったのです。「ああ、私は滅んでします。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)彼はイスラエルの民と自分を比較していたときには気付きませんでしたが、主の聖さに触れたとき、自分がいかに汚れているかということに気付かされたのです。そうです、人は闇の中にいると自分汚れには気付きませんが、主の前に立たされたときに初めて、その黒さに気付かされるのです。

 

あのパウロもそうでした。彼は自分のことを「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)と言っています。新約聖書の中の13もの手紙を書いたパウロですら、神の聖さ、神の恵みの大きさが分かったとき、「罪人のかしら」であると告白せざるを得なかったのです。

 

神に近づけば近づくほど、光に近づけば近づくほど、影は伸びるものです。ですから、クリスチャンとして霊的に成熟すればするほど自分の汚れ、罪深さ、醜さが示されるのは当然のことなのです。どんなに自分が熱心に信仰に励み、信仰歴も長く、それなりに立派にやってきたと思っていても、主の御前に立たされるなら、「私は黒い」と言わざるを得なくなるのです。

 

けれども美しい!のです。なぜ?花婿なるキリストがそのように見てくださるからです。主はそんな私たちの汚れを、ご自身の血をもってきよめてくださいました。その血によって、しみや、しわや、そのようなものが何一つない者としていただいたのです。

エペソ5章26~27節にはこうあります。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」「キリストがそうされたのは」とは、キリストが教会のためにご自分をささげられたのはということです。キリストがそうされたのは、教会をきよめて聖なるものとするためでした。罪や汚れを洗いきよめ、しみや、しわや、傷や、そのようなものが何一つない栄光の教会を、ご自身の御前に立たせるためだったのです。ここに「ご自分で」とありますね。それは私たちがすることではありません。それは主がなさることです。私たちは自分の手で自分をきよめることなどできません。きよめてくださるのは主なのです。

 

ですから、私たちは、見た目には確かに黒いかもしれません。自分の罪深さに「これでもか」と打ちのめされそうになることがあるのですが、主はそのような私たちをきよめてくださり、「女の中で最も美しいひとよ」と言ってくださるのですから、私たちも「私は黒いけれども美しい」と告白することができるのです。これが私たちの姿です。あなたもイエス・キリストを信じるなら、このように告白できるようになります。ぜひ信じていただきたいと思います。

 

Ⅱ.私のたましいの恋い慕う方(7)

 

次に7節をご覧ください。「私のたましいの恋い慕う方。どうか私に教えてください。どこで羊を飼っておられるのですか。昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。なぜ、私はあなたの仲間の羊の群れの傍らで、顔覆いをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

 

ここで花嫁は花婿を「私のたましいの恋い慕う方」と呼んでいます。新改訳第3版では「私の愛している人」と訳しています。口語訳では「わが魂の愛する者よ」となっています。ここではただ愛している方というよりも、「私のたましいの恋い慕う方」とか「わが魂の愛する者よ」というのが適切だと思います。というのは、ただ愛しているのではないからです。たましいから愛しているのです。たましいから愛するとはどういうことでしょうか。それは最も深いレベルで愛するということです。それは最大の愛の表現です。極みの愛です

 

マタイ22章37~38節には、「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。」とあります。これはある律法の専門家が「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねたことに対して、イエスが答えられたことです。ここで主イエスは彼に「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われました。この「いのちを尽くして」が「たましいを尽くして」ということです。それはいのちがけの愛です。いのちがけで愛しなさいというのです。これは最大の愛の表現なのです。ですから、ここで花嫁が花婿に対して「私のたましいの恋い慕う方」と言うとき、それは自分のたましいから恋い慕っている方、いのちをかけて愛するほどの方だと告白しているのです。

 

人はだれを愛するのかによって、また、何を愛するのかによって、その人生が決まります。それによって人生観も決まるのです。もしあなたが自分自身を愛するなら、そのような人生になります。いつも自分が願うようにならないと気が済まなくなるので、不平不満とかつぶやきに満たされることになります。まさに「フロイトの快楽の原則の通り」です。現代の精神医学や心理学の問題はここにあります。

生きる意味を失ってしまい、迷っていたある若者が、ある日、精神病院を訪ね、医者と相談しました。ところが、その精神科の医者は、フロイトの快楽の原則の通りに、「あなたが願う通りに快楽を楽しんでみなさい」とアドバイスしました。そのアドバイスに従って青年は、歓楽街へと行き、女遊びに明け暮れました。青年は二度と医者の所へは戻ってきませんでした。彼は、自分に嫌気がさして自殺したのです。

この世の快楽だけでは、決して解決できない精神的空虚と不安のために、人々のたましいは疲れ果てています。もしあなたが自分を愛するなら、自分の願う通りに行かない現実に嫌気がさして、何をしても満たされることはないでしょう。

しかし、神を愛するなら、感謝と喜びに溢れるようになります。なぜなら、神は完全であられるからです。この神を愛し、神に従うなら、神があなたの必要を満たし、歩むべき確かな道を示し、あなたの思いを越えたすばらしい結果をもたらしてくださるので、あなたは平安と喜び、感謝を得るようになります。大切なのは、自分を愛することではなく、神を愛することです。イエス様は「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われました。これが第一の戒めです。

 

私たちの主は、たましいを尽くして愛するのにふさわしい方です。なぜなら、主は私たちのためにご自身のいのちを与えてくださったからです。ヨハネ15章13節を開いてください。ここには、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。主はそのような愛で私たちを愛してくださいました。これ以上の愛はありません。私たちはこの愛で愛されているのです。それゆえ、この方をたましいの愛で、いのちがけの愛で愛するのは当然のことなのです。あなたはどうでしょうか。あなたはだれを愛していますか。何を愛しているでしょうか。そのことによってあなたの価値観が決まります。あなたの人生が決まるのです。

 

花嫁はここで自分がこのように黒いのは家族のせいだとずっと恨んでいました。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人したので、私はこんなに浅黒くなったんだと苦々しい思いでいました。しかし、花婿に目を留め、花婿をたましいからの愛で愛したとき、そうした恨み辛みから解放されました。そしてこう尋ねているのです。「どうか私に教えてください。どこで羊を飼っているのですか。」

 

ここで花嫁は、花婿である王が羊飼いであることを示唆しています。ある人はここから、主な登場人物が3人いると考えます。すなわち、王である花婿と羊飼い、そして花嫁です。このように考える人は、羊飼いのような身分の低い人が高貴な王であるはずがないと考えます。常識的にはそうかもしれません。しかし、王でありながら、同時に羊飼いであられる方がいます。だれでしょうか?イエス・キリストです。イエス・キリストは王の王、主の主でありながら、同時に羊飼いであられます。黙示録19章16節にはこうあります。「その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。」「その衣」とは、白い馬に乗っておられる方で、「確かで真実」と呼ばれ、義をもってさばかれる方です。その方は血に染まった衣をまとい、「神のことば」という名で呼ばれていた方とありますから、この方はイエス・キリストです。イエス様は「王の王、主の主」と呼ばれる方なのです。

 

しかし、同時にこの方は羊飼いでもあられます。ヨハネ10章11節をご覧ください。ここには「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」とあります。これはイエス様のことばです。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。イエス様は羊飼いでもあられるのです。また、また、ヨハネ10章14節には「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」とあります。これもイエス様のことばです。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。

ですから、イエス様は王の王、主の主であられますが、同時に羊飼いでもあられるのです。その羊飼いである花婿に対して花嫁はここで、私のたましいの恋い慕う方よ、あなたはどこにおられるのですかと尋ねています。どこで羊を飼っているのですか、教えてください、と言っているのです。彼女は羊飼いであられる花婿と一緒にいたいのです。片時も離れることができません。離れたくないのです。花婿が一緒にいなければ満足することができません。羊の群れと一緒にいるだけでは満足することができません。彼女にとっては花婿が必要であり、いつも花婿と一緒にいたいといのです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは花婿なる主と一緒にいたいという切なる願いがあるでしょうか。そのことを求めているでしょうか。教会に行ける時には行きますとか、時間があれば聖書を読みます、祈ります、ということはないでしょうか。そのような思いでは行くことはできません。読めません。祈れません。人は何を愛するかによってその行動が決まるからです。ダビデは、このように言いました。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27:4)

私たちも一つのことを主に願いましょう。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮でふける、そのために。心を尽くし、たましいを尽くし、力を尽くして主を愛しましょう。いつも主と一緒にいることを切に求めたいと思います。

 

Ⅲ.羊の群れの足跡を追って出て行き(8)

 

そのような花嫁の願い、叫びに対して、王である花婿は何と答えているでしょうか。8節をご覧ください。「女の中で最も美しいひとよ。あなたが知らないのなら、羊の群れの足跡を追って出て行き、羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」

 

「女の中で最も美しいひとよ。」これは先ほども述べたように、花嫁である教会、私たちクリスチャンのことです。私たちは確かに黒くて醜い者ですが、花婿であられるキリストの目には最も美しいものと映っているのです。たとえ自分が黒い者だと思っていても、たとえ自分が同じ罪を繰り返すような情けない者であっても、あなたはイエス様にとってかけがえのない存在なのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言ってくださるのです。そのお方がどこにいるのかあなたが知らないのなら、わたしがどこにいるのかを本当に知りたいと思うなら、どうすれば良いかを教えています。それは、「羊の群れの足跡を追って出て行き、羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」ということです。どういうことでしょうか。

 

ここでは二つのことが言われています。第一に、「羊の群れの足跡を追って出て行きなさい」ということです。これは、いわゆる1匹狼のようなクリスチャンは存在しないということです。クリスチャンはみな羊です。羊は群れで行動します。もし単独で行動するとどうなるでしょうか。あの1匹の迷える子羊のたとえにあるように、どこかに迷子になってしまいます。聖書には教会はキリストのからだにたとえられていますが、からだはバラバラでは存在しません。キリストを頭として、からだ全体が一つとなってこそ機能します。それと同じです。私は群れが苦手だから自分で信仰を守りますとか、礼拝に行かなくても大丈夫です、どこでも礼拝できますから。自分で聖書を読んで祈りますと言われる方がおられますが、本当にできるでしょうか。もうそんなことは何年もやってきたので卒業しました。イエス・キリストだけでいいんです。こういうのは、聞こえはいいですがこれほど非聖書的なことはありません。なぜなら、聖書はそのようには教えていないからです。もしあなたがイエス様を知らないと思うなら、羊の群れの足跡を追って行かなければなりません。羊の群れとは何でしょうか。それは、キリストの教会のことです。もしあなたが、花婿がどこにいるのかを知りたいなら、羊の群れである教会の足跡に着いて行かなければなりません。

 

へブル10章25節には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。私たちはある人たちのようにいっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合うことが必要です。かの日とはキリストの再臨の日のことですが、その日が近づいています。それを見てますますそうしなければなりません。私たちはみな群れについて行く必要があります。群れの一員として行動することが求められているのです。そうすれば花婿がどこにいるかがわかります。花婿がどのようなお方なのかがわかるのです。それがキリストのご計画なのです。

 

Ⅰペテロ2章5節にも同じことが言われています。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」神に喜ばれる霊のいけにえとは、神に喜ばれる礼拝のことです。どうしたら神に喜ばれる礼拝をささげることができるのでしょうか。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられることによってです。「霊の家」とは教会のことです。ですから、本当に神に喜ばれる礼拝をささげたいと思うなら、私たち一人ひとりが生ける石となって、霊の家である教会の上に築き上げられなければなりません。これが神のご計画であり、神のみこころなのです。独立した石ではなく、組み合わされて一つとなってはじめて、神に喜ばれる礼拝をささげることができるのです。勿論、一人で祈ることもできます。でもあなたが本当に主との麗しい関係を求めているのなら、主と一緒にいることを願っているなら、羊の群れである教会に集う必要があるのです。

 

花婿なる主がどこにいるのかをあなたが知りたいならどうしたらいいのでしょうか。第二のことは、その後にあるように、「羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」ということです。どういうことでしょうか。

イエス様が復活された後で弟子たちにご自身の姿を現わされたとき、同じことをペテロに言われました。イエス様がペテロに「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と問われると、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。するとイエスは彼に「わたしの子羊を飼いなさい。」と言われました。どうしてイエス様はペテロにそのように言われたのでしょうか。

J.C.ライルという聖書注解者はこう述べています。「他者に対して有用な者となることは、愛を試す主要なテストであり、キリストのために奉仕することは、真にキリストを愛する立派な証拠である。・・・それは大声で話すことでも、立派な信仰告白をすることでもなく、がむしゃらで衝動的な熱心さや、剣を脱いで戦う用意をすることですらない。それは、この世に散らばっているキリストの小羊たちのために、堅実で、忍耐強い、骨の折れる努力をすることである。そしてこれこそが、忠実な弟子であることの最善の証拠なのである。これがキリスト者のすばらしさの本当の秘訣である。」(「ライル福音書講解ヨハネ4」p491-492)

ここで、ライルが言っていることは、この雅歌において花婿が言っていることにも当てはまります。すなわち、あなたがキリストの花嫁としてキリストを本当に愛しているのなら、この世に散らばっているキリストの小羊のために労することこそ、その愛を証明することになるということです。それは忍耐強い、骨の折れる努力をすることですが、それによってより深く主を知り、主との深い主との交わりへと導かれるのです。なぜなら、花婿は羊飼いであられるからです。

 

私たちの人生には辛いと感じるときや、主がどこへ行ってしまったのかわからないほどの試練に直面することがあります。そのような時私たちに必要なのは、羊の群れの足跡を追って行くことです。そして、あなたの子やぎに食べさせてあげることです。どんなに辛くても羊の群れから離れてはなりません。どんなに忙しくても教会に来ることをやめてはならないのです。また主を知らない人たちに、あるいは、主を信じたばかりの若い子やぎを養わなければなりません。そうすれば、あなたは花婿である主を見出し、花婿であられる主との深い交わりの中に入れられるでしょう。

 

あなたが神の家族の一員として神の民に属するとき、あなたの本当の人生の目的が明らかになります。神の家族の中で、自分がどこから来て、どこへ向かっているのか、生きる意味を知ることができます。そのときあなたは、あなたに対する主のみこころが何であるのかを深く知るようになるのです。私は黒いけれども美しい。女の中で最も美しいひとよと言ってくださる花婿に、私たちのたましいの愛をささげたいと思います。

民数記6章

民数記6章

 

 きょうは、民数記6章から学びます。まず1節から12節までをお読みします。

 

  • ナジル人の誓願(1-12)

 

 まず1節から12節までをお読みします。「【主】はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、【主】のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。また、ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも、干したものも食べてはならない。ナジル人としての聖別の全期間、彼はぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。【主】のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。【主】のものとして身を聖別している間は、死人のところに入って行ってはならない。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らとの関わりで身を汚してはならない。彼の頭には神への聖別のしるしがあるからである。ナジル人としての聖別の全期間、彼は【主】に対して聖なるものである。だれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合には、身をきよめる日に頭を剃る。すなわち七日目に剃る。そして八日目に、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を、会見の天幕の入り口にいる祭司のところに持って行く。祭司はその一羽を罪のきよめのささげ物とし、もう一羽を全焼のささげ物として献げ、死体によって招いた罪を除いて彼のために宥めを行い、その日に彼の頭を聖なるものとする。その人は、ナジル人としての聖別の期間を、改めて【主】のものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて行き、代償のささげ物とする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。」

 

5章では、宿営の内側を聖めることについて教えられていました。なぜなら、そこに主が住まわれるからです。主が住まわれる宿営を汚さないように、ツァラートの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて追い出すようにと勧められていました。また、夫婦関係についても教えられていました。それは社会の最小単位であるからです。すべての関係の土台でもある夫婦関係が守られてこそ敵に勝利することができます。

 

きょうの箇所には、ナジル人の誓願について教えられています。「ナジル人の誓願」とは、2節にもあるように、「男または女が主のものとして身を聖別するための特別な誓い」のことです。意味は「聖め別たれた者」とか、「主に献げられた者」という意味です。つまり、自分を主に献げるという特別の誓いのことです。ローマ人への手紙12章1節には、すべての神の民に、自分を神にささげるようにと勧められています。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」「ですから」とは、神の恵みにより、イエス・キリストの贖いのゆえに罪を赦されたのですから、神の民とされていただいたのですから、という意味です。そのように神の恵みによって聖なる者とされたクリスチャンは、自分を聖い生きた供え物としてささげなければなりません。

 

しかし、ここでは「特別な誓い」とあるように、何か特別な目的のために自分を主にささげる人たちがいたのです。それがナジル人の誓願です。なぜこのような誓願をしたのかというと、神がそれを喜ばれ、そのような人に神の特別な力と御業を現わすためです。それは断食等の信仰の行いもそうです。ただ形式にやっても意味はありませんが、ある目的のために神の恵みとあわれみを求めて自分を聖別するなら、神はその信仰を喜ばれ、御力を現してくださるのです。いわばこのナジル人の誓願はより積極的な面での聖めについての教えであると言えます。このようなナジル人の誓願を立てる場合はどうしたら良いのでしょうか。

 

その場合はまず、ぶどう酒や強い酒を断たなければなりませんでした。ここには「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない」(3)とあります。また、ぶどう酒と強い酒の他に、酢も飲んではいけませんでした。ぶどう汁もそうです。ぶどうの実の生のものも干したものもです。ナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならなかったのです。なぜでしょうか?それはぶどうがこの世の楽しみや喜びの象徴であったからです。神へのナジル人はそうしたこの世の楽しみや喜びを断つことが求められたのです。なぜ喜びとか楽しみを断たなければならなかったのでしょうか。別に喜んではならないとか、楽しんではならないということではありません。そのような時でも神に集中し、神に祈り、神との交わりを第一に求めなければならなかったからです。ナジル人にとってはこの世の楽しみよりも、主との交わりを最優先にしなければならなかったということです。

 

第二のことは、ナジル人は頭の髪をそってはならないとあります(5)。なぜでしょうか。それは、髪の毛が神の力を象徴していたからです。サムソンは、母の胎内にいるときから神へのナジル人でしたが、主の使いが父マノアに、「その子の頭にかみそりを当ててはならない。」(士師記13:5)と言いました。それでサムソンは長髪だったのです。彼には御霊によって怪力が与えられ、何千人ものペリシテ人を殺すことができましたが、その力の源は何だったかというと、その髪の毛にありました。それでペリシテ人の女デリラは彼を欺き、自分のひざの上にサムソンを眠らせると、人を呼んで彼の髪の毛をそり落としてしまいました。それで神の力は彼を去っていったのです(士師16:19)。

 

サムソンだけではありません。サムエルもそうでした。ハンナが、主に祈って、激しく泣いた時、彼女は誓願を立ててこう言いました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(Ⅰサムエル1:11)。        

サムエルは後に偉大な士師、預言者となり、霊的に暗かった時代の中でイスラエルを復興させるために神に用いられる器になりました。したがって、ナジル人の長髪は、神に用いられるための力を象徴していたのです。主に自分のすべてをささげている人は、神の力を受けるのです。

 

ですから、イスラエルには、このようなナジル人の存在が必要だったのです。すべてを主に明け渡し、自分の思いを主に定め、右にも左にもそれない人が必要だったのです。神は、このような人たちを通して、ご自分のわざを行なわれるからです。それはキリストの教会においてもいえることです。教会もこのように自分を主にささげ、主のために生きるとコミットした人たちによって建て上げられていきます。そこに神のいのちと力が増し加えられ、ご自身のみわざが現されるからです。

 

第三に、主のものとして身を聖別している間は、死体に近づくことができませんでした(6)。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、身を汚してはなりませんでした。なぜなら、死体は罪、汚れの象徴だったからです。罪によって死がもたらされました。神のうちにはいのちがあるだけで、死は一切ありません。したがって、これらを避けることが主のみこころだったのです。

 

ところで、9節から12節までには、「もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合」はどうしたらよいかが教えられています。つまり、自分の意志によってではなく、たまたまそれに巻き込まれた場合はどうしたらいいのかということです。その場合は12節にあるように、「ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別」しなければなりませんでした。すなわち、ふりだしに戻らなければならないということです。その時には、まず七日目に頭をそり、八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って行きます。祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとして、ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別したのです。罪のいけにえは、罪を犯したときその赦しのためにささげられるいけにえで、全焼のいけにえは、神に自分自身をささげるためのいけにえです。私たちが罪を犯したときは、この二つのいけにえが必要です。罪の赦しをいただき、再び主に自分自身をささげることです。このようにして再びやり直すことができました。

 

けれども、自分の行為によって犯した過ちではないのに、なぜ、罪を犯した者として数えられなければならないのでしょうか。それは、ナジル人として自分を主に献げるということはそのような厳しさが伴うからです。たとえ自分の方から触っただけではなく死体の方からふりかかってきても、その人は罪のいえにえと全焼のいけにえをささげなければならなかったのです。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとしなければなりませんでした。罪過のいけにえは、自分が他の人に危害を加えた場合にささげるものです。このいけにえをささげたあと、聖別は振り出しに戻り、またゼロから出発することになります。私たちも、ふと思いがけないことですべてのことがだめになってしまうことがありますが、神は何度でもチャンスを与えてくださいます。これまで築き上げてきたものがゼロになっても、再びスタートすることができるのです。

 

Ⅱ.ナジル人の期間が満ちた時(13-21)

 

  次に13節から21節までをご覧ください。「これはナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を会見の天幕の入り口に連れて行く。彼は次のささげ物を【主】に献げる。すなわち、全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の子羊一匹、罪のきよめのささげ物として傷のない一歳の雌の子羊一匹、交わりのいけにえとして傷のない雄羊一匹、さらに穀物のささげ物として、種なしパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪形パン、油を塗った種なしの薄焼きパンを、それぞれに添える注ぎのささげ物とともに献げる。祭司はこれらのものを【主】の前に近づけ、罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を献げる。交わりのいけにえとして雄羊を、一かごの種なしパンとともに【主】に献げ、さらに祭司は穀物のささげ物と注ぎのささげ物を献げる。ナジル人は会見の天幕の入り口で、聖別した頭を剃り、その聖別した頭の髪の毛を取って、交わりのいけにえの下にある火にくべる。ナジル人がその聖別した髪の毛を剃った後、祭司は煮えた雄羊の肩と、かごの中の種なしの輪形パン一つと、種なしの薄焼きパン一つを取って、ナジル人の手の上に載せる。祭司はこれらを奉献物として【主】の前で揺り動かす。これは聖なるものであって、奉献物の胸肉、奉納物のもも肉とともに祭司のものとなる。その後で、このナジル人はぶどう酒を飲むことができる。これがナジル人についてのおしえである。ナジル人としての聖別に加えて、その人の力の及ぶ以上に【主】へのささげ物を誓う者は、ナジル人としての聖別のおしえに加えて、その誓った誓いのことばどおりにしなければならない。」」

 

ここには、ナジル人としての聖別の期間が満ちた時にはどうしたらよいかが教えられています。

ナジル人としての聖別の期間が満ちたときは、彼を幕屋のところに連れて来て、主にいけにえをささげなければなりませんでした(13)。そのいけにえは、まず全焼のいけにえです。それは、一歳の雄の子羊一匹でした。また、罪のきよめのいけにえとして傷のない一歳の雌の子羊をささげなければなりませんでした。また、交わりのいけにえ(和解のいけにえ)としては、傷のない一匹の雄羊をささげなければなりませんでした。交わりのためのいけにえとは和解のいけにえのことです。神との和解、神との平和が与えられたので、それを楽しむためのいけにえです。

 

そして、穀物のささげものもありました。穀物のささげものとしては、種を入れないパン一かご、油を混ぜた小麦粉の輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいです。パン種は罪の象徴ですので、パンの中には種が入っていてはいけなかったのです。また油は聖霊の象徴なので、その油を塗るとか混ぜるというのは、主の聖霊が私たちのうちに宿り、また主の油注ぎが私たちのうちにあることを表していました。このように、ナジル人の誓願によって身を聖別することで主との特別な交わり、御霊にある喜びを持つことができたのです。

 

18節には、ナジル人は会見の天幕の入り口で、これまで伸ばしてきた髪の毛を剃り、それを祭壇のところで交わりのいけにえの下にある火にくべなければなりませんでした。祭司は、煮えた雄羊の肩と、かごの中の種を入れない輪型のパン一個と、種を入れない薄焼きパン(せんべい)一個を取って、ナジル人がその聖別した髪の毛を剃った後で、これらをその手の上に載せました。祭司はこれらを奉献物として主に向かって揺り動かします。これは聖なるものであって、奉献物の胸、奉納物のももとともに祭司のものとなりました。

 

交わりのいけにえは、このようにして祭司によって神の前で高くかかげられます。主に感謝して、主を賛美している姿です。その後で、ナジル人はぶどう酒を飲むことができました。それはどれほどの喜びをもたらしたことでしょう。その喜びがこの後の祝福となって表われます。

 

Ⅲ.主の祝福(22-27)

 

22節から27節をご覧ください。ここにイスラエルに対する祝福が語られます。「【主】はモーセにこう告げられた。「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。【主】があなたを祝福し、あなたを守られますように。【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。【主】が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」」

 

これは、礼拝の祝祷でも用いられる有名な祝福の祈りです。神はこの祝福の祈りをナジル人の教えの後で、アロンにするように命じられました。なぜでしょうか。これはナジル人の誓いと無関係ではないからです。なぜなら、神は自分自身を聖別する者を喜ばれ、祝福されるからです。ツァラートの者、漏出を病む者、死体で身を汚している者を追い出し、他人に害を加えた者が弁償を行ない、苦い水によってためされ、そしてナジル人の聖別によって聖別し、内なる人が強められるとき、主はご自分の祝福を注がれるのです。神が願っておられることは、私たちが主に聖別された者として、自分自身を主にささげることです。そこに神のいのちと力、祝福が現され、教会は外側からも内側からも崩れない堅固なものとして堅く立ち続けることができるのです。

 

先ほど、ナジル人としてささげられた人としての例としてサムソンとサムエルのことを取り上げましたが、実は新約聖書にもナジル人として自分自身を神にささげた人がいます。その一人は、バプテスマのヨハネです。天使ガブリエルがザカリヤに対して、「彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、」(ルカ1:15)と言いました。そのように神にささげられたバプテスマのヨハネは、主イエスから「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と称賛されたほどです。彼はそれほど神の力に満ち溢れていました。

 

また、使徒パウロも一時、ナジル人の誓いを立てていたことが分かります。ケンクレヤというところで一つの誓いを立てたので、髪の毛を剃っています(使徒18:18)。パウロがケンクレヤで髪を剃ったというのは、その断食期間、その誓願期間に一つの区切りを迎えたということです。ナジル人として一定期間誓願を立てておりそれに区切りをつけたということは、ケンクレヤで第二次伝道旅行は終わったということです。パウロは、コリントに腰を据えて伝道していました。18章11節には、「そこでパウロは、1年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」とあります。衰弱して、恐れを抱きながら、コリントに来たパウロでしたが、そこでアクラとプリスキラという、同じようにローマから避難してきた夫婦に出会い、話をしているうちに元気を回復し、そしてイエスさまから励ましのことばを受けました。これが10節です。「わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町にも、わたしの民がたくさんいるから。」伝道の実りは大きいと主に励まされて、パウロはコリントに一年半滞在することができたのです。その伝道の働きが終わりました。それで、パウロはシリヤに向かって船出したのです。それが18節に書いてあることです。そしてケンクリヤに来た時に髪をそったのです。いったいパウロは何ためにナジル人としての誓願を立てたのでしょうか。おそらく、第二次伝道旅行においてふりかかる数々の迫害の中にも神の恵みと力にあふれて、その御業を果たすことができるようにという願いがあったのでしょう。それが終わりました。それから解かれたので、彼は髪の毛をそったのです。そのように神の働きにおいて、神の力ある御業が現されるようにと願ってナジル人としての誓願を立てる、自分を神にささげるということはとても大切なことなのです。

 

そして何よりもナジル人として生きられたのは、イエス様ご自身でした。イエス様は最後の晩餐の時にこう言われました。「あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(ルカ22:18)これはナジル人としての誓願です。イエス様が再び地上に来られる時までぶどうの実で造られた物を飲むことはないと、ご自分をささげられたのです。神の国がもたらされるそのときに、その喜びの祝宴の中でぶどう酒を飲みます、そう言われたのです。つまり、イエス様が切に願われたのは、ご自分の民であるユダヤ人がご自分を受け入れること、そして世界が元の通りに回復することです。それまでは、ご自分を父にお任せしていました。それほどご自分を父なる神にゆだねておられたのです。神の救いは、そのようなところにもたらされるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。自分を主にささげておられるでしょうか。主のものとなっていますか。もしそうであるならば、そこに主の御力とみわざがあらわれます。主があなたを祝福し、あなたを守ってくださいます。主があなたを照らし、あなたを恵まれます。主が御顔をあなたに向け、あなた平安を与えてくださるのです。私たちはそんな力ある主のみわざにあずかるために、自分自身を主におささげして歩む者でありたいと思います。

歌の中の歌 雅歌1章1~4節

2021年5月2日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌1章1~4節

タイトル:「歌の中の歌」

 

 きょうから、雅歌に入ります。皆さんは「雅歌」という言葉を聞いたことがありますか。「雅歌」というと一般に絵を描く「画家」を思い浮かべるのではないかと思いますが、その「画家」ではなく「雅歌」です。この「雅歌」という言葉を広辞苑で調べてみると、①俗歌に対して、格式の正しい歌。みやびな歌。②旧約聖書中に収められた男女の恋愛歌。とあります。やはり、どちらかというとこの聖書の中の「雅歌」を念頭に説明されているようです。

 

 1節には「ソロモンの雅歌」とあります。これはソロモンが書きました。この「雅歌」という言葉には※印がついていて、下の説明を見ると、直訳「歌の中の歌」とあります。ヘブル語では「シール・ハッシリーム」と言います。意味は「歌の中の歌」です。「歌」はヘブル語で「シール」といいますが、このように「シリーム」と伸びると複数形になります。ですから、ただの歌ではなく「歌の中の歌」です。英語では「The Song of Songs」となっています。このように「歌の中の歌」という表現は、「主の主」、「王の王」という表現のように最上級を表しています。つまり、「雅歌」とは「歌の中の歌、最上級の歌」という意味です。この歌を書いたのはソロモンです。彼は伝道者の書も書きました。前回までその伝道者の書を学びましたが、その書の中で彼は「空の空、すべては空」と言いました。この世において私たちの心を満たすものは神以外にはありません。神を知らない生き方は虚しいのです。その神とはどのようなお方なのでしょうか。その伝道者の書に続いてこの雅歌があるのは意義深いと思います。つまり、神を知るということは、 神の愛を知ることなのです。

 

 この雅歌を読んでいくとわかりますが、ちょっと難解です。何回読んでもわかりません。その理由の一つには、ここに登場する2人の男女が誰のことを指しているのかはっきりわからないことです。伝統的にはこの2人の男女に関しては3つの解釈があります。第一に、これは実在した2人の男女で、この雅歌はこの男女の愛を歌った歌であるという考えです。つまり、これは神が用意してくださった理想的な男女の愛の関係とはどういうものなのか、夫婦の関係とはどういうものなのかを歌った歌だというのです。

第二に、これは単なる男女の恋愛の歌ではなく、神とイスラエル民族との関係を比喩的に表したものであるという考えです。ほとんどのユダヤ人の学者と一部の福音派の学者はそのように理解していて、これをイスラエルに対する神の愛の物語だと考えています。

第三に、比喩は比喩でもこれはキリストと教会との関係を表わしているという考えです。多くの福音派の学者がそのように理解しています。新約聖書には教会はキリストの花嫁とありますから、そのように解釈するのは自然ではいかと思います。ここでは「花婿なるキリスト」と「花嫁なる教会」との基本的な愛の関わりを預言的に歌った「愛の歌」と理解してお話しを進めていきたいと思います。

 

 Ⅰ.ぶどう酒にまさって麗しい愛(1-2)

 

それでは、早速本文を見ていきましょう。まず1~2節をご覧ください。「ソロモンの雅歌 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、」

 

2節から本文が始まります。2節から7節までが花嫁のことばです。それにしても、最初からドキッとしますね。いきなり「口づけ」の話です。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」

口づけは、愛の親密感を表しています。そもそも「口づけ」するということは、花婿と花嫁が顔と顔を合わせる行為です。花嫁がその熱い口づけを求めているのは、花婿の心と思いを知ろうとする熱意の表れなのです。その口づけは、複数形で表されています。何度も口づけしてくれたらいいのに、という意味です。ルカの福音書15章に放蕩息子のたとえ話がありますが、その話の中で父親は放蕩して帰って来た息子に何度も口づけしました。それと同じです。それは親密な愛の表現であるだけでなく、尽きることのない愛を表わしています。それは何回も与えられるものなのです。昨日だけでなく今日も、明日も与えられます。それはいつも新鮮なのです。私たちは昨日の「口づけ」ではなく、日々与えられる新しい「口づけ」を求めることができるのです。

 

花嫁はなぜこのような親密な関係を求めているのでしょうか。その理由が2節の後半にあります。「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しい」花婿の愛はぶどう酒にまさって美しいからです。どういうことでしょうか。聖書では「ぶどう酒」は人生の楽しみや喜びを象徴しています。たとえば、詩篇4篇8節には「あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。」とあります。この穀物と新しいぶどう酒は喜びを象徴しています。主が与えてくださる喜びは、この世が与えてくれる喜びにまさっているということです。また、詩篇104篇15節にも「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、パンは人の心を支えます。」とあります。この「ぶどう酒」とか「パン」は、この世が与える喜びと言ってもいいでしょう。すなわち、花婿の愛はこの世が与える喜びや楽しみよりもはるかにすばらしい、はるかに勝っているという告白なのです。

 

先ほど歌った賛美は「なんて素晴らしいイエスの名は」(What A Beautiful Name)という賛美です。イエスの名がなんて素晴らしいものなのかを歌った歌です。

  1. 神と共にあった はじめの言葉 あなたの栄光は 地に満ちている

なんて麗しい なんて麗しい イエス・キリストの その麗しい名に 勝るものはない

なんて麗しい イエスの名は

 

  1. 私の罪も全部 包んだ愛により 私をあなたから 離すものはない

なんて素晴らしい  なんて素晴らしい イエス・キリストの その素晴らしい名に勝るものはない なんて素晴らしい イエスの名は

 

永遠の初めからあったことば。そのことばは神とともにありました。ことばは神であり、神の栄光に満ちていました。その栄光の神が、すべての人を照らすまことの光として、この世に来られたのです。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この方はご自分の民のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れませんでした。それなのに神さまは、ご自分に敵対していたこの世を救うためにこの方を遣わしてくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架に付けてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方の愛によって、私たちは神の子とされ、栄光の御国を相続する者とされました。だれもこの愛から引き離すものはありません。なんて麗しい愛でしょうか。

 

使徒パウロは、この方の愛を次のように言いました。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6-8)

 私たちがまだ罪人であったときとは、私たちが神さまに背き、神さまに敵対していたときのことです。そのようなときにキリストは私たちのために十字架で自分のいのちを与えてくださいました。そのことによって、私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださったのです。何と麗しい愛でしょうか。あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛。この世にはいろいろな愛がありますが、これほどの愛はありません。これは自分を与える愛です。相手が良い人であるかとか、悪い人であるかといったことは全く関係ありません。そのようにしてイエスさまはご自身の愛を明らかにしてくださったのです。それは私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この永遠のいのちとは、死んでから受けるいのちだけでなく、イエス・キリストによってもたらされる罪の赦しと永遠のいのちです。聖霊による神さまとの交わりです。神さまがいつも共におられます。この地上にあっても、神さまが与えてくださる平和と喜びに満たされることができるのです。何とすばらしいことでしょうか。

 

 このキリストが与えてくださる神さまとの交わりは、この世が与えるどんな喜びよりもはるかにすばらしい。そういっているのです。それは永続する喜びです。主イエスは言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)この水を飲む人は、また渇きます。しかしイエス様は、決して渇くことのない水を与えてくださるのです。それはこの世にあるものと比べることができません。イエスが与える愛、イエスが与える喜びにまさるものはありません。それはあまりにも大きく、あまりにも豊かで、あまりにもすばらしいので、この世のものと比べることができないのです。

 

 思い出してください。皆さんが救われた時のことを。思い出してみてください。一人主の御前にひれ伏して祈っているときに神の臨在があなたに臨んだ瞬間のことを。それはまさに天にも上るような思いだったはずです。思い出してみてください。兄弟姉妹と一緒に声を合わせて賛美しているときのことを。それは、ヘルモンから、シオンの山々に降りる露のようです。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからです。それは何にもまさる喜びです。キリストの愛は、ぶどう酒にまさって麗しいのです。

 

Ⅱ.注がれた香油のような名 (3)

 

次に3節をご覧ください。ここには「あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は、注がれた香油のよう。そのため、おとめたちはあなたを愛しています。」とあります。なぜ、おとめたちはそんなに彼を愛しているのでしょうか。それは花婿の愛が香油のように芳(かぐわ)しいからです。この香りはとのような香りでしょうか。散歩していると、ふと花の香りが漂ってきて思わず足をとどめることがあります。その香りに季節の変わり目を感じるのです。沈丁花に春の香りを、クチナシの花に梅雨のしっとりさを、金木犀の香りには秋の深まりを感じます。そんな風情がなんともいえません。ではキリストの香りには何を感じるのでしょうか。

 

パウロはⅡコリント2章15節で、「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」と言っています。この香りは神に献げられた芳しい香りです。ここに「あなたの名は、注がれた香油のよう」とあるのはそのことです。キリストの名が香油のように芳しいのは、キリストがご自身を神に献げられたからなのです。

 

ピリピ2章6~11節にこのようにあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

何ゆえに神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのでしょうか。それは、キリストは神の御姿であられる方なのに、神としてのあり方を捨てることはできないとは考えないで、自分を無にして仕える者の姿をとり、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたからです。キリストはご自分を神に完全にささげてくださったので、神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。十字架上のキリストの犠牲は、究極的な「神に捧げる香り」であって、私たちの罪の赦しのために、神に受け入れられるものです。

 

捧げ尽くすところにいのちの祝福があります。「あなたの名は注がれた香油のよう。」です。キリストはご自分のいのちを献げので、香油のように香り芳しいのです。そのため、おとめたちは彼を愛するのです。

 

Ⅲ.引き寄せてくださる方(4)

 

第三に、この方は私たちを引き寄せてくださいます。4節をご覧ください。「私を引き寄せてください。私たちはあなたの後から急いで参ります。王は私を奥の間に伴われました。私たちはあなたにあって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえます。あなたは心から愛されています。」

花嫁は花婿に「私を引き寄せてください」と言っています。私たちは、引き寄せてもらわなければ花婿のもとに行くことができません。引き寄せられて初めてその後について行くことができるのです。

 

私は、18歳の時、高校3年生の時に教会に行きイエス様を信じました。生きる目的がわからず地に足が着いていないような生活をしていた時、後に結婚することになりますが、一人の宣教師に誘われて教会に行きました。初めは冗談のつもりでしたが、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)のみことばを聞いて、キリストにある新しい人生をスタートすることができました。それからずっとイエス様を信じて歩んできましたが、ずっと自分がイエス様を信じたとばかり思っていました。でも実際はそうではなかったのです。イエス様が私を引き寄せてくださったのです。そうでなかったら信じることもできなかったでしょう。それは信じるということばかりでなく、その後のことを考えてもそうです。イエス様を信じてからも実にいろいろなことがありましたが、それでも信じ続けることができたのは、イエス様が私を引き寄せてくださったからなのです。どんなに神から離れても、どんなに神に背を向けていても、神の方から御手を伸ばしてくださいました。

 

この神の愛について使徒ヨハネはこう述べています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

ここに愛があります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

預言者エレミヤは、このことをこう述べています。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)すばらしいですね。主は永遠の愛をもって愛してくださいました。過去、現在、未来において、主があなたを愛さなかったことは一度もありません。生まれる前から、そして生まれてからもずっと愛し続けてくださいました。私たちが人生で最悪だと思うようなときでも、神さまはずっとあなたを愛し続けておられたのです。クリスチャンになってからだけでなくクリスチャンになる前も、ノンクリスチャンの時ですら愛しておられました。あなたは、この永遠の愛で愛されているのです。

 

ここには、主は遠くから私に現れたとあります。どういうことでしょうか。主が遠くにおられるということではありません。主は私たち人間が近づくことなど決してできないお方であるということです。この方は創造主であられます。聖なる方です。「聖なる」というのは「分離している」という意味があります。この世と完全に分離しているのです。光が闇と交わることがないように、私たちと神様との間には到底近づくことができない淵があるのです。それが、罪がもたらした悲劇です。もし罪深い人間がちょっとでも近づこうものなら、たちまちその場に倒れてしまうことになります。それが「遠くから」という意味です。預言者イザヤはその聖なる方に触れたとき、「ああ、私は滅んでしまう。」と叫びました。「万軍の主である王をこの目で見たのだから。」と(イザヤ6:5)。しかし、そんな罪深い私たちを、主は永遠の愛をもって愛してくださいました。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた、とエレミヤは言ったのです。

 

ヨハネ15章16節には、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあります。

私たちが主イエスを選んだのではありません。主が私たちを選び、任命してくださいました。これを「先行的恵み」と言います。私たちが求める前から、主が先行して私たちを選んでくださいました。私たちの側から神さまに近づいたのではありません。神の方から私たちに近づいてくださったのです。これが最初のクリスマスです。クリスマスとは、神が私たちに近づいてくださった日です。神が私たちを引き寄せてくださいました。だから、私たちは主の後からついて行くことができるのです。感謝ですね。

 

ところで、ここには「王は私を奥の間に伴われました」とありますね。どういうことでしょうか。ここから場面が変わります。これは花婿と花嫁の結婚式を表しています。花婿に引き寄せられて花嫁が宮殿に向かいそこで結婚式が行われますが、花嫁は父親から離れて花婿のもとへ近づいて行くのです。そこで二人は結ばれます。これは結婚式において二人が結ばれた瞬間です。結婚式のクライマックスは二人が神の前に誓約をするときですが、これはちょうど結婚式において誓約がなされた直後のことです。二人は正式に夫婦として認められます。そのしるしとしてキスが交わされたり指輪の交換がなされますが、ここでは王である花婿が花嫁を奥の間に伴われるのです。そこは二人だけのプライベートルームです。そこで二人は親密な交わりへと導かれるのです。つまり、花嫁が花婿を王として、また主として認めることによって二人は結ばれ、親密な関係に入っていくということです。どういうことかというと、もしあなたが花婿であられる主イエスと麗しい関係、親密な関係を持ちたいと願うなら、この方を王として、また主として認める必要があるということです。もしあなたがこの方をあなたの王として、また主として認め、この方にすべてをゆだねるなら、王である花婿はあなたを奥の間に伴われ、より深い交わりと喜びを楽しむことができるようになるのです。

 

私たちはそのように告白したはずです。ローマ10章9~10節にこうあります。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

もしあなたがあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたも救われます。奥の間へと伴われ、そこで花婿なるキリストとの深い交わりと喜びを楽しむことができるのです。それが礼拝です。礼拝とは何でしょうか。礼拝とは英語でWorshipと言いますが、Worship とは神さまを「最も価値あるものとみなす」という意味があります。主イエスを最も価値あるものとみなすなら、あなたの心に主への愛が満ち溢れ、主と麗しい関係を持つようになります。これがキリストの花嫁である教会の心です。教会の心とは神を愛する心であり、礼拝を喜びます。教会にとってこれが生命線あり、いのちです。このWorshipの関係、愛の関係がないなら、どんな働きをしても虚しいだけです。神さまの愛がわからないと神さまを愛するということがわかりません。その人にとって礼拝は愛をささげることではなく義務となります。愛の関係が義務となると、神さまとのすべての関係が義務的になってしまいます。みことばも、祈りも、献金も、生き方も、です。

 

先週、韓国から宣教師として来日して東京で伝道しておられる崔先生と電話でお話ししました。先生は1979年に来日すると、みことばと祈りに基づく教会形成に励んできました。みことばと祈りに基づいてという言葉はだれでも口にする言葉ですが、先生はこれを実践しておられます。毎週金曜日は午前10時から午後3時まで祈り会をもっておられるのです。午前10時から午後3時までの5時間です。それを毎週続けておられる。1時間祈ったら10分くらい休憩してまた祈ります。そのようにして5時間祈るのです。そこでは日曜日に聞いたみことばをどのように自分の生活の中に実践しているのかの分かち合いもします。みことばを聞くだけではなく、それを実行しなければなりません。その聞いたみことばをどのように実行したか、あるいは、どのようにしたら実行できるのかを分かち合って祈るのです。それを10年続けています。それまでは徹夜で祈っていましたが、今は日中持つようになりました。5時間と聞くと長いように感じますがあっという間です。先生はいつも祈っています。道を歩いても、聖霊様が「祈りなさい」というと、その場でひざまずいて祈ります。するとあとでどうして聖霊様がそのように導いてくださったのかを示してくださるのだそうです。

どうして先生はこんなに祈れるのでしょうか。それは主を愛しておられるからです。まだ日本に来る前に早天祈祷会で祈っていたとき、聖霊のバプテスマを受けました。これはペンテコステ派が言っているような異言の伴う聖霊のバプテスマのことではなく、圧倒的な聖霊の満たしでした。人生の価値観が全く変えられたのです。後でそれが聖霊のバプテスマだったということに気付かされたのです。聖霊のバプテスマ、あるいは、聖霊の満たしを受けると、人生の考え方、価値観が全く変えられます。主を心から愛するようになるのです。水のバプテスマだけでは変わりません。聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしが必要です。それはイギリスの伝道者ロイド・ジョーンズも言っていることです。聖霊の満たしを受けると、主を愛せずにはいられなくなります。主を礼拝せずにはいられなくなるのです。

先生は毎日、目で聖書を読み、耳で聞く聖書を聞き、口で祈りながら聖書を読みます。すごいですね。目と耳と口で同時に聖書を読むのです。日々主の臨在に溢れているのです。雨が降ってもハレルヤです。問題があっても、すべて主にゆだねて祈ります。病院で治療できないと宣告された病も癒されました。どんなに病気になっても長くて3日で癒されると言います。バッグをなくしたとき、「主よ、財布だけでも戻してください」と祈ったら、本当に財布だけ交番に届けられたそうです。本当に主との交わりをエンジョイしているんですね。これが礼拝です。これが花嫁の心です。花嫁の心とは主を愛する心であり、主を礼拝する心です。この愛の関係、Worshipの関係こそ、私たちにとっていのちなのです。

 

Ⅰコリント13章3節に、「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」とあります。愛は関係です。「愛しなさい」と言われても愛はわかりません。愛が分かる唯一の方法は、無条件に愛されていることを知ることです。それは完全に赦されていることを知る経験かもしれません。イエスさまの十字架の贖いが、聖霊さまによってはっきり心に刻まれるとき、真の悔い改めと同時に、その計ることのできない神の愛が私たちの内に注がれます。それが主への賛美と変えられるのです。これが花嫁の心です。多く赦された者は多く、いや、よけいに愛するようになるのです。

 

あなたはどうでしょうか。主はあなたを引き寄せてくださいました。主は永遠の愛をもってあなたを愛されました。その主の愛に感謝し、この方こそ私の主ですと告白し、この方にすべてをささげようではありませんか。そのときあなたも香油が注がれたような麗しい主の愛の中へと導かれます。親密で深い交わりを持つことができるのです。主は麗しいお方です。主は香油のように香り芳しいお方です。主はあなたを引き寄せてくださいます。私たちも、「イエスさま、あなたは主です。あなたは私の罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。あなたに私の人生のすべてをささげます」と祈りましょう。そして、主との麗しい愛の関係、礼拝の心を持たせていただこうではありませんか。

偉大な同労者たち ローマ人への手紙16章1~16節

聖書箇所:ローマ人への手紙16章1~16節

タイトル:「偉大な同労者たち」

 

きょうはローマ人への手紙16章から「偉大な同労者たち」というテーマでお話したいと思います。

 

 聖書を見ますと、名前ばかり書かれてある箇所がいくつかあります。たとえば、マタイの福音書1章はそうですね。誰が誰を産んで・・・という表現がずっと続きます。中にはせっかく聖書を読み始めたのに、これではつまらないと、読むのをあきらめてしまう人もいます。ルカの福音書3章もそうですね。名前の羅列です。特に読むのに骨が折れるのは歴代誌です。歴代誌第一は1章から9章にわたって名前ばかり出てきます。このような文章を読むのは牧師でさえ大変です。そのような記録はおまけの記録みたいで、何の意味もないと考えてしまうのも無理はありません。ですから、すぐに次の章に行ってしまいたくなるのです。しかし、このローマ人への手紙16章は、無意味な記録ではありません。ここにはパウロの働きを助けた偉大な同労者たちの記録が記されてあるからです。

 

 きょうは、この偉大な同労者たちの働きを三つのポイントで学んでいきたいと思います。第一に、多くの人を助けたフィベという女性について見たいと思います。第二に、忠実な同労者であったプリスキラとアクラです。第三に、そこに偉大な同労者たちの働きがあったということについて見ていきたいと思います。

 

 Ⅰ.多くの人を支援したフィベ(1-2)

 

  まず、1節と2節をご覧ください。「私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。」

 

 パウロは、この手紙の最後のところで、ローマの教会にいる多くの人たちにあいさつを送っています。ここに出てくる名前だけでも28人にも及びます。まだ一度も行ったことのないローマの教会に、これだけ多くの知人、友人がいたことには驚かされますが、それ以上に驚かされるのは、そうした一人一人に対するパウロの行き届いた心遣いです。

 

 その最初に紹介されているのがフィベという女性です。この人はケンクレアにある教会の奉仕者でした。ケンクレアとはコリント地方にあった町です。ここには「教会の奉仕者である」とあります。新改訳聖書第三版では、「執事」と訳しています。「ケンクレヤにある教会の執事で」。この「奉仕者」とか「執事」ということばは元々「しもべ」を意味する言葉であることから、今でいうところの教会の役員や執事のことを指しているのかどうかはわかりませんが、多くの人々の面倒をよく見ていたことは確かです。2節には、「彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです」とあります。そういう意味では、執事としての務めを立派に果たしていたと言えるでしょう。

 

 このフィベという女性はどんな人だったのでしょうか。2節を見ると、ここに「どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し」とあることから、彼女がコリントで書かれたこのローマ人への手紙をローマまで行ったのではないかと考えられています。私たちが今手にしているこのローマ人への手紙は、このフィベによって運ばれたものなのです。今でこそページ数で見ればほんの16章の薄い読み物ですが、当時はすべて巻物に記録されていたため、たぶん風呂敷包みで二つぐらいになったであろうと思います。私たちは誰かに手紙を託すとき、「いいか、しっかり頼むぞ!」と言って手渡すのではないかと思いますが、そのことばには相当の信頼が込められています。フィベという女性はパウロが尊い手紙をゆだねるほど、大いに信頼されていた女性だったのです。女性に対して人権意識が薄かったこの時代にこれだけの信頼を受けていたというのは、まさに革命的なことでした。

 

 もう一つこのフィベについて紹介されていることは、彼女が「多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人、支援者であったということです。このことばは、彼女が経済的な支援者であったことを示しています。使徒パウロは、初めテントメーカーをして自ら生活費を稼ぎながら宣教をしていましたが、次第に主の働きが忙しくなるにつれて、稼ぐことができなくなりました。そのようなときに、パウロの経済的な必要を満たしてくれたのがこのフィベだったのです。いやパウロだけではありません。彼女は自分に与えられた財で、主に仕えていた多くの働き人を助けていたのです。

 

 イエス様と弟子たちが伝道していたとき、どのくらいの生活費が必要だったでしょうか。そんなことを計算した経済学者がいますが、その人の試算によると、まず1ヶ月の食費は、1食300円として一度にかかる費用が3,900円、1ヶ月なら30万円を超えます。それが1年続くと360万円にもなるのです。イエス様は神の御子でしたが、この地上で御国の福音を伝えるために何も食べなくても大丈夫だったのかというとそうではなく、ちゃんと食べなければなりませんでした。ではその食費はどうしていたのでしょうか?どこから捻出していたのでしょうか?その辺に転がっていた石に向かって、「エイ、お金になれ!」と命じたわけではありません。ルカの福音書8章3節を見ると、その背後には多くのスポンサーがいたことがわかります。それは「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たち」です。多くの女たちが、イエス様と弟子たちの働きを支えていたのです。そのような人たちの献身があったからこそ、イエス様とその弟子たちの宣教の働きが可能だったのです。

 

 フィベも同じです。彼女はパウロをはじめ多くの働き人を経済的に支えました。そうした支えがあったからこそパウロは何も妨げられることなく、また、そうしたことで心配することなく伝道に専念することができたのです。彼女のこうした貢献は、パウロにとって大きいものがありました。今日も彼女のような献身的な人たちを通して、神様のみわざは大きく前進しているのです。

 

 Ⅱ.忠実な同労者プリスカとアキラ(3-5a)

 

  次に、3~5節までをご覧ください。ここには忠実な同労者プリスキラとアクラについて紹介されています。「キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。」

 

 このプリスカとアキラは夫婦です。プリスカが妻でアキラが夫です。最初はアキラとプリスカと紹介されていたのですが、次第にプリスカとアキラと紹介されるようになりました。いつの間にかプリスカの名前がアキラよりも前に挙げられるようになったのです。なぜそのようになったのかはわかりませんが、どうも夫のアキラより妻のプリスカの方がパウロが語る福音の理解において鋭いものがあったのか、あるいは、彼女の方が伝道において熱心だったからではないかと考えられています。しかし、たとえプリスカの方が福音の理解において優れていても、またその働きにおいて熱心であったとしても、これはあくまでも夫婦二人の働きによるのだということを聖書は示しているよう思います。パウロが彼らと初めて出会ったのは、第二次伝道旅行で彼がコリントを訪れた時でした。そのことは使徒の働き18章に記されてありますが、彼らもローマからそこにやって来ていて、そこでパウロと出会ったのです。彼らも同じテントメーカーをしていたので、パウロは彼らの家に住みそこで一緒に仕事をしたほどの仲です。

 

 このプリスカとアキラについて語られていることは、自分のいのちの危険を冒してまでパウロのいのちを守ってくれた人たちであるということです。彼らは、パウロの命のためには自分の首さえも差し出すほどだったと言っているのです。パウロがそう感じるほど、このプリスカとアキラは忠実な同労者でした。天国に行ってからパウロに「あなたが一番忘れがたい同労者は誰ですか?」と尋ねたら、きっと「プリスカとアキラです」と答えることでしょう。もう既に天国に行っていますから、おそらくそう言ったのではないかと思いますが・・・。それほど忠実に神に献身していた夫婦だったのです。このような夫婦の存在は、牧師にとってどれほど大きな慰めであり、励ましでしょうか。皆さんもそういう人になってください。自分を主張し、自分の思い通りにいかないとすぐに嫌になっては不満をぶちまけ足を引っ張るような人ではなく、「彼らは命の恩人」だと言わしめるほどの忠実な同労者になっていただきたいと思うのです。

 

 家内は1979年にアメリカのカリフォルニアにあるカルバリーバプテスト教会(アメリカンバプテスト)から遣わされて来日しました。この教会の牧師は当時、キースターという牧師でしたが、先生には5~6人の子供さんがおられましたが、最後のお子さんが1歳になられた頃、奥様に癌があることがわかり、しばらくして天国に召されました。すると、この教会は500~600人くらいの大きい教会でしたが、一緒に主に仕えていた教育牧師のDr.カールソンご夫妻が一緒に住みましょうと申し出られたのです。Dr.カールソン夫妻にも4~5人の子供さんがおられたので、全部で10人くらいの子供を育てながらキースター牧師を支えたのです。退職後、子供たちは全員巣立って行きましたが、3人はヨセミテ国立公園近くのオーカーストという町で一緒に暮らし、リンゴ栽培をしながら地域の牧師たちを支えました。

キースター牧師とDr.カールソンの奥様グレースさんは十年くらい前に召されましたが、Dr.カールソンは一昨年前に92歳で召されました。6年前に渡米した際、老人ホームに入所していたDr.カールソンを訪問した際に、一生懸命に自分が牧師をしていたとき日本に宣教師として行った姉妹がいました。と熱く語ってくれました。それは家内のことでしたがすっかり忘れていたようで、「そうですか、そんな人もいたんですね」と会話しました。いつまでも私たちのことを忘れないで覚えていて祈っていてくれたことに感謝しました。

帰国後、そのDr.カールソンも天に召されたことを聞きました。「ああ、今は3人で天国で仲良く暮らしているのかと思うと、なんとも微笑ましく感じます。もし天国にいるキースター先生に、「あなたの人生において一番忘れがたい同労者はだれですか」と質問したら、きっと同じような答えが返ってくることでしょう。「ケンとグレースです。彼らは人生をかけて私を支えてくれたのですから。」まさにプリスカとアクラは、パウロにとってそのような存在だったのです。

 

このプリスカとアキラ夫婦について、ここでもう一つ重要なことが紹介されています。それは5節にありますが、「また彼らの家の教会によろしく伝えてください」ということばです。彼らの家が教会だったということです。家の教会です。今日のように、教会が会堂に集まるようになったのはこの時から大分後になってからのことで、2世紀になってからのことです。当時は建物を持つ教会はほとんどありませんでした。ですから、このように信者の家が教会として用いられたのです。すべてが家の教会でした。開放された家庭でイエス・キリストの御名によって人々が集まれば、それが教会となったのです。プリスカとアキラ夫婦は行く先々で家庭を開放し、礼拝をささげる場所にしていたのです。

 

 これが教会なのか、家庭集会なのかは別として、ここで教えられることは、私たちの家庭が開放されるとき、そこに主のすばらしいみわざが起こるということです。クリスチャンが礼拝や交わりのために家庭を開放することは大きな祝福であり、そのこと自体が立派な神様の働きなのです。特に、どの教会もまだ開拓伝道に等しいような日本の教会においては、この家の教会の存在が極めて重要だと言えます。そこが福音の発信地、宣教の突破口となるということです。このようにクリスチャンの家庭が開放されそこで福音の種が蒔かれることによって、やがてそれが大きな実を結んでいくのです。それが教会になるかどうかはともかく、私たちもプリスカとアキラ夫妻のように、主の働きのために与えられた家庭が開放されるように祈っていきたいと思います。

 

 Ⅲ.偉大な同労者たち(5b-16)

 

  最後に、5節後半~16節までをご覧ください。ここにはフィベやプリスカとアキラ以外に、パウロに仕えた人たちの名前が列挙されています。パウロは胸に刻まれた、忘れられない同労者たちを思い浮かべながら、ローマ教会の聖徒たちに、彼らに「よろしく伝えてください」と言うのです。

 

 まず5節には、「私の愛するエパイネトによろしく」とあります。この人は「キリストに献げられたアジアの初穂である」とあります。アジアで最初にキリストを信じた人でした。このアジアとは、ローマ帝国のアジア州のことです。今のトルコです。パウロにとっては忘れることのできない人の一人だったのでしょう。

 

 次に出てくるのはマリアです。この人については「あなたがたのために非常に労苦した」とあります。フィベもそうでしたがこのマリアも女性です。私たちは、この安否を尋ねるあいさつの冒頭から、女性の名前が出てくることに驚きを感じます。フィベ、プリスカとアキラのプリスカ、このマリアと続き、その後の7節に「ユニア」もそうです。12節の「トリフォサ」もそうです。さらに12節後半に出てくる「ペルシス」、13節の「ルフォスの母」もそうです。また15節の「ネレウスとその姉妹」とあります。記録された人物中の約3分の1が女性です。これはパウロが生きていた当時の時代背景からすると、画期的なことです。ユダヤ人の男たちは朝ごとに「神様感謝します。私が女として生まれず、私が異邦人として生まれないようにしてくださった神様に栄光をささげます」と祈ったほどです。その当時、女性たちはとても卑しい人生を送っていました。当時のローマの哲学者セネカは「女も人なのか」という問題を巡って論争したと書いてあります。今の時代、こんなことを言ったら大変なことになります。それほど女性に対する人権意識が低い時代だったのです。そのような時代にパウロは、大胆にあいさつ文の最初から女性の名前を入れたのです。女性たちがパウロの働きを支えるということにはどれほどの労苦が伴ったことかと思いますが、そうした中で彼女たちはパウロの働きを支えていたのです。

 

 それから7節を見ると、ここに「私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく」とあります。彼らはパウロといっしょに投獄された経験を持っていて、使徒たちの間でもかなりよく知られていた人たちでした。福音のために苦楽を共にした思い出がよみがえってきたのでしょう。しかも彼らは「わたしよりも先にキリストにある者となっていた」という言い方をして、自分よりも先にクリスチャンになっていた人たちです。そうした信仰の先輩に対する敬意も表そうとしていたようです。

 

 また10節には「アペレ」という人のことが紹介していますが、彼は「キリストにあって認められている人」でした。この「認められている」という言葉は、第三版では「練達した」と訳されています。元々の意味は「テスト済みの」という意味です。彼はどこへ出しても大丈夫とだれからも太鼓判を押されるような立派なクリスチャンだったのです。

 

 ローマの教会にはこのような人たちがたくさんいたのです。そしてこれらの人たちの中には、おそらくパウロがまだ一度も会ったことのない人々も含まれていました。そのようにまだ一度も会ったことのない人でも、彼の中では主にある同労者であるという意識があったのです。つまり、彼らがパウロとどういう関係があったのかという見方ではなく、主にあって、キリストにあって、同労者であるという理解を持っていたのです。

 

 人はどんな人でも、自分に合う人と合わない人がいるものです。おそらくパウロにとってもそうであったに違いありません。けれども彼は、自分の思いを優先させるようなことはしませんでした。あくまでもキリストを通して見ていたのです。キリストにあって、主にあって見るとき、たとえ自分に合わないような人であってもその人もまた主にある同労者であり、主にあって選ばれた聖徒たちであると認識していたのです。だからこそ彼は、そういう人たちを用いて、そういう人たちといっしょに労することができたのです。

 

皆さん、ここに多くの聖徒たちの名前が列挙されているのは、そのことを私たちに教えるためだったのです。つまり神様の働きは決して一人でできるものではないということです。使徒パウロとてそうでした。皆さんはパウロに対してどのような印象を持っているでしょうか?とても強靱で、ただイエス様のためだけに生きた、ひたむきな人というイメージがあるかもしれません。数百人で取り掛かってもやり遂げられないようなことを、一人で成し遂げたスーパースターというイメージがあるかもしれません。アジアとヨーロッパを回りながら教会のない所に教会を建て、悪魔が支配する所に十字架の旗を立てていく、神様が願うとおりに用いられた英雄というイメージがあるかもしれません。

 

 しかし、このところを見ると、彼があれほど多くのことを成し遂げられたのは、こうした人たちの助けがあったからなのです。ここには少なくとも28人の名前が出てきます。ローマの教会に書き送った手紙の中だけで、記録する必要のあった人だけでそんなにいたのですから、彼の生涯全般にわたり彼と関わりのあった同労者たちの数はどれほど多くいたかわかりません。パウロの働きは彼一人の力によって成し遂げられたのではなく、その陰にいた多くの同労者たちの助けによって支えられていたのです。いわば彼らとともに働くチームミニストリーであったということです。このように教会が一つのチームとして機能するとき、一人でなし得る何倍もの働きができるようになるのです。

 

 使徒の働き6章4節を見ると、エルサレムの教会にやもめの配給のことで問題が起こったとき、使徒たちは兄弟たちの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い七人の人を選び、その人たちにこの問題に当たってもらうことにし、彼らは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励んだとあります。これは祈りとみことばだけすればいいということではなく、使徒たちは祈りとみことばに力を入れられるように残りの教会の仕事を他の人にゆだねてやってもらったということです。やらないということではなく、他の人を用いて、ほかの人といっしょに働いたのです。そのとき何倍もの力となって表れるからです。事実、教会がそのようにみんなで一緒に働いたことで、エルサレム教会は弟子の数が非常に増えていっただけでなく、何と多くのユダヤ教の祭司までもが信仰に入ったとあります。(同6:7)私たちの教会もそうですね、今年西山宣教師が牧師補佐として立っていただきましたが、教会でプリンターを導入し、週報等の印刷も行うようになりました。その他、受付の方、司会の方、奏楽の方、献金の方、音響の方、お掃除の方、その他のミニストリーにおいても、それぞれ重荷を負い合うことで、キリストのからだとしての教会が立て上げられています。祈りとみことばを土台として、こうした一つ一つの働きがチームとして機能するとき、そこに大きな主のみわざと栄光が現れるのです。これが信仰です。

 

 先週まで伝道者の書から学びましたが、そこにはこうありました。「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」(4:9)また、4章12節には、「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一番強い糸とはどんな糸なのでしょうか。一番強い糸とは太い糸ではなく、三つ撚りの糸なのです。牧師が信徒と一緒になって撚り糸のようになって伝道するとき、本当に強い力、大きな力になるのです。

 

 皆が皆、牧師にならなければならないということはありません。皆が皆、神学校に行って学ばなければならないということでもありません。しかし、皆が皆、隣人を助ける同労者にならなければなりません。信徒として立派に神様の働きをすることができます。神様はそのような献身者を求めておられるのです。いわゆるレイマンと呼ばれる人たちです。「レイマン」とは信徒伝道者のことです。こういう人たちが起こされることを願っておられるのです。牧師が忠実に主に仕えることは当然のことですが、こうした信徒のリーダーが同労者として神様の前に忠実に仕えるとき、教会は多くの祝福を受け、力強く前進していくのです。

 

 パウロはそうした一人一人の主にある同労者たちを覚えて「彼らによろしく」と言っています。この「よろしく」というのは単なるあいさつではありません。これは「彼らの労苦を認め、心から尊敬しなさい」ということです。主に仕えることには多くの労苦が伴いますが、そこにはこうした報いも約束されているのです。どうかそれぞれが神様から与えられた使命を果たし、主に用いられる偉大な同労者となりますように。そして皆さんがだれかの胸に、忘れられない恵みを与えてくれた人として刻まれますように。いや、誰よりも主のお心に、その名前が忘れられない刻まれる人になりますようにお祈りします。

民数記4章

民数記4章

 

 きょうは民数記4章から学びます。

 

 Ⅰ.ケハテ族の奉仕(1-20)

 

 まず1節から20節までをご覧ください。3節までをお読みします。「【主】はモーセとアロンに告げられた。「レビ人のうち、ケハテ族の頭数を、その氏族ごと、一族ごとに調べよ。それは会見の天幕で任務に当たり、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。」

 

ここには、レビ族たちの奉仕について書かれてあります。まずケハテ族です。レビ族の先祖はレビですが、レビ族には三つの種族がおりました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。彼らは祭司の家系をサポートする聖職者たちでした。そのレビ人のうち、最初がケハテ族です。まず3節には、仕事をすることができるのは30歳以上50歳までのすべての者とあります。イエス様も幼い頃から主に仕えておられましたが、メシヤとして公の生涯に入られたのはおおよそ30歳でした。またⅡサムエル記5章4節を見ると、ダビデがイスラエルの王になったのも30歳の時でした。それが神によって定められた時だったのです。そして引退の年は50歳でした。50歳と聞いて、「若いなあ、まだまだできるのに」と思われる方も少なくないのではないでしょうか。なぜ50歳なのかはわかりません。おそろく、聖なる神が臨在される幕屋の奉仕のためには体力、気力、経験が必要だったからでしょう。

 

このケハテ族に与えられた奉仕はどんなことだったでしょうか。4節から16節までをご覧ください。「ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものに関わることで、次のとおりである。宿営が出発するときは、アロンとその子らが入って行って、仕切りの垂れ幕を取り降ろし、あかしの箱をそれでおおい、その上にじゅごんの皮の覆いを掛け、またその上に真っ青の布を広げ、担ぎ棒を通す。また、臨在の机の上に青色の布を広げ、その上に皿、ひしゃく、水差し、注ぎのささげ物のための瓶を載せ、またその上に常供のパンを置く。これらのものの上に緋色の撚り糸の布を広げ、じゅごんの皮の覆いでこれをおおい、担ぎ棒を通す。青色の布を取って、燭台とともしび皿、芯切りばさみ、芯取り皿、また、燭台のために用いる、油のためのすべての器具をおおい、この燭台とそのすべての器具をじゅごんの皮の覆いの中に入れ、これを担ぎ台に載せる。また金の祭壇の上に青色の布を広げ、それをじゅごんの皮の覆いでおおい、担ぎ棒を通す。聖所で務めに用いる用具をみな取り、青色の布の中に入れ、じゅごんの皮の覆いでそれをおおい、これを担ぎ台に載せ、祭壇から灰を除き、紫色の布をその上に広げる。その上に、祭壇で用いるすべての用具、すなわち火皿、肉刺し、十能、鉢、これら祭壇のすべての用具を載せ、じゅごんの皮の覆いをその上に広げ、担ぎ棒を通す。宿営が移動する際には、アロンとその子らが聖所と聖所のすべての用具をおおい終わってから、その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。彼    

彼らの奉仕は、最も聖なるものに関わることでした。まず宿営が進んで行く時に、モーセとその子らが幕屋に入って行き、仕切りの幕を降ろし、それであかしの箱を覆いました。この垂れ幕にはケルビムが織り込まれていましたが、それは青、紫、白、緋色の糸で織られていました。この四つの色の糸こそキリストご自身を表していたものです。キリストの神としての栄光の輝きです。その上にじゅごんの皮の覆いをかけました。これもキリストを表していました。これは人として来られたキリストの姿です。じゅごんの皮はどす黒い色をしていて見た目にはあまりきれいではありませんが、人としてのキリストの姿もそうでした。見た目ではあまりきれいではありませんでした。しかし、その中身は神の栄光に満ちていました。そして、その上に真っ青の布を広げ、担ぎ棒を通しました。これは天の象徴です。神の国はみずぼらしく外側からは魅力を感じないようなものかもしれませんが、中身すばらしいのです。中に入ると天国を味わうことができます。神を賛美し、祈り、神のことばに触れるとき、さながら天国のすばらしさを味わうことができるのです。それが神の国です。そのように聖所の器具はじゅごんの皮と真っ青の布で覆われました。

 

しかし、祭壇の器具だけは別の色の布が用いられました。13節を見ると、祭壇は青色の布ではなく紫色の布を使いました。なぜでしょうか。それは十字架を表していたからです。紫色と聞けば、私たちはすぐにピンときすね。それはイエス様が着せられた紫色の着物です。ヨハネ19章2節には、十字架につけられる時、紫色の着物を着せられたとあります。イエス様は私たちの罪のための供え物となって十字架で死んでくださいました。そして、三日目によみがられました。イエスこそ死からよみがえられたまことの主、まことの王であられます。紫色の布はそれを表していたのです。

 

15節を見てください。「宿営が移動する際には、アロンとその子らが聖所と聖所のすべての用具をおおい終わってから、その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死ぬことのないようにするためである。これらは、会見の天幕でケハテ族が運ぶ物である。」

レビ人が奉仕できた年齢が30歳から50歳までであったもう一つの理由がここにあります。それは、集中力が必要であったからということです。彼らの奉仕は特に注意を要するものでした。なぜなら、聖所の用具に関することだったからです。なぜこれが注意を要したのかというと、扱い方を間違えると命の危険があったからです。彼らがそれに触れて死ぬことがないようにする必要がありました。

 

Ⅰ歴代誌13章9~10節には、ウザが神の箱に触れて死んだことが書かれてあります。ダビデが神の箱をキルヤテ・エアリムから自分の町に運ぼうとしていたとき、牛がそれをひっくりかえそうとしたので、ウザが手を伸ばして箱を押さえました。すると神が怒り発せられ、ウザはその場で死んでしまいました。それほど神は聖なる方であり、私たちが勝手にふれることなどできない方なのです。ですから、この奉仕に当たる時には特に注意し、決して自分の思いつきで行ってはならなかったのです。

 

このことから教えられることは、神の奉仕は決して自分の考えや自分の思いで行ってはならないということです。それは神の方法で行われなければなりません。キリストを中心に行なわなければならないのです。自分でよかれと思ってすることが、死を招いてしまうこともあります。神の召しもないのに、あたかも召されたかのようにふるまうと大変なことになってしまいます。神の奉仕は、みことばに従ってキリスト中心に行われなければなりません。

 

さらに主はモーセにこう告げられました。17~20節です。「【主】はモーセとアロンにこう告げられた。「あなたがたは、ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない。あなたがたは彼らに次のようにして、彼らが最も聖なるものに近づくときに、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが入って行き、彼らにそれぞれの奉仕と、運ぶ物を指定しなければならない。彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死ぬことのないようにするためである。」

 

主はモーセとアロンに、「ケハテ人諸氏族の部族をレビ人のうちから絶えさせてはならない」と言われました。それは、彼らが最も聖なるものに近づいて、あるいは一目でも聖なるものを見て死なないためです。

神は聖なる方であって、だれも見ることも、近づくこともできない方です。近づこうものなら、たちまち滅ぼされてしまいます。しかし、神はご自身の方から近づいてくださいました。神は御子イエスをこの世に送り、イエスの血によって大胆に神に近づくことができるようにしてくださいました。それが十字架の御業です。イエスが十字架でその御業を完成したとき、神殿の幕が真っ二つに裂けたのはそのことを示しています。ですから、私たちは今、このイエスの血によって大胆に神に近づくことができ、神を「アバ父」(お父さん)と呼ぶことができるのです。何という恵みでしょうか。それは本当に幸いなことです。しかし、神が聖なる方であることに変わりはありません。この聖なる方を自分の思い通りに動かそうとするなら、そこには主の御怒りが下ることを覚えておかなければなりません。

 

私たち人間がこの聖なる神に仕えることは不可能なことです。しかし、神はあわれみのうちに私たちを救ってくださり、ご自身の民とし、必要な知恵と力、そして助けを与えてくださいます。私たちはこの聖なる神の前にへりくだり、恐れと感謝と信仰をもって御前に進み出て、心からの奉仕をささげたいと思います。

 

Ⅱ.ゲルション族の奉仕(21-28)

 

次にゲルション族の奉仕について見ていきましょう。21節から28節までをご覧ください。「【主】はモーセにこう告げられた。「あなたはまた、ゲルション族の頭数を、その一族ごと、氏族ごとに調べ、三十歳以上五十歳までの者で会見の天幕で任務に当たり、奉仕をすることのできる者をすべて登録しなければならない。ゲルション人諸氏族のなすべき奉仕と運ぶ物は次のとおりである。幕屋の幕、会見の天幕とその覆い、その上に掛けるじゅごんの皮の覆い、会見の天幕の入り口の垂れ幕を運び、また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入り口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運び、これらに関係するすべての奉仕をしなければならない。ゲルション族のすべての奉仕、すなわち、彼らが運ぶすべての物と彼らのすべての仕事は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは彼らに、任務として、彼らが運ぶ物をすべて割り当てなければならない。以上がゲルション人諸氏族の会見の天幕における奉仕で、彼らの任務は祭司アロンの子イタマルの指揮下にある。」

 

ケハテ族同様、ゲルション族も会見の天幕で奉仕をできる者は、30歳以上50歳までの年齢制限がつけられています。その奉仕は、幕屋の幕に関する奉仕でした(25-26)。すなわち、幕屋の幕と会見の天幕とその覆い、その上に掛けるじゅごんの皮の覆い、会見の天幕の入口の垂れ幕を運び、また庭の掛け幕、幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の門の入口の垂れ幕、それらのひも、およびそれらに用いるすべての用具を運ぶことと、これらに関係するすべての奉仕です。これをアロンの子イタマルが監督しました。

 

ここでのポイントは、まずアロンとその子らによって聖所の器具が覆われ、次にケハテ族によって運ばれ、そしてその後で彼らが幕を取り降ろしたということです。ここには一つの順序、一つの流れがあります。また、この奉仕のために監督者が立てられました。アロンの子イタマルです。彼らは勝手に奉仕したのではなくアロンとその子らの命令により、イタマルという監督の指導のもとに行われたのです。

 

Ⅲ.メラリ族の奉仕(29-33)

 

次にメラリ族の奉仕についてみていきましょう。29節から33節までをご覧ください。「メラリ族について、あなたはその氏族ごと、一族ごとに、彼らを登録しなければならない。三十歳以上五十歳までの者で、務めに就き、会見の天幕の奉仕をすることができる者たちをすべて、登録しなければならない。会見の天幕での彼らのすべての奉仕の中で、彼らが任務として運ぶ物は次のとおりである。幕屋の板、その横木、その柱とその台座、庭の周りの柱と、その台座、杭、ひも、これらの備品と、その奉仕に使うすべての物である。あなたがたは、彼らが任務として運ぶ備品を、名を挙げて割り当てなければならない。これが会見の天幕でのすべての仕事に関するメラリ人諸氏族の奉仕で、これは祭司アロンの子イタマルの指揮下にある。」」

 

メラリ族もイタマルの監督の下で奉仕します。奉仕ができたのは30歳以上50歳までの者です。彼らの奉仕は、幕屋の板、横木、台座、釘などです。これはかなりの重労働でした。ですから44節を見るとわかりますが、彼らの人数が最も多かったのです。3,200人です。それだけ手がかかったということです。釘1本、ひも1本の細かい作業も求められました。

 

このようにして神の幕屋の奉仕が行われました。まずアロンとその子らがもっとも重要な仕切りの幕をとりおろし、それで神の箱をおおい、また他の聖なる用具にもおおいをかけ、それをケハテ族に託します。そして次にゲルション族が幕を取り外します。そして、幕が取り外されたところで、最後にメラリ族が板、横木、釘、などを取り外したのです。これらはすべて主の命令によって行われました。だれかが勝手に行えば、全体の作業に支障をきたしました。そこには互いのコンビネーションが求められます。

 

大田原教会の隣にコンビニがありますが、数年前に店舗の拡張工事が行われました。9月下旬に古い建物が取り壊されると、2か月足らずで新しい建物が完成しました。それをずっと見ていて感じたことは、全体が機能的に動いていたことでした。全体を統括している人がいて、その命令に従って各部門が迅速に動いていました。もしその命令に従わなかったら完成にはもっと時間がかかったでしょう。あるいは、作業がバラバラになっていたかもしれません。これだけ早く新装オープンすることができたのは、統括の下に全体がその命令に従って動いたからです。

 

これが神の奉仕です。この4章の至るところに「主の命により」とあるのに気づかれた方もおられるかと思いますが(37,41,45,49節)、モーセを通して示された主の命令によって、それぞれの監督者たちが立てられ、その監督者たちの割り当てにしたがって、それぞれが奉仕してこそ神の家が建て上げられていったのです。教会も同じです。教会の奉仕においても、このコンビネーションが求められます。神はおのおのに御霊の賜物を与えてくださいました。それは互いがいたわり合い、補い合い、助け合い、支え合って、キリストのからだを建て上げるためです。そこには分裂がなく、互いにいたわりあうように、一つ一つの奉仕が割り当てられているのです。その調和が保たれる時、キリストのからだは力強く建て上げられていきます。そうでないと、分裂してしまうことになってしまいます。エペソ4章1節から16節までのところには、このことについて言われています。

 

ですから、私たちはいつもこのことに敏感になり、自分に与えられている賜物が用いられ、その賜物がしっかりと組み合わされ、結び合わされることを求めていかなければなりません。その時キリストのからだである教会は成長して、愛のうちに建て上げられるのです。自分だけはという考えは許されません。

 

34~49節には、これらの主の命令に従い、ケハテ族、ゲルション族、メラリ族の幕屋で奉仕する者たちが調べられ、登録されたことが記されてあります。「そこでモーセとアロンと会衆の上に立つ族長たちは、ケハテ族をその氏族ごと、一族ごとに、三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めに就くことのできる者を、すべて登録した。その氏族ごとに登録された者は、二千七百五十人であった。これはケハテ人諸氏族で登録された者であって、会見の天幕で奉仕する者の全員であり、モーセを通して示された【主】の命によって、モーセとアロンが登録した者たちである。ゲルション族で、その氏族ごと、一族ごとに登録され、三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めに就くことのできる者の全員、その氏族ごと、一族ごとに登録された者は、二千六百三十人であった。これはゲルション人諸氏族で登録された者たちで、会見の天幕で奉仕する者の全員であり、【主】の命により、モーセとアロンが登録した者たちである。メラリ人諸氏族で、その氏族ごと、一族ごとに登録され、三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めに就くことのできる者の全員、その氏族ごとに登録された者は、三千二百人であった。これはメラリ人諸氏族で登録された者であり、モーセを通して示された【主】の命により、モーセとアロンが登録した者たちである。モーセとアロンとイスラエルの族長たちが、レビ人を、その氏族ごと、一族ごとに登録した登録者の全員、三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕で労働の奉仕と運搬の奉仕をする者の全員、その登録された者は、八千五百八十人であった。彼らは【主】の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。【主】がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」

 

その合計は8,580人でした。その人数は一見多いようにも見えますが、しかし、移動のたびに幕屋を整える奉仕は激務であったことと思います。だからこそ、これらの奉仕が主からのものであることを確信されるために、主によって登録される必要があったのです。この数は日本で主に仕えている牧師の数とほぼ同数です。牧師によって主に仕える期間に違いはありますが、それがどれだけであったとしても、主に召され、主に仕えることができることを感謝し、与えられた奉仕を全うさせていただきたいと願わされます。

 

最後に49節を読んで終わります。ここには、「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」イスラエルの民は主の命により、モーセを通して命じられたとおりにこれを行いました。

 

イスラエルの民が約束の地に向かって進んでいくために、神はイスラエルにこのような登録と割り当てを行いました。それは彼らが力強く前進していくためです。それは私たちも同じです。私たちもキリストの旗印を高く上げ、この世の旅路において敵に勝利するために、十字架のキリストを見上げなければなりません。そして、神によって神のために召された者として、神の命に従って、神に仕えなければなりません。私たちは主によって前進し、主の命によって動く群れなのです。それは自分から出たものではありません。キリストのからだである教会の一員として登録され、互いに励まし合い、助け合い、結び合って、主に仕えル群れです。私たちはそのために数えられているのです。私たちが自分に与えられている務めを全うすることで群れ全体が生かされ、強められ、共に約束の地に向かって前進していくことができるのです。

 

神を恐れ、神の命令を守れ 伝道者の書12:1~14

伝道者の書12章をお開きください。伝道者の書からの最後のメッセージとなります。伝道者は、最後にこの書の結論を述べます。それは13節にありますが、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである。」ということです。

伝道者はこれまで「生きる」をテーマに人生の意味や目的について語ってきました。そしてわかったことは、「すべては空」であるということです。「空の空。すべては空。」です。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の役になると言うのでしょうか。なりません。伝道者はそれを知ろうとしてあらゆる知識や知恵を増し加えようとしました。思う存分快楽も味わってみました。事業を拡張して自分のために邸宅を建て、いくつもの庭園を造り、毎晩のようにエンターテーメントショーを催して楽しみました。しかし、そうしたことで彼の心の空白を埋めることができたかというとそうでなく、できませんでした。その時には満たされているように感じても、次の瞬間にはまた空しさが襲ってきたのです。最終的にすべての人は同じ結末を迎えます。みな死んで行くのです。であれば、生きるということにいったい何の意味があるというのでしょうか。

 あります!それは、この天地万物を造られ、私たちを造られた神を信じ、神を喜び、神のために生きることです。すべては神の御手の中にあります。人はどんなに頑張ってもすべてのことを見極めることができません。明日何が起こるかもわからないのです。自分ではどうすることもできないことがあります。ですから、すべてを支配しておられる神を認め、神にゆだねて生きることこそが最善なのです。つまり、神を恐れ、神の命令を守ることです。これが人間にとってすべてなのです。今日はこの伝道者の書の結論から、私たちの人生の幸いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(1-8)

 まず、1節から8節をご覧ください。1節をお読みします。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

伝道者ソロモンは、11章9節で「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。」と言いました。これは「心の赴くままに生きなさい」ということではありません。その逆で、神様のみこころに歩めということです。神のみこころならば思い切ってチャレンジしたらいい、ということですね。ですから、9節の後半部分ではちゃんと釘が刺されていて、「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ」とあるのです。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。そのことをしっかりと覚えておきなさいというのです。

ですから、若いからと言って何をしても良いというわけではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴うことがあるのです。そういうことで人生を台無しにしてはいけません。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。それは、どのような生き方なのでしょうか。それがこの1節にあるように、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。あなたが若い時に、あなたの造り主を心に刻みなさい、ということです。

画家のゴーギャンは地上の楽園を目指して旅立ち、タヒチ島に辿り着きました。しかし、そこも彼にとって楽園とはなりませんでした。彼は自分の最後の作品に、自分の心の内を表すかのようなタイトルを付けました。そのタイトルとは、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」というものでした。

私たちがこの問いに対する答えを見出すためには、私たちにいのちを与え、私たちの人生にすばらしい計画を持っておられる創造主なる神を知らなければなりません。

ここでは、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」とあります。どういう意味でしょうか。旧約時代の平均寿命は40歳にも満ちませんでした。青春期の若者があとどれくらい生きられるか、時はごく限られていたのです。20歳になった若者の平均寿命が七十年、八十年という現代の日本とは全く意味が違います。終わりまでの時間はごくわずかでした。その終わりを前にして今のこの時を創造主から与えられたかけがえのない賜物として受け止めなさい、という意味が込められているのだと思います。そういう意味では、この聖句は必ずしも若者だけへの呼びかけられているメッセージではありません。むしろ高齢になってあとどれくらい生きられるのかを考える多くの人たちへのメッセージでもあるのです。

ここには、「わざわいの日が来ないうちに」とあります。「また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」とあります。創造主訳聖書では、これを「老人になって、希望が無いという日が来ないうちに」と訳しています。老人になると希望がないというわけではありませんが、若い時のように心で願うことを元気にやり遂げる力はありません。苦しみの日々が来ないうちに、「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに、創造主なる神を心に留めよ、というのです。

伝道者は2節からその年月とはどのようなものであるかを説明しています。2節には、「太陽と光、月と星が暗くなる前に、また雨の後に雨雲が戻って来る前に。」とあります。「太陽と光、月と星が暗くなる」とは、肉体的にも精神的にも言えることです。老年になると、目はかすみ、心は悲観的になりがちです。「また雨の後に雨雲が戻って来る前に」とありますが、この場合の「雨」とは、人生の試練のことを指していると思われます。青年期にも雨がありますが、老年期になるとそれが頻繁に現れるという意味です。

3節をご覧ください。「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」

「家を守る者は震え」とは、高齢になって手足が震えることのたとえです。また「力のある男たちは身をかがめ」とは、足腰が弱くなって身をかがめるようになることです。かつてまっすぐに伸びていた足腰が体重を支えることができなくなり、腰が曲がってしまいます。みんなそうです。「粉を引く女たちは少なくなって仕事をやめ」おもしろいですね。これはおそらくこれは歯が抜けてしまうことを表現しているのだと思います。粉が少なくなると女たちの仕事ができなくなるように、歯が少なくなると噛み合わせができなくなるということです。歯本来の仕事ができなくなります。おもしろいことに、この「粉をひく女」は英語では「The grinders」と言いますが、臼歯(きゅうば)も同じ「grinders」という言葉を使うそうです。「grinders」が少なくなると仕事にならないのです。「窓から眺めている女たちの目は暗くなる」とは、高齢によって視力が低下することを表現しています。

そればかりではありません。4節をご覧ください。高齢になるとどうなりますか?「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみな、うなだれる。」

「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり」とは、耳が遠くなるということです。周りの人の声が聞こえなくなります。騒々しい音も気にならなくなるのです。「鳥の声に起き上がり」とは、朝の目覚めが早くなるということです。鳥の鳴き声でも起きてしまうからです。私の寝室の隣は小さなベランダになっていますが、しばらく前に2羽の鳩がひっきりなしにやって来るようになりました。そして朝から唸っているのです。それで私は目が覚めてしまいます。歳をとったということでしょうか?「歌を歌う娘たちはみな、うなだれる」とは、歌を歌っても低くなったり、弱くなったりするということです。つまり、高齢になると声がかすれ、高い音程が出せなくなり、歌う能力が低下するのです。

さらに5節にはこうあります。「人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」

「高いところを恐れる」とは、高所恐怖症のことです。若い時は何でもなかったのに、年を取ると、はしごを上ったり、高い所に立ったりするのが怖くなります。「道でおびえる」とは、坂道を歩くのが怖くなり、道を歩くことに困難が生じるということです。創造主訳聖書ではそのことをわかりやすく訳しています。「息切れがして、坂道を上るのが大義になり、足の自由がきかず、立ち往生し」と訳しています。

「アーモンドの花は咲き」とは、頭が白くなることです。アーモンドは白い花を咲かせるのですが、それが満開に咲くように、頭が白くなります。私の頭もアーモンドの花のようになりました。

「バッタは足取り重く歩き」とは、老人の歩き方を表現しています。確かに老人になると若い時のようにシャキシャキと歩くことは困難になります。バッタが歩いているのを見るとわかりますが、バッタが歩く時はよろよろ歩きますが、そのように身をかがめてよろよろ歩くようになるということです。

「風鳥木は花を開く」これも難解です。「風鳥木」とはスパイスに用いる「ケッパー」の木のことです。へブル語で「ハパックス」と言います。これが「欲望する」という意味の「アーバー」に由来していることから、これは食欲とか、性欲のことを意味していると考えられています。また、「開く」という語ですが、へブル語で「ターフェール」という語です。これは「しぼむ」を意味する「パラル」という語に由来していることから「開く」ではなく「しぼむ」ではないかと考えられているのです。ですから風鳥木は花を開くとは、食欲や性欲が減退することを意味しているのではないかと考えられます。口語訳ではそのように訳しています。口語訳では、「その欲望は衰え」となっています。また、創造主訳聖書でも「性欲もなくなり」と訳しています。さらに、英語の訳はすべてそのように訳しています。

「And desire no longer is stirred.」(NIV)

「And desire fails.」(NKJV)

「and all desire will be gone.」(TEV)

これが、ここで言わんとしていることでしょう。人は老年になると、食欲も性欲も減退し、何の楽しみも見出せなくなります。

そして、「人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」これは、死を迎えるということです。「泣く者たちが通りを歩き回る」とは、葬儀に参列した人たちが死を悼み悲しみ、葬送の列に加わっている様子を語っています。

6節をご覧ください。「こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。」(6)こうして、ついには死がやって来るということです。歳月が経つと人の肉体は老い、衰え、ついには死に至ります。この地上で、死を免れることができる人はひとりもいません。死はすべての人に平等に訪れるのです。

では、人は死んだらどうなるのでしょうか。7節には、「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。人は死んだら、肉体は土から造られたので土に帰りますが、霊はこれを与えてくださった神のもとに帰ります。もちろん、神が提供された救いを信じた人とそうでない人とでは行き先が異なります。信じた人は神がおられる天国へ、それを拒否した人は神がいない所、ハデスに行くことになります。

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。「わざわいの日が来ないうちに」。わざわいの日が来ないうちに、神に会う備えをしなければなりません。人は死んだらどうなるのでしょうか。へブル9章27節には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。人は死んだら神の前に立つようになります。神の御前に立って人生の精算する時がやって来るのです。死んでもまた救われるチャンスがあるというのは間違っています。わざわいの日が来ないうちに、あなたの創造者を覚え、あなたの救い主を信じなければなりません。その日に備えて生きることこそ真に知恵のある生き方なのです。そのような人は、この世の富や栄誉に執着することをしません。そして、自分にいのちを与えてくださったいのちの源であられる神を認め、神を恐れて生きるのです。

あなたはどうですか。神ではないほかのものに全精力を注いではいないでしょうか。もうそうであるなら、あなたの人生においてどんな調整が必要でしょうか。やがて老年期を迎え、肉体は衰えて行きます。ついには銀のひもが切れ、金の器は打ち砕かれることになります。しかし、いつまでも変わらないものがあります。それはあなたを創り、あなたにいのちを与えてくださった創造主なる神です。これこそ、私たちが真に追い求めていくべきものなのです。ですからあなたは、あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えなければなりません。

Ⅱ.真理のことば(9-12)

次に9節から12節までをご覧ください。9節と10節をお読みします。「伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。」

伝道者は知恵ある者でした。そのうえ、その知恵を民に教えました。彼は思索し、探求して、多くの箴言をまとめました。箴言とは人生論のことです。また、真の祝福と喜びを与え、人生を有意義にするための真理のことばです。それは、箴言としてまとめられた聖書のことばのことです。それは神から出たものであり、伝道者の書もまた聖霊によって記された神のことばです。

11節と12節です。「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。」(11-12)

ここには「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの」とあります。「突き棒」とは士師記3章31節には「牛を追う棒」とありますが、牛が後ろに下がると当たって痛くなるように付けてある棒のことです。それで土を耕すようにするわけです。そのように、鈍い者を教え、正しい道に導くという意味です。「よく打ち付けられた釘のよう」とは、よく打ち付けられた釘はしっかりしていることから、信頼に値するという意味です。これらは一人の牧者によって与えられました。この牧者とは誰でしょうか。ここでは伝道者ソロモンのことですが、ソロモンを通して語られた神の知恵、イエス・キリストのことです。私たちにはこのような真理のみことばが与えられているのです。ですから、私たちはこの真理のことばに耳を傾け、従わなければなりません。

伝道者は、さらにもう一つのことを注意しています。それは、彼は多くの書物を書くこともできましたが、どんなに多くの本を書いてもきりがないということです。むしろ、そうしたものに没頭すると、かえって疲れ果ててしまうことになります。学びにはきりがありません。あれもこれも学ぼうとするあまり、大切なものを見失ってしまうことになります。本当に大切なのは神によって与えられた聖書です。聖書以外のものをいくら学んでも、結局のところ疲れ果ててしまうことになります。これで十分なのです。

箴言30章5節には、「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。」とあります。神のことばには力があります。私たちは日々様々なプレッシャーやストレスに押しつぶされそうになることがありますが、そうしたプレッシャーに押しつぶされることなく、耐える力を与えてくれるのは、これが神によって与えられた神のことばだからです。この神のことばが私たちを生かすのです。

以前、ある教会の礼拝で説教をした時、礼拝後に一人の女性が私の所に来て「昨日、聖書を買いました。表紙の裏に私に相応しいことばを何か書いてください」と言いました。その人は教会に初めていらしたという方だったので、どんなことばがいいかなぁと考えながらその方のお顔を見ていると、ある一つのみことばが思い浮かびました。それは、イザヤ書43章4節のみことばです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」それで、そのみことばを書いて渡すと、その方はしばらくそれをじっと眺めていましたが、それを胸に抱くようにして帰って行かれました。それから数カ月後に、その方からメールが来ました。

「実はあの日、私は先生が書いてくださったことばがどんなことばであろうと神様からのことばとして受け取る覚悟でした。実は私はあの時、売春の仕事をしていました。こんな汚れた自分にふさわしいことばとは、どんなことばだろうと思って待っていました。すると先生は驚くべきことばを書いて下さいました。こんな私が「高価で尊い」なんて信じられませんでした。「神に愛されている」なんてとても思えませんでした。しかしあのことばで私の心は救われました。最近、私はイエス・キリストを信じました。仕事も会社の事務をしています。あの聖書のことばが私の人生を変えてくれました。」

聖書のことばは、私たちに生きる力を与えてくれます。私たちは、この神のことばに生きるものでありたいと思います。私たちの周りにはたくさんの書物がありますが、でも、学びに没頭すると、からだは疲れます。しかし、神のことばは私たちを生かしてくれます。私たちが信頼するのは、一人の牧者、神の子イエス・キリストによってもたらされた神のことばなのです。

Ⅲ.神を恐れ、神の命令を守れ(13-14)

最後に、13節と14節を読んで終わりたいと思います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

結局のところ、私たちの人生にとって最も重要なことは何なのでしょうか。それは、「神を恐れよ。神の命令を守れ。」ということです。なぜなら、神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからです。最終的なさばき主である神を恐れ、神の命令を守ることこそ、すべての人にとって知恵ある人生であると言えるのです。

ルカの福音書12章16~21節に、イエス様が話された愚かな金持ちのたとえ話があります。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

この金持ちはどういう点で愚かだったのでしょうか。それは「ピント外れの価値観」を持っていた点です。彼は大豊作の作物を、新しい倉を建ててその中に十分に蓄えました。そして自分のたましいにこう言いました。

「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」

これは単なる独り言や心の中のつぶやきではありません。これは彼の人生観そのものでした。物がたくさん貯まったことで、たましいの安全までも保障されたと思ったのです。彼は「物でたましいの安全を買うことはできない」という大原則を忘れていました。ですから神から「愚か者」と叱責されたのです。「愚か者」とは「感覚を失った者」という意味です。彼は人生における正しい感覚を失ってしまっていたのです。

そんな彼に神は言われました。「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と。その「今夜」とは、まさに宴会の真最中のことです。「もう大丈夫、安心だ、楽しもう」と言っていたその時です。「今夜」つまり、人生の終わりは誰にでもやって来ます。しかし、それがいつ来るかは誰にも分かりません。

しかし、神の前に富む者は、この人生の終わりにしっかりと備えています。「肉体の死」ということに出会っても、失わないものをちゃんと持っているのです。それはまことのいのち、永遠のいのちです。死ぬ時に手放さなければならないものをいくらっていても、それは本当の豊かさではありません。死を越えてもなおその手に残るもの、それは永遠の神との関係です。イエス・キリストを救い主として信じる者に与えられる永遠のいのちです。

同じルカの福音書16章19~31節には、「金持ちとラザロ」の話が出て来ますが、「ラザロ」はその永遠のいのちを得た人です。金持ちは毎日贅沢に暮らし、神様を求めようともせず、自分中心の生活をしていました。一方ラザロは惨めな生活で、神様の助けなしには生きられない存在でした。それは「ラザロ」という名前からもわかります。「ラザロ」という名前は「神は助け」という意味があります。彼は神の助けなしには生きていけないと告白していたのです。彼らの死後、金持ちはハデスに、ラザロはアブラハムの懐、つまりパラダイスにいました。私たちの人生は、死んで終わりではありません。生きている間の行いに応じて、神様の裁きがあり、天国と地獄に振り分けられるのです。人は、誰でも心に罪を持っています。神様

信じない自己中心的な人生を送った人は天国には行けません。しかし、イエス様は今から2000年前に十字架にかかられ、私たちを罪の束縛から解放して下さいました。罪を悔い改め、十字架の贖いと復活を信じるなら、その罪は赦され、罪のない者として永遠のいのちを受けることができます。たとえ死んでも天国に行くことが出来るのです。


 このような人こそ、神を恐れ、神の命令に歩む人です。創造者である神を信じ、神と共に歩む時、私たちの霊は満たされます。もはや、むなしい生き方ではなく、天に希望を置き、意味のある生き方が始まるのです。重要なのはスピードよりも方向です。どの方向に向かって生きているのかということです。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいが来ないうちに。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

あなたはどうですか。あなたの人生が後悔や嘆きではなく感謝と賛美に満たされたものとなるように、ここで伝道者ソロモンが見いだした知恵を心に刻んでいただきたいと思います。すべてを支配しておられる神を認め、神を恐れ、この神とともに意味のある人生を送らせていただこうではありませんか。

平安があなたがたにあるように ヨハネの福音書20章19~21節

2021年4月4日(日)イースター礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネの福音書20章19~21節

タイトル:「平安があなたがたにあるように」

 

 イースターおめでとうございます。きょうはイースターをお祝いしての礼拝ですが、私たちがこうしてイースターをお祝いするのは、イエス・キリストの復活の出来事が私たちにとって重要な出来事だからです。私たちは毎年クリスマスを盛大にお祝いますが、このイースターはクリスマス以上に重要な出来事だと言えるかもしれません。確かにクリスマスは神様が私たちを愛し、私たちを罪から救うためにひとり子イエスをこの地上に送って下さった日ですからとても重要な日ですが、イースターは、その御子が十字架でなされ罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださったということが真実であることを保証するものですから、そういう意味ではもっと重要な出来事だと言えます。イエス様が死からよみがえらなかったなら、私たちはどうやって罪から救われたと確信することができるでしょうか。どうやって天国に行くことができると確信することができるでしょうか。というのは、ローマ人への手紙6章23節には「罪から来る報酬は死です」とあるからです。もしキリストが死んで復活しなかったら、キリストにも罪があったということになるのです。そうであれば、私たちが救われたというのは単なる思い込みにすぎず、盲信でしかないということになります。しかし、イエス様はよみがえられました。イエス様が復活されたことで、聖書が言っているとおり、この方を信じる者は永遠のいのちを持ち、天の御国で永遠に神とともに生きるようになるという希望を持つことができるのです。もう死を恐れる必要はありません。確かに死は怖いですが、死は永遠の入り口にすぎず、イエス様を信じる人は、やがて栄光の御国に入るのです。それはイエス様が復活してくださったからです。イエス様が復活されたので、私たちは確信をもって死の不安と恐怖から解放され、永遠のいのちの希望に生きることができるのです。きょうは、このすばらしいキリストの復活の出来事から、キリストにあるいのちと希望をいただきたいと思います。

 

 Ⅰ.弟子たちの真中に立たれたイエス(19-20)

 

まず、19~20節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

 

「その日」とは、マグダラのマリヤが復活の主イエスに会った日のことです。それは週の初めの日、すなわち、イエス様が十字架につけられてから三日目の日曜日のことでした。マグダラのマリヤは、その日、朝早くまだ暗いうちに、イエスのお体に香油を塗ろうと墓に行くと、そこに置かれていた石が取り除けられているのを見ました。だれかが墓から主を取って行ったのだと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとヨハネに告げます。それを聞いたペテロとヨハネは急いで墓に向かいましたが、墓に着いてみると、そこには亜麻布は置かれてありましたが、主イエスのお体はありませんでした。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを理解していなかったので、まさか主がよみがえられたとは思いもしませんでした。

 

一方、マリヤも何が起こったかがわからず、墓の外でたたずんでいましたが、そんな彼女に主が現れてくださり、「マリヤ」と声をかけられました。その声を聴いたときマリヤはすぐにそれがイエス様だということがわかり、イエス様にすがりつこうとしましたが、イエス様は「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのもとに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(17)と言われました。それで彼女は行って弟子たちにそのことを告げたのです。「その日」のことです。

 

その日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていました。弟子たちは、イエスに従っていた自分たちも捕らえられ、裁判にかけられるのではないかと恐れていたのです。復活したキリストが、自分たちのところに来て姿を見せてくださるまで、弟子たちは完全に恐れに打ちのめされていました。彼らはいつもイエス様と一緒にしてそのすばらしい御業を見たり、聞いたりしていましたが、いざイエス様が十字架で処刑されると、どうしたらいいのか、何を信じたらいいのかわからなくなってしまったのです。

 

今は亡き毒舌落語家に、立川談志(たてかわだんし)という方がおられました。彼はとにかく、自分の目で見たもの以外は信用しないという人でした。著書の中で、テレビはやらせ、新聞はウソと言い放っています。「ものごとってなぁ、自分が見たものだけが本物だ。あとは全部うわさ話よ。」とよく言っていました。しかし、どうして人の話を、頭から信じないようになったのかというと、それは日本の敗戦にありました。

子供のころ談志さんは、日本軍は連戦連勝を続けているという、この大本営発表を信じ切っていましたが、それなのに、日本の本土は簡単に空襲を受けたのです。まだ小学生だった彼は、東京大空襲を経験し、その目で、その耳で、地獄を経験するのです。母と兄の3人で避難する途中、川の中から聞こえてくる「助けてくれ」という声と、土手からの「助けてやれない」という声が交差する中を必死で走り回ったといいます。信じ切っていた発表が、真っ赤な嘘だとわかったとき、それから彼は疑い深い人間になったというのです。

 

主イエスこそ人となった神であり、全能の救い主だと信じていた弟子たちは、このイエスが死刑にされ、墓にまで埋葬されてしまったとき、もうすべてが終わった、いったい自分たちが信じてきたことは何だったのかと、頭が混乱していたに違いありません。彼らは意気消沈し、また同時に、次に当局は自分たちを捕らえに来るかもしれない、と恐れていたのです。

 

すると、そこにイエスが来られました。イエスが来て彼らの真ん中に立たれると何と言われましたか?「平安があなたがたにあるように。」と言われました。閉まっていた戸を通り抜けることができたのは、イエス様のからだが地上での物理的制約を受けない霊のからだであったことを示しています。復活されたイエス様のお体は物質的な障壁を越えられるものであったということです。しかしそれは単なる霊ではなくちゃんとした肉体をもっていました。ルカの福音書24章には、復活したイエス様を見て幽霊だと思った弟子たちに対して、イエス様が「なぜ取り乱しているのですか。わたしにさわって、よく見なさい。」と言われました(24:38-39)。「幽霊なら肉や骨はありません。でも私にはあります。」そう言って、彼らに手と脇腹を見せられたのです。手と脇腹というのは、イエス様が十字架につけられた時の釘の跡と槍の跡のことです。ですから、復活されたイエスは確かに肉や骨がありましたが、それはこの肉体とは違い、物理的な障壁を越えられるものだったのです。

 

そして、こう言われました。「平安があなたがたにあるように。」イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。この言葉は、ギリシャ語で「シャローム」という言葉です。これは今もユダヤ人があいさつで使っている言葉ですが、「平安があなたがたにあるように」とか「ごきげんよう」といったニュアンスの言葉です。しかし、ここでイエス様が彼らに「シャローム」と言われたのは単なるあいさつではなく、それ以上の意味がありました。それは不信仰に陥り不安と恐れに脅えていた彼らの信仰を回復し、彼らにメシヤの到来を告げ知らせることによって、喜びと平安をもたらすためだったのです。

 

このとき彼らは不信仰に陥っていました。第一に、彼らはイエス様からガリラヤに行くようにと言われていたのにもかかわらず、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていました。第二に、彼らはイエス様があらかじめ語っておられた復活の預言を信じていませんでした。第三に、イエス様が復活されても、自分たちは幽霊を見ているのではないかと思っていました。

このように彼らはイエス様が言われたことを信じることができなかったため、恐れと不安に脅えていたのです。

 

しかし、イエス様が彼らの真中に立たれ「平安があなたがたにあるように」と言われ、その手と脇腹を示されたとき、彼らは主を見て喜びました。あの恐れと不安が、喜びに変えられたのです。復活した主イエスが現れ「平安があなたがたにあるように」とみことばをかけてくださることによって、その手と脇腹を示されることによって、彼らに再び信仰が与えられたのです。イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえると言われていたことばを思い出したのです。弟子たちはそれを見て喜んだのです。

 

皆さん、信仰の対極にあるのは何でしょうか?信仰の対極にあるのは恐れとか不安です。恐れや不安は霊の眼を閉ざしイエス・キリストを見えなくさせます。反対に信仰は、喜びと希望を与えてくれます。不安と恐れのどん底にいた弟子たちが喜ぶことができたのは、復活したイエス様が現れて「平安があなたがたにあるように」と御声をかけてくださったからです。それはイエス様の恵み以外の何ものでもありません。イエス様は恐れと不安で何も見えなくなっていた彼らに「シャローム」と言われ、彼らの信仰を回復させてくださいました。同じように主は今も、この時の弟子たちのように不安と恐れに苛まれている私たちに現われてくださり、同じように御声をかけておられるのです。「シャローム」「平安があなたがたにあるように。」あなたが不安や悲しみでどんなに落ち込んでいても、主があなたの前に立っておられることを認め、そのみことばを聞くならば、あなたも弟子たちのようにそれを見て喜ぶことができます。いや、あなたが落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなるのです。

 

生涯現役の医師として活躍された日野原重明さんが、2017年に天国に召されました。たくさんの本を残されましたが、その一冊に学生時代の思い出について書かれたものがあります。

京都大学の医学部を受験した日野原さんは、合格発表を見に行くため、家を出ようとしていました。するとそこに友人から電話がかかってくるのです。彼は日野原さんの受験番号を知っていました。そして自分の合格を確認するだけではなく、ついでに日野原さんの合否を見に行ってみたというのです。その結果「番号はなかったよ」というのです。内心自信があった日野原さんは、本当にがっかりしました。誰も近づくことができない程に落ち込んだのですが、やがて大学から連絡が入りました。「合格しているのにどうして手続きに来ないのですか?」
 どういうことか。実は当時の医学部受験には、二つのコースがあったのです。友人はそれを知らずに、もともと日野原さんが受けていない方のコースの合格掲示板を見て、早合点したのです。もう一つの方にはちゃんと受験番号がありました。それが分かったとき、喜びが爆発したそうです。がっかりした気持ちが深かった分、それをくつがえす事実に向き合ったとき、天にも昇るような気持ちだったと言います。

 

それは私たちも同じです。私たちも辛くて、悲しくて、不安で、落ち込むことがあります。でも落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなります。信仰によって復活の主イエスを見るとき、私たちの悲しみは喜びに変えられるからです。あなたはどうでしょうか。あなたの心は不安や悲しみでいっぱいになっていませんか。もしそうであるならば、復活されてあなたの前に立ち、「平安があるように」と言われる主の御声を聞いてください。死から復活して今も生きておられる主を信じ、主のみことばを聞くとき、あなたも喜びに満たされるようになるのです。

 

Ⅱ.わたしもあなたがたを遣わします(21-23)

 

次に、21~23節をご覧ください。「イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 

この喜びと平安によって眠っていた弟子たちの使命感が、はっきりと呼び覚まされます。それは、罪の赦しの宣言のために遣わされるということです。イエスは彼らにこう言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

イエス様はここで再び彼らに「平安があなたがたにあるように。」と言われました。どうしてでしょうか。このときの「平安があなたがたにあるように」ということばは、19節で言われたことと意味が違います。19節で言われた時は弟子たちの信仰を回復させ、恐れと不安の中にあった彼らに喜びをもたらすためでしたが、ここではそうではありません。別の目的で語られているのです。それは、彼らを福音宣教の使命に遣わすためでした。父なる神は、ご自身の権威をもって御子イエスを派遣されましたが、それと同じように、今度は主イエスの権威によって彼らが遣わされるのです。そのために必要だったことは何でしょうか。それは神との平安です。罪責感を負ったままでは、主の使命を果たすことはできません。ですからここで主は再び「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

 

そればかりではありません。イエス様はそのように言われると、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

これはペンテコステに起こった聖霊降臨のことではありません。この「息を吹きかける」という言葉は、創世記2章7節にもありますが、そこには、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とあります。ここには、土地のちりで形造られた人間に神が息を吹きかけることで、人は生きるものとなったとあります。この「息」という言葉と「霊」という言葉はヘブル語では同じ言葉(ヘルアッハ)が使われています。つまりイエス様が弟子たちに息を吹きかけたのは、そのことによって彼らが生きるものとなるためだったのです。そのことで弟子たちは、新しく生まれ変わったのです。ですからここで「聖霊を受けなさい」と言われているのです。聖霊を受けるとは、その人の罪が赦され、神のいのちが与えられるということです。つまり、この時キリストは彼らの罪を赦し、ご自身の聖なる霊を彼らに与えられたのです。これはイエスを信じるすべての人にされることです。神はイエスを信じるすべての人の罪を赦し、ご自分の聖なる御霊を与えてくださいます。それが「救われる」ということです。

 

そのことによって、私たちは神から与えられた使命を全うすることができます。その使命とは何でしょうか。罪の赦しの宣言です。23節にこうあります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

もちろんこれは私たちがだれかの罪を赦したり、残したりする権威があるということではありません。罪を赦すことができるのは神だけです。私たちにはそのような権威はありません。しかし私たちにはその神が決定されたことを宣言する役割が与えられているのです。その権威が与えられているということです。聖霊を受け、主イエスが父なる神から権威が与えられたように、そのイエスの権威によって遣わされる者にも同じ権威、罪の赦す権威が与えられているのです。すごいですね。信じられないことですが、聖霊によって新しく生まれ変わった私たちには、そのような権威が与えられているのです。私たちもこの時の弟子たちのように不信仰な者で、罪深い者にすぎませんが、復活のイエス様を信じることでイエス様に息を吹きかけられ、聖霊によって新しく生まれ変わった者であることを覚え、この神の権威と聖霊の導きによって、きょうも周りの人々に神の愛と罪の赦しの福音を伝えていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.キリストの復活がもたらしたもの

 

最後に、このキリストの復活がもたらしたものを考えてみたいと思います。このあと弟子たちはこの罪の赦しの宣言を伝えて行くことになります。その様子は使徒の働きを見るとわかりますが、彼らはいのちがけで伝えていきました。それで初代教会のクリスチャンたちは破竹の勢いで広がっていき、ついにはヨーロッパ大陸全土がキリストの福音に圧倒されていきます。いったいその原動力は何だったのでしょうか。それは、キリストの復活がもたらしたものです。キリストは私たちの罪を背負い十字架で死んで下さった後に、三日目に復活してくださいました。この復活によって死を滅ぼされたという歴史的事実が、彼らにそのような力を与えたのです。それが原動力となったのです。つまり、この復活の事実こそが、キリストが死から復活したということが迷信ではなく、実際にあった事実であったということを物語っているのです。

 

私は最近、「言霊信仰」に関する本を読みました。日本人は昔から起こって欲しくないことを言葉にして出すと、本当にそれが実現すると信じているところがあります。ですから、結婚式では「切れる」とか「別れる」とか「割れる」といったことばは禁句です。受験生がいる家では「すべる」とか「落ちる」がタブーですね。逆に、むかしから「勝つ」と「カツ」をかけて、勝負や試験の前に「豚カツ」を食べる験担ぎになっています。そんなのバカバカしいと思っている人でも、実は知らず知らずの間に使っているのです。たとえば、会合や宴会などを終えるとき「お開きにする」という言い方をしますが、本当は「おしまいにする」とか「会を閉める」なのです。でも、それでは縁起が悪いと考えて、あえて反対の「開く」という言い方をするようになり、それがすっかり定着するようになったのです。

こういう現象は日本社会では随所に見受けられます。しかしこれこそが日本の安全保障の障害になっているのではないか、と指摘する人もいるのです。起こって欲しくないことは考えないようにすることによって、万が一のことに備えることができなくなってしまうからです。

 

これは個人の人生についても言えることで、その代表が、死につながることをいっさい隠すということです。ですから病院では4号室や、4番ベッドはなく、飛行機には4番シートがありません。それは縁起の悪いものがあったら、本当に死んでしまうかもしれない、と恐れるからです。しかし4という数字をどんなに使わないようにしていても、死は必ずやって来るのです。必ずやって来るものについては、考えないようにするのではなく、そのためにしっかりと準備しておくことの方が賢明です。しかし、死に対する準備などできるのでしょうか。できます!

 

キリストは私たちの罪を背負って、十字架で死んで下さった後、三日目に復活することで、死を滅ぼしてくださいました。これは迷信でも何でもなく、この歴史の中で実際に起こった事実です。それは、私たちの罪が赦され、永遠のいのちを与えるために神が成してくださった神のみわざです。この神のみわざを受け入れる者、すなわち、この方を信じる者は罪が赦されて、死んでも生きる永遠のいのちが与えられるのです。

 

キリストはあなたのために死なれました。そして文字通りよみがえられました。あなたの前に立って「平安があなたがたにあるように」と言っておられます。どうぞ、この復活された主イエス・キリストを信じてください。そして、あなたの人生が天国に向かう喜びと平安なものになってほしいと思います。主はよみがえられました。復活の主の力と喜びがあなたにもありますように。「平安があなたがたにあるように。」

 

民数記3章

民数記3章

 

 きょうは民数記3章から学びます。

 

Ⅰ.レビ人は主(1-13)

 

まず、1~13節までをご覧ください。1~4節までをお読みします。 「これは、【主】がシナイ山でモーセと語られたときの、アロンとモーセの系図である。アロンの息子たちの名は、長子ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。これらはアロンの息子たちの名で、彼らは油注がれて祭司職に任じられた祭司であった。ナダブとアビフは、シナイの荒野で【主】の前に異なる火を献げたときに、【主】の前で死んだ。彼らには子がいなかった。それでエルアザルとイタマルが父アロンの生存中から祭司として仕えた。」

 

ここには、主がシナイ山でモーセに語られた時のアロンとモーセの系図が記されてあります。アロンの子らの名は長男がナダブで、次にアビフ、そしてエルアザル、イタマルです。彼らは油注がれて祭司の職に任じられた祭司たちでした。モーセもアロンも皆レビ族の出身です。しかし、すべてが祭司なれるのではありません。祭司になれるのはアロンの家系だけです。その他のレビ族の人たちは、アロンの家系をアシストするために召されていました。

 

しかし、アダブとナビフはシナイの荒野で異なった火をささげたので、主の前に死にました。これはレビ記10章にある内容です。彼らは異なった火をささげたので、主の前で息絶えました。この異なる火とは何か?それは、彼らは大祭司しか入ることのできない至聖所に入っていけにえをささげたのです。レビ記16章1、2節には、「アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが【主】の前に近づいて死んだ後、【主】はモーセに告げられた。【主】はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。」とあります。すなわち、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを自分たちの手でやろうとしたのです。彼らは、主がしてはならないと命じられたことを勝手に行ったのです。自分たちにもできると思ったのでしょう。それゆえ、彼らは火で焼き尽くされてしまいました。そこでエルアザルとイタマルが祭司として仕えました。

 

 次に、5~10節までをご覧ください。「【主】はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエルの子らに関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。あなたは、レビ人をアロンとその子らに付けなさい。彼らはイスラエルの子らの中から、正式にアロンに付けられた者たちである。あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」」

 

ここには他のレビ族の人たちの幕屋における奉仕について書かれてあります。彼らは、アロンに関わる任務を全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければなりませんでした。アロンとその子らの働きをサポートして、彼らがそれをできるように助けたのです。聖所における奉仕はみなアロンとその息子たちが行いましたが、それに付随する働きはレビ族の人たちが担ったのです。ですから、たとえレビ人といえども、聖所の中での奉仕をすることはできませんでした。それはアロンとその子たちだけに許されていたことであり、ほかの人で近づく者は殺されたのです。

 

次に、11~13節をご覧ください。「【主】はモーセに告げられた。「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは【主】である。」」

 

ここには、レビ人を初子の代わりとして聖別するようにと命じられています。主は、長子はすべてご自分のものだと言われたのです。なぜでしょうか。それは、イスラエルをエジプトすら救い出されたとき、エジプトの地ですべての初子を打った日に、イスラエルのすべての初子を、人から家畜に至るまで、ご自分のものとして聖別したからです。その初子の代わりに、レビ人を取られたのです。

 

これは、イスラエル全体が聖別されたことを示しています。「聖別」とは、神のために分ける、という意味です。神のもの、神の民であるということです。それは、私たちクリスチャンの姿を描いていました。Ⅰペテロ2章9節には、「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」とあります。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民なのです。何という特権でしょうか。イエス・キリストを信じる私たちはすべて主のものなのです。この主の選びの尊さを覚えるゆえに、時に大変だと思うことがあっても、同時に、主に選ばれたものとしての喜びと平安があるのです。

 

Ⅱ.レビ族の登録(14-26)

 

そこで主は、レビ族をその氏族ごと、-登録するようにと命じられました。14節から26節までをご覧ください。「【主】はシナイの荒野でモーセに告げられた。「レビ族をその一族ごと、氏族ごとに登録せよ。あなたは生後一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。」そこでモーセは、【主】の命により、命じられたとおりに彼らを登録した。レビ族の名は次のとおりである。ゲルション、ケハテ、メラリ。ゲルション族の諸氏族の名は次のとおりである。リブニとシムイ。ケハテ族の諸氏族は、それぞれ、アムラムとイツハル、ヘブロンとウジエル。メラリ族の諸氏族は、それぞれ、マフリとムシ。これらが父祖の家ごとのレビ人の諸氏族である。リブニ族とシムイ族はゲルションに属し、これらがゲルション人諸氏族であった。数を数えて登録された者は、一か月以上のすべての男子であり、この登録された者は、七千五百人であった。ゲルション人諸氏族は、幕屋のうしろ、西側に宿営することになっていた。ゲルション人の一族の長は、ラエルの子エルヤサフであった。会見の天幕でのゲルション族の任務は、幕屋すなわち天幕と、その覆い、会見の天幕の入り口の垂れ幕、庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の入り口の垂れ幕およびそのひも──そしてそれに関わるすべての奉仕であった。」

 

ここで注目してほしいことは、一か月以上のすべての男子が登録されたということです。1章では荒野を進んで行くイスラエルは20歳以上の男子が数えられましたが、レビ人は一ヶ月以上の男子が数えられました。なぜでしょうか?イスラエル人は軍務につくわけですから成人でなければその任務を行なうことはできませんが、レビ人は、神の働きに召された者です。もちろん、一歳にも満たない赤子が幕屋の奉仕をすることはできません。しかし、どんなに小さくても、彼らは主が臨在しておられるその場所に置かれ、そこで親から神様のことをいろいろと教えてもらうことによって主に仕える備えがされていたのです。そのことがすでに主の前での奉仕として数えられているのです。

 

それは、霊的には私たちのことを指しています。私たちはみなキリストによって贖われた神の民です。祭司であり、レビ人です。神の働きのために選ばれた者なのです。そのような者は生まれて一か月の時から神のもとに置かれなければなりません。生まれたばかりの霊的赤ん坊にとって幕屋で仕えるということはできないかもしれませんが、主のみそば近くに置かれる必要があるのです。ただ主の愛と恵みの中に置かれ、そこから主のことを学び取っていかなければなりません。彼らにとって必要なことは奉仕をすることではなく主の臨在に触れること、主のみことばを聞くという環境に身を置くことなのです。奉仕はその後でいいのです。それなのにすぐに奉仕をさせてしまうことがあります。しかし、みことばを聞くことが彼らにとっての奉仕なのです。もちろん、いつまでも聞くだけではいけません。聞いた、それを実行することが大切です。しかし、初めは神の臨在に置かれるだけでいいのです。そこで神のことばを聞き、神の恵みに満たされること、後の働きに備えて、十分愛情をいただくだけでいいのです。

 

 そして、レビ族はさらに氏族ごとに分けられ、おのおのの氏族ごとに数えられます。レビ族には三つの氏族がいます。ゲルション族とケハテ族とメラリ族です。まずゲルション族についてですが、

ゲルションの意味は「追放された者」です。人気グループに「EXILE」というグループがいますが、それがこのゲルションの意味です。ですから、ゲルションはEXILE、追放された者であります。

 

その人数は7,500人でした。彼らは幕屋のうしろ、すなわち、西側に宿営しました。彼らの天幕での任務は、幕屋すなわち天幕と、そのおおい、会見の天幕の入口の垂れ幕、庭の掛け幕、それに幕屋と祭壇の周りを取り巻く庭の入り口の垂れ幕、そのすべてに用いるひもについてでした。

幕屋は主に三つのものによって成り立っていました。まず契約の箱と祭壇などの道具です。それから、それらを取り囲む板や、板をつなぐ棒などです。そしてもう一つはその上にかける幕です。ゲルション族の奉仕は、幕屋の幕を取り外し、それを運び、また取り付ける奉仕でした。

 

これは地味な奉仕のようですが、天国における報いの大きい奉仕だと思います。これは霊的にはとりなしの祈りを表していると言ってもいいでしょう。幕によって覆うのです。それがとりなしの祈りです。ヤコブ5章19~20節には、「私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。」とあります。心理から迷い出る人を連れ戻す働きです。そのような働きは、罪びとのたましいを市から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのです。

 

また、Ⅰペテロ4章7~8節にも、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。愛は多くの罪を覆うのです。祈りによって心を備えなければなりません。主の再臨のために。

 

 次に、27~32節までをご覧ください。ここにはケハテ族について書かれています。「アムラム族、イツハル族、ヘブロン族、ウジエル族はケハテに属し、これらがケハテ人諸氏族であった。これらの一か月以上のすべての男子を数えると、八千六百人であった。彼らが聖所の任務に当たる者たちである。ケハテ人諸氏族は、幕屋の南側に沿って宿営することになっていた。ケハテ人諸氏族の、一族の長は、ウジエルの子エリツァファンであった。彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、務めに用いる聖所の用具、さらに垂れ幕とそれに関わるすべての奉仕を含んでいた。レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルで、聖所の任務に当たる者たちの監督であった。」

 

 ケハテ族の人数は8,600人でした。彼らも一か月以上のすべての男子が数えられました。彼らは幕屋の南側に宿営しました。彼らの任務は、契約の箱、机、燭台、祭壇、およびこれらに用いる聖なる用具と垂れ幕に関する奉仕でした。ケハテの意味は「集まり」です。モーセもアロンも、ミリヤムも、このケハテ族の出身でした。32節を見ると、レビ人の長は祭司アロンの子エルアザルであって、聖所の任務を果たす者たちの監督であった、とあります。ゲルションの長はエルヤサフ、ケハテの長はエリツァファンでした。けれども、その彼らを取りまとめる人がアロンの子エリアザルです。アロンの後継者です。彼は、聖所の任務を果たす者のところで監督しました。これらの用具は聖なるものであり、運搬にはとくに注意を要したからです。エルアザルの意味は「神は助け」ですが、この聖所の任務には、特別な神の助けが求められたのでしょう。

 

 次はメラリ族です。33~37節をご覧ください。「マフリ族とムシ族はメラリに属し、これらがメラリ人諸氏族であった。数を数えて登録された者は、一か月以上のすべての男子であり、六千二百人であった。メラリ人諸氏族の一族の長は、アビハイルの子ツリエルであった。彼らは幕屋の北側に沿って宿営することになっていた。メラリ族の任務は、幕屋の板、その横木、その柱と台座、そのすべての用具、およびそれに関わるすべての奉仕、庭の周りの柱とその台座、その杭とそのひもについてであった。」

 

 メラリ族は人数が6,200人で、北側に宿営しました。彼らに任じられた務めは、幕屋の板、その横木、その柱と台座、また、庭の回りの柱とその台座、その釘とひもについての奉仕でした。これは幕屋の屋台骨を支えるような奉仕です。いわば縁の下の力持ちのような働きです。そればかりではありません。ここには、釘1本、ひも1本のような小さな奉仕でした。これでも主にお仕えできるのです。いや、こうした小さな奉仕が重要なのです。イエス様は、「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16:10)と言われました。小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実なのです。そういう人に主は、大きな働きをゆだねられるのです。

 

 そして、最後に幕屋の正面です。38~39節には、「幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営するのは、モーセとアロンまたその子らで、イスラエルの子らの任務に代わって、聖所の任務に当たる者たちであった。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。モーセとアロンが【主】の命により氏族ごとに登録した、すべての登録されたレビ人は、一か月以上のすべての男子であり、二万二千人であった。」とあります。

 

 幕屋の正面、すなわち会見の天幕の前方に当たる東側に宿営する者は、モーセとアロンまたその子らで、イスラエル人の任務に代わって、聖所の任務を果たす者たちでした。ほかの者でこれに近づく者は殺されました。幕屋の東側というのは幕屋への入り口があった場所です。そこは聖所への通り道でもありました。ですから、聖なる神にもっとも近いところであり、仲介役のモーセ、そしてアロンしか近くに宿営することが許されなかったのです。モーセとアロンが主の命により、氏族ごとに登録したレビ人は、一か月以上のすべての男子で、二万二千人でした。

 

 Ⅲ.イスラエル人の初子の贖いの代金(40-51)

 

  最後に、40~51節を見て終わりたいと思います。ここにはイスラエル人の初子が数えられています。「【主】はモーセに言われた。「イスラエルの子らの、一か月以上の男子の長子をすべて登録し、その名を数えよ。わたしは【主】である。あなたはイスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりとしてレビ人を、またイスラエルの子らの家畜のうちのすべての初子の代わりとしてレビ人の家畜を取り、わたしのものにしなさい。」モーセは【主】が彼に命じられたとおりに、イスラエルの子らのうちのすべての長子を登録した。その登録による、名を数えられた、一か月以上のすべての男子の長子は、二万二千二百七十三人であった。【主】はモーセに告げられた。「イスラエルの子らのすべての長子の代わりにレビ人を、また彼らの家畜の代わりにレビ人の家畜を取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは【主】である。レビ人の数より多い、二百七十三人のイスラエルの子らの長子の贖いの代金として、一人当たり五シェケルを取りなさい。これを、一シェケル二十ゲラの、聖所のシェケルで取らなければならない。そしてこの代金を、多い分の者たちの贖いの代金として、アロンとその子らに渡しなさい。」モーセは、レビ人によって贖われた者より多い分の者たちから、贖いの代金を取った。すなわち、イスラエルの子らの長子から、聖所のシェケルで千三百六十五シェケルの代金を取ったのである。モーセは【主】の命により、この贖いの代金をアロンとその子らに渡した。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

イスラエル人の初子を数えたところ22,273人でした。レビ人の人数は22,000人でしたので、273人少なかったことになります。そうすると、レビ人はイスラエルの初子の代わりでしたので、273人分はいつものように贖い金を支払わなければなりませんでした。そこでモーセは贖い金を徴収して、そのお金をアロンに手渡しました。それが40節から51節までの話です。 その代価は、一人あたり5シェケルでした。それはレビ記27章6節にあることです。生まれて1か月から5歳までの男子は一人あたり5シェケルの価値と定められていたからです。それで、その273人分を支払ったのです。こうしてレビ人が数えられました。

 

 それにしてもなぜレビ人が他のイスラエル部族から取られて数えられ、主のもっとも近くに宿営し、幕屋の奉仕にあずかることができたのでしょうか。創世記49章5~7節を見ると、彼らは必ずしも良い性格の持ち主ではありませんでした。ヤコブがこのレビとシメオンについて次のように預言しています。「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の武器。わがたましいよ、彼らの密議に加わるな。わが栄光よ、彼らの集いに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのままに牛の足の筋を切った。のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは。私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう。」

 

「散らそう」というのは、相続地を持たないということです。ですから、彼らが約束の地に入ったとき相続地を持てませんでした。シメオンについてはヨシュア記19章を見るとわかりますが、ユダ族の割り当て地の中に吸収されています。彼らはヤコブの預言のとおり、相続地を持つことができませんでした。イスラエルの中に散らされたのでます。なぜでしょうか?彼らのつるぎは暴虐の道具だったからです。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったので、神に呪われてしまいました。それは創世記34章の出来事のゆえです。彼らの直属の妹ディナがシェケムの異教徒の長の息子シェケムに強姦されたので、その破廉恥な行為をされて黙っていることができず、その復讐に彼らを虐殺ししてしまいました。シェケムがディナを嫁にもらいたいと申し出たとき、自分たちは割礼のない民に嫁がせることはできないと言い、彼らが割礼を受け痛みで苦しんでいたときに皆殺しにしたのです。このことをヤコブは思い出して、彼らの将来は、暴虐であると預言したのです。このような性格の部族が、今、幕屋の奉仕の務めとして取られたのです。それはいったいどうしてなのでしょうか?

 

 出エジプト記32章を開いてください。32章21節から29節です。アロンが罪を犯し、金の子牛の像を作ってどんちゃん騒ぎをし敵の笑ものになっていた時、モーセは「だれでも、主につく者は、わたしのところに」と言いました。するとレビ族だけがつきました。それでモーセは彼らに、剣で兄弟たちを殺すように命じました。それでその日、三千人ほどが倒れました。剣で失敗したレビが、今度はつるぎで主に従ったのです。過去においた失敗はしたが、その過去にしがみつくことをせず、ただ主に従うことを選び取ったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちも過去において失敗するようなことがあったでしょう。だれにでもそういうことがあります。自分なんて神に仕える資格なんてないと落ち込むこともあるのです。こんな者が神の奉仕に立てるのかと悩むこともあるかもしれません。しかし、神はそんな者でも新しく造り変えてくださり、神の働きのために用いてくださるのです。パウロはピリピ3章13~14節のところで、「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」と言っています。パウロもかつてはイエス・キリストに敵対する者でした。イエスを信じる者をつかまえては投獄し、殺害していたのです。それは赦されないことでした。しかし、そんな者が神に捕えられたのです。神の福音を宣べ伝える器とされました。それで彼はうしろのものにとらわれることをやめ、ひたむきに前に進んで行くことを学びました。それは私たちも同じです。私たちもかつては神に敵対し、自分の思うままに生きていました。とても赦されるには値しないどうしようもない者だったのです。そんな者が神の働きに携わることが許されるのであれば、それはただ神の恵みによるのです。

 

彼らは確かにかつて神の呪いを受けるようなことをしました。それで相続地を受けることもできませんでした。しかし、神はそんなレビ人を新しく造り変えてくださり、たとえ相手から嫌われても、神のみこころに従うことによって、神の呪いを祝福に変えたのです。確かに過去を消すことはできません。自分の犯した罪の結果は刈り取らなければなりかもしれませんが、それで終わりではないのです。悔い改めて神に立ち返るなら、神はその人を新しく造り変え、ご自身の働きのために用いてくださるのです。呪いを祝福に変えてくださるのです。最も神の近くに置いてくださるのです。

 

1章ではイスラエル人が軍務につく者として数えられ、それがこの世との戦いにおけるクリスチャンの勝利を表しているとすれば、幕屋の奉仕に数えられたレビ人は、神の恵みによって奉仕をする者に変えられたクリスチャンの姿を表しています。ペテロは主であるイエスを三度も否定しました。それは弟子としてふさわしい者ではありません。しかし、復活された主イエスは、ペテロにお姿を現されたとき「わたしを愛しますか。」と三度聞かれ、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。ペテロは失敗したときに主にお仕えするように呼び出されたのです。私たちも、そのままでは主にお仕えすることなどできません。主に反逆し、主に罪を犯し、神の呪いを受けてもおかしくないような者なのに、主はそんな私たちを赦してくださいました。呪いを祝福に変えてくださいました。だから私たちは、ただ神の恵みによって神のご奉仕にあずかることができるのです。この恵みに感謝したいと思います。そして、たとえ自分がそれにふさわしくないと思っていても、主が呼び出されるなら、その召しに答えて主に仕えさせていただきたいと思うのです。それがレビ人として呼び出されたクリスチャンの姿なのです。

最大の恵み ローマ人への手紙15章14~21節

2021年3月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙15章14~21節

タイトル:「最大の恵み」

 

 きょうは「最大の恵み」というタイトルでお話したいと思います。このローマ人への手紙は、使徒パウロからローマの教会の人たちに書き送った手紙です。パウロはこの手紙も終わりに近づいたころ、もう一度これを書いた目的を述べています。それは異邦人に福音を宣べ伝えることです。そのためにローマの教会の人たちに祈ってほしかったのです。パウロは神から恵みを受けた者として、異邦人の使徒として召されました。使徒というのは「遣わされた者」という意味です。ユダヤ人ではない人たちを異邦人と言いますが、その異邦人に福音を伝えるという使命が与えられていました。それで、聖霊の助けによって熱心に主に仕え、エルサレムから始めてイルリコに至るまで、宣教のわざを続けてきました。イルリコというのは、現在のクロアチア、アドリヤ海に面した地域のことです。パウロは「エルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡りキリストの福音をくまなく伝えた」と言っています。その距離約二千二百キロメートルです。大雑把にとらえれば、北海道の端から沖縄の端まででしょうか。当時の旅のゆっくりしたこと、また様々な危険があったことを考えれば福音を広めるパウロの苦労は大変なものであったことでしょう。しかしパウロはそのような苦労をものともせず、「もうこの地方には私が働くべき場所はなくなりました」(15章23節)と言うほどに徹底して伝道して歩いたのです。

 

そして、当時ローマ帝国の果てと言われていたイスパニヤ、これは今のスペインのことですが、そこにも趣いて行きたいと考えていました。そのためには祈りが不可欠です。そうした伝道の計画をローマの教会の人たちに伝え、そのために祈ってほしかったのです。パウロにとっての最大の喜びは、イエス・キリストの福音を伝えることでした。神様がそのために自分を用いてくださるということが最大の恵みだったのです。それは私たちにも言えることです。私たちにとっても最大の喜びは、イエス・キリストの福音を伝えることです。この福音こそ多くの人々の人生を変える喜ばしい知らせなのです。

 

私の友人がアフリカでNPO団体の職員として働いていた時のこと、自分たちが立ち入らないような奥地にまでキリスト教の宣教師たちが入っていって熱心に福音宣教を進めている姿に驚かされたと言います。不便な生活をし、犠牲を払いながら、一体何を語っているのだろうか。興味を持った友人は、教会に通い始めました。そしてついにイエス・キリストにある罪の赦しときよめの祝福を理解するようになり、信仰を持ったというのです。そして、たばこをくゆらし、ただボーッと過ごすだけの人生から、神を喜び神の御心に沿って歩む、活き活きした人生へと脱出することができたと言います。キリストの福音は、私たちの人生を、このように変える力があるのです。

きょうは、パウロがどのようにこの福音を異邦人に宣べ伝えていたのかを、三つのポイントでお話ししたいと思います。

 Ⅰ.神が与えてくださった恵みのゆえに(14-17)

 

 第一に、14~17節までをご覧ください。ここには、パウロに与えられた使命がどのようなものであったかが記されてあります。「私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。」

 

 パウロは、これから語ろうとしていることをローマのクリスチャンたちに語るにあたり彼らを責めるような口調や態度ではなく、彼らを認めることから始めています。14節には、「私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。」と言っているのです。人が励まされ、強められるために一番重要なことは、その人が認められることです。人は認められるとき、自分の命までもささげ、与えられた使命を成し遂げようとします。パウロはまさにこの原則を用いて、彼らを認めることから始めているのです。それは何とかして彼らに、これから語ることを理解してほしかったからです。それは神の福音を宣べ伝えることについての神の計画です。

 

16節には、「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」とあります。

パウロが受けた恵みとは何でしょうか?それはイエス・キリストによる救いです。これまでパウロは、旧約聖書にある神の律法を守らなければ救われないと、律法による救いを徹底的に説いてきました。しかし、すべての人は罪人なので神の律法を完全に行うことはできず、律法によっては義とみとられることがないとわかったとき、律法ではない、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを信じることによって、価なしに義と認められるということがわかりました。そしてその恵みを受け入れたとき、その恵みのゆえに、異邦人に福音を伝える者となったのです。それは異邦人が、聖霊によって聖なる者とされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。創造主訳聖書には、「異邦人を聖霊によって聖められた、創造主に受け入れられるものとするためである。」と訳されてあります。つまり、異邦人もまた聖霊によって聖められて、神に受け入れられるようにするために、異邦人の使徒となったということです。その恵みを受けた者として、今度はその恵みを分け与える者となったのです。

 

 皆さんは、「恵み」というとどんなことを思い浮かべるでしょうか。どちらかというと、好いことがたくさんあったりとか、物質的に恵まれること、行く先々で道が開かれるといったことを考えるのではないかと思いますが、恵みとはそういうことではありません。恵みの意味を広辞苑で調べてみると、

1.めぐむこと。恩恵。また、いつくしみ。「自然の恵み」「天の恵み」

  1. キリスト教で、原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済をいう。聖寵 (せいちょう)。

とあります。辞書にはちゃんとキリスト教での恵みの意味も書いてありますね。でも、実はここに書いてある内容では、恵みの本質を説明しているとは言えません。恵みとは、ただ恩恵を受けたり、何かの利益を得ることではありません。また、”原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済”という説明にも、大切なポイントが抜けています。そのポイントは何かというと、『無条件で与えられる』ということです。恵みは、行いによってでも、対価を払うことでもなく、タダで与えられるものなのです。これは頑張ることを美徳にしている日本人には、理解するのが難しいことです。私たち日本人は、実は恵みとは反対の報いという考え方が強い民族性なのです。報いとは、行いや対価に応じて、与えられるものですが、無条件で与えられる恵みとは、全く逆のものです。例えば働けば報酬として、給料を貰うことができます。お金を払えば、物を買うことができます。誰かに親切にすることで、ご褒美が貰えるかもしれません。また、逆に悪いことをすれば、罰を受けます。犯罪を犯せば、罰金や懲役刑を受けます。これらは良くも悪くも、全て何かの行いや対価に応じて、自分に返ってくるものなので、全て報いです。けれども、恵みとは全く逆で、無条件で与えられるものです。無条件で何かを得ることを期待するなんて、怠け者で悪いことだと考えられてしまいますが、聖書では、全く救われるに値しない者に対して、神が一方的に与えてくださったもの、それがイエス・キリストの救いです。

 

ですから、キリスト教の救いは恵みなのです。これがキリスト教の神髄とも言えることです。だから、この恵みを完全に受け入れることができた人の先にあるのは、「これで大丈夫なんだ!」という平安な心なのです。パウロはこの恵みを受けたのです。彼は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったのです。

 

パウロは、Ⅰテモテ1章12~16節で次のように言っています。「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」

 

パウロが、キリスト・イエスに感謝をささげているのはなぜでしょうか?それは、キリストが彼をこの務めに任命して、彼を忠実な者として認めてくださったからです。彼は以前、神を汚す者であり、クリスチャンを迫害するような者でした。いわば、神の敵として歩んでいたのです。まさに罪人のかしらのような人間でした。そんな者が赦されるはずがありません。しかし、彼は神のあわれみによって罪が赦され、キリストの福音を宣べ伝える者にされました。それこそ、ことばに言い尽くせない恵みだと、パウロは感激に溢れて告白しているのです。神様のために用いられることが幸せなのです。神様は自分よりも育ちも良く、頭も良くて、人格的にも立派な人を差し置いて、私のような者を用いてくださるとしたら、それこそ恵みではないでしょうか。

 

「驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れる我(われ)に」(新聖歌233)。教会に行ったことがない人も、どこかで耳にしたことがあるでしょう。「アメージング・グレース」です。この歌は、ジョン・ニュートン(1725〜1807)によって1779年に発表されました。「アメージング・グレース」は、今日も教団教派を超えて歌い継がれている定番の賛美歌となっていますが、この讃美歌にはニュートン自身の劇的な回心の経験がその根底に流れています。

 

母親は熱心なクリスチャンでしたが、7歳にして母を亡くしたニュートンは11歳で父と共に船に乗るようになり、さまざまな経緯を経て奴隷貿易に携わるようになりました。その頃のニュートンの評判は、反抗的で、罰当たり、不親切というものだった。

しかし、ニュートンが22歳の時に転機が訪れます。1748年5月10日、激しい嵐が船を襲い、転覆の危機にあった船中でニュートンは神の憐みを求めて必死に祈りました。船は奇跡的に嵐を免れ、この経験がニュートンの回心の「始まり」となったのです。1754〜55年の間に、ニュートンは奴隷貿易をやめ、その代わりに神学を学び始める。そして1764年、ついに英国国教会の牧師になりました。その後彼は、黒人たちをまるで家畜のように扱う奴隷貿易に携わったことを罪を悔い改め、そのような者でさえも赦してくださった神の恵みに感謝して、この歌を造ったのです。アメージング・グレース。あっという恵み。その恵みのゆえに、彼もまたイエス・キリストの福音を伝える者となったのです。

 

パウロは、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったのです。それは私たちも同じです。Ⅰペテロ2章9~10節はこうあります。  「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」

 

私たちはみな祭司となったのです。これを万人祭司と言います。パウロはここで、「祭司の務めを果たしています」と言っていますが、私たちも神の祭司として、その務めがゆだねられているのです。それは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けたからです。アメージング・グレース。驚くほどの恵みを受けた者として無今度はその恵みに応答し、キリスト・イエスに仕える者となったのです。

 

 Ⅱ.御霊の力によって(18-19)

 

 次に18~19節を見てみましょう。「私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。」

 

 ここには、パウロがどのようにして異邦人への伝道を成し遂げていったのかが書かれてあります。「キリストはことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。」その結果、彼はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えることができたのです。

 

イルリコというのは、先ほども申し上げたように現在のクロアチア、アドリヤ海に面した地域のことです。エルサレムからは直線距離にして2,200㎞ほどあります。彼は、エルサレムから始めて、そうした地方に至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。そればかりではありません。23節には「しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、」と言っています。イスパニヤというのは今のスペインのことです。当時の世界の西のはずれと言われていました。そのイスパニア、スペインまで福音を伝えたいと思っていたのです。今日のように交通機関が発達していなかった時代に、よくもまあこんなに福音を伝えることができたものだと感心しますが、いったいその力は何だったのでしょうか?それはキリストの力によるものでした。キリストがことばと行いによって、また、しるしと不思議によって、さらに御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。それはパウロの力ではなかったのです。キリストがパウロを用いて、ご自身のみわざを成し遂げてくださったのです。

「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 

 聖霊があなたがたの上に望まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。そして、力強い主の証人となることができます。その行く先々で、しるしと不思議を行ってくださいます。福音が伝えられる現場では、こうしたこうしたみわざが現れるのです。

 

 使徒の働き13章には、パウロとバルナバがアンテオケ教会から遣わされてキプロス島に渡った時、そこで魔術師エルマと戦ったことが記されてあります。パウロの話を聞いていた総督セルギオ・パウロが神のことばを聞いていると、彼を信仰の道から遠ざけようとして、邪魔をしました。するとパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、「あらゆるよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができないようになる。」と言うと、たちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は見えなくなってしまいました。この出来事に驚いた総督は、主の力ある教えに驚いて信仰に入ったのであります。

 

 ルステラではこんなことがありました。生まれつき足のきかない人がすわっていましたが、どのようにしてかわかりませんけれども、彼がパウロの話を聞いていると、パウロは彼にいやされる信仰があるのを見て、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言いました。すると彼は飛び上がって、歩き出したのです。驚いた群衆は、パウロとバルナバがギリシャの神々だと思っていけにえをささげようとしましたが、パウロがあわてて、そんな馬鹿なことはやめてください。私たちも皆さんと同じ人間なんですよ。このようなむなしいことを捨てて、天と地を造られた生ける神様を信じてください、というと、大勢の者たちが信仰に入ったのです。

 

 第二次伝道旅行でピリピという町に行った時のことです。占いの霊にとりつかれていた若い女奴隷から悪霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人たちがパウロとシラスを訴えて牢屋に入れてしまいました。パウロとシラスが獄中で祈りつつ、賛美の歌を歌っていると、奇跡が起こりました。大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち全部の扉が開いてしまったのです。それを見た看守は、「もうだめだ」と思って自害しようとしましたが、そこにいたパウロとシラスが「自害してはならない。私たちはここにいる」という、彼らは恐る恐るひれ伏しながら、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言ったので、パウロはこう言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)するとこの看守とその家族はイエス様を信じて全員救われたのです。

 

 ローマに向かう船が難破して、奇跡的に救い出され、マルタ島についた時も、パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出て来て、彼の手にとりつきましたが、「何だ、この蛇は!」と言ったかどうかわかりませんが、パウロが火の中に振り落としても、何の害も受けませんでした。

 

 使徒の働きを見ると、こうしたしるしや奇跡は山ほど出てきます。まさに、イエス様が言われたように、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)これはまさに御霊なる主、聖霊のお働きによるのです。

 

 ある人々は、このようなしるしと不思議を行う力は二千年前に終わったと言います。しかし、福音を携えていくところには、確かに奇跡が起こるのです。今も南米で、アフリカで、中国で、インドネシアで、世界中の至るところでこうしたしるしや不思議をなす力によって、福音がものすごい勢いで広がっています。使徒の働きに記されているすべてのわざは、今日も福音が宣べ伝えられる所で、私たちを通して行われるのです。それはこの日本も例外ではありません。みことばが宣べ伝えられるところではどこでも、このような神の力が現れるのです。それがパウロの宣教の力だったのです。

 

 Ⅲ.開拓者精神(20-21)

 

 最後に、こうしたパウロの異邦人伝道の原動力について見て終わりたいと思います。20~21節をご覧ください。「このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」」

 

 「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝える」とは、それは異邦人の世界のことで、まさに世界宣教のことです。また、「他人の土台の上に建てないように」とか「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる」というのは、文字通り開拓伝道のことです。パウロは、こうした世界宣教と開拓伝道のビジョンに燃えていました。今日のように交通機関が発達していなかった時代です。でも彼らはこのような宣教のビジョンを持っていました。しかし、もっと驚くべきことは、実際に彼はそれを達成しようとしていたことです。こうした彼の開拓者精神はどこから出ていたのでしょうか?それは、彼がいつも神の視点で物事を見ていたことです。常に神のみこころは何かを考え、そこに生きようとしていたからです。21節には、「こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」とあります。これはイザヤ書を52章からの引用です。このように書かれてある聖書のことばが成就すると信じていたのです。

 

 それが自分にできるかどうかということではありません。神のみこころは何か。そしてそれが神のみこころならば、何としてもそれを達成しなければならないという情熱から出ていたことだったのです。Ⅰテモテ2章4節には、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあります。神のみこころは、すべての人が救われて真理を知るようになることです。まだキリストの福音を聞いたことのない人たちが聞き、神を知るようになることを望んでおられます。そのためにどうあるべきなのかを求めた結果がこれだったわけです。今、私たちに求められているのは、こうした神様の目で物事を見、それを行っていくということではないでしょうか。

 

 戦後、この日本に福音が伝えられた背後には、多くの宣教師たちの犠牲がありました。日本が戦いに破れ、精神的に虚脱状態に陥っていたとき、多くの宣教師たちが来日してキリストの福音を伝えてくれたのです。

 その先駆者となったのがF・B・ソーリーという宣教師です。ソーリー宣教師は、1948年に来日し、焼け跡の東京の街角に立ってエネルギッシュに福音を伝えました。アコーデオンをかなでながら歌を歌い、通訳を用いて説教したと伝えられています。東京での宣教の働きを終えると、今度は和歌山に移って意欲的に天幕伝道を始めました。「どうして和歌山なんですか?温泉があるからですか」と泉田昭先生(日本バプテスト教会連合練馬教会名誉牧師)が冗談に尋ねると、ソーリー宣教師は、にっこりと笑いながらこう言ったと言います。「アイム、ソーリー」というのは冗談で、「調べてみると、日本でクリスチャンが最も少ない地方は富山県と和歌山県であることがわかりました。富山県ではカナダから来た宣教師たちが伝道することになったので、私たちは和歌山県で伝道することにしたのです。」

 何というスピリットでしょうか。戦後日本の宣教は、こうした開拓者精神に溢れた宣教師たちによって、福音が伝えられて行ったのです。それは、栃木県も同じではないでしょうか。日本で最もクリスチャンが少ない地方は栃木県さくら市です。

 

 イギリスからやってきていたP・ウィルスという宣教師は、「キリストを信ずれば、馬が行灯(あんどん)をくわえたような、長い不景気な顔をした人でも、かぼちゃのように、にこにこした笑顔に変わります」と巧みな日本語で、熱心に語ったそうです。あんどんとは、木などで枠を作って紙を張り、中に油の皿を置いて点灯するものですね。だからぼんやりしているわけですが、そんな馬が行灯をくわえたような不景気な顔をしている人でも、イエス様を信じると、かぼちゃのような顔になるなんて、すごい表現だと思うんです。イエス様を信じると、私たちの不幸の原因である罪が赦され、永遠のいのちがあたえられるのです。

 

 今、時代は大きく変わりました。しかし、どんなに時代が変わってもいつまでも変わらない原則があります。それは、この救霊の情熱です。まだキリストの福音が伝えられていない所に何とかして福音を伝えたいという情熱です。私は国内開拓伝道会というところでご奉仕させていただいておりますが、その委員のお一人に日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会牧師の中島秀一先生がおられます。中島先生は80を過ぎておられる先生で、ご自身の教会も300人くらいの大きな教会ですが、この先生が言われる野です。「日本の教会はまだまだ開拓伝道です」と。中島先生のスピリットに触れると、本当に励まされます。

 

日本の現状を見ると、それは必ずしも容易なことではありませんが、しかし、神はこの福音宣教の使命を、私たちクリスチャンにゆだねておられるのです。それは神が与えてくださった恵みのおえに、神の御霊の力によって、神のみことばの約束に基づいてなされていくものです。

 

私たちの教会は今日、創立5周年を迎えることかできました。この礼拝の後で君島兄がまとめてくださった5年間の歩みを間ながら、ここまで守り、導いてくださった主に感謝しつつ、この教会がこの福音宣教の使命を担っていく教会となるように祈りたいと思います。

あなたのパンを水の上に投げよ 伝道者の書11章1~10節

2021年3月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書11章1~10節(旧約P1153)

タイトル:「あなたのパンを水の上に投げよ」

 

 伝道者の書11章に入ります。今日のメッセージのタイトルは、「あなたのパンを水の上に投げよ」です。伝道者はこれまで繰り返し、私たちの人生はこれから後に起こるはわからないし、だれもそのことを告げることはできない、ということを語ってきました。それでは、その不確かな将来において私たちはどのようにあるべきなのでしょうか。今日のところで、伝道者はこのように勧めています。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」(1)

 

Ⅰ.あなたのパンを水の上に投げよ(1-2)

 

 まず、1節と2節をご覧ください。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。」

 

「あなたのパンを水の上に投げよ」とても有名なことばです。皆さんも何回か耳にしたことがあるみことばではないでしょうか。でもこれがどういうことなのかを知っている方は少ないのではないかと思います。この「パンを水の上に投げる」とは、次の3つの解釈があります。その一つは、これを穀物の海上貿易のことだと理解し、海上貿易には多くのリスクが伴うが、そのリスクを恐れず投資するなら多くの利益をもって報われる、というものです。この場合パンは穀物のこと、あるいは自分の財のことであり、「投げる」とは貿易のことを指しているということになります。それを「水の上に投げよ」とあるので、海上での取引に投資することと解したのです。

英語訳聖書(TEV)では「あなたのお金を海上貿易に当てよ。そうすればいつの日か、多くの報いが与えられるであろう」と訳しています。この伝道者ソロモン自身、海上貿易で巨万の富を築いています(列王記上10:22-24)。船を危険な海に送り出して海上貿易を行うことは難破や海賊等の危険がありますが、成功すれば巨額の利益を得ることになります。

 

もう一つの解釈は、この「水」を洪水で氾濫した肥沃な土地とのことだと解釈し、そうした土地にパン、すなわち、穀物の種を蒔くなら、多くの収穫を期待できる、というものです。

 

そして、もう一つの解釈は、「パン」を比喩的に解釈し、物惜しみしないで多くの人々に情けを施すなら、必ずその報いを思いがけないところから受けるだろう、というものです。伝統的なユダヤ教のラビ(宗教指導者)たちはこのように受け止めています。彼らはこれを「不確かな将来の中で今できる善を為せ、そして報いを楽しみに待て」と意味だと理解しています。

 

日本を代表するクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼もこの考え方を支持しています。彼はその注解書の中で次のように言っています。「世に無益なることとて、パンを水の上に投げるが如きはない。水はただちにパンに沁み込みて、ひたされるパンの塊は直ちに水底に沈むのである。パンを人に与うるは良し、これを犬に投げるのも悪しからず、されどもこれを水の上に投げるに至っては無用の頂上である。しかるにコヘレトはこの無益のことを為せと人に告げ、己に諭したのである。汝のパンを水の上に投げよ、無効と知りつつ愛を行え、人に善を為してその結果を望むなかれ。物を施して感謝をさえ望むなかれ。ただ愛せよ、ただ施せよ、ただ善なれ、これ人生の至上善なり。最大幸福はここにありとコヘレトは言うたのである」(内村鑑三注解全集第五巻、p253)。

 

これらいずれの解釈においても言えることは、自分の手の中にある善いものを惜しみなく蒔くなら、必ずその報いを受けるようになる、ということです。その背景にあるのは、申命記15章10節のみことばです。ここには、「必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。」とあります。「彼」とは、「あなたの同胞」のことです。あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対して心を頑なにしてはならないのです。手を閉ざしてはなりません。必ずあなたの手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。なぜなら、このことのゆえに、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。

 

同じことが、ガラテヤ6章9~10節にもあります。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」

ですから、パンを水の上に投げるとはビジネスにとどまらず、貧しい人たちに分け与えたり、支援したりといった慈善事業においても言えることなのです。善を行うことに飽きず、失望しないで取り組むならば、やがて時が来て、その刈り取りをすることになるでしょう。これが神の国の原則です。

 

イエス様はルカの福音書6章31~35節で、このように言われました。「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。」

報酬や賞賛を求めずに善を行え、ということです。だれでも自分を愛してくれる人を愛することはできます。自分に善くしてくれる人に善いことをすることもできます。返してもらうことを当てにして貸すことはできます。しかしイエス様はそれでは不十分だと言われました。そういうことは、罪人でさえできます。自分の敵を愛すること、彼らに良くしてやり、返してもらうことを当てにしないで貸すこと、それがいと高き神の子とされた者にふさわしい態度であると言われたのです。「あなたのパンを思い切って水の上に流したらどうか」と。

 

これを文字通りに実行したのがマザーテレサです。彼女はこう言いました。「人はしばしば、不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい・・・正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい・・・心を穏やかにし、幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも心穏やかでいなさい。今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行い続けなさい。持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい」。私たちも今日、このような神の国の原則に生きるようにと招かれているのです。

 

このような神の国の原則は、福音宣教においても言えることです。神様はこう言われます。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」と。すべてのクリスチャンはいのちのパンを持っています。それは、イエス・キリストです。イエス様は「わたしは、いのちのパンです。」と言われました。そのパンを水の上に投げなければなりません。それを人に分け与えなければならないのです。イエス様を信じればだれでも救われます。なぜなら、イエス様が私たちの罪の刑罰を身代わりに受けてくださったからです。ですから、イエス様を信じたらどんな人でも罪赦されて天国に行くことができるのです。イエス様はその鍵を私たちクリスチャンにゆだねてくださいました。それがいのちのパンです。ですから、このパンを持っている私たちは、これを持っていない人たちに分け与えなければなりません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

すばらしい知らせではありませんか。イエス様を信じればどんな人でも救われます。信じなければ地獄です。どんなに自分は道徳的に立派な人生を送っていると言う人でも、イエス様を信じなければ地獄なんです。どんなに頑張っても、その人は自分で自分の罪を清算することはできません。イエス様を信じなければ、どんなに立派な人でも地獄なのです。しかし、イエス様信じたらだれでも天国に行きます。どんなに悪い人でも救われるのです。ローマ人への手紙4章4~5節には、「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」とあります。敬虔な者を義と認めるというのではありません。不敬虔な者、何の働きもない者を義と認めてくださるのです。これが恵みです。敬虔な者を義と認めるのは当たり前でしょう。でもそうではなく、不敬虔な者を義としてくださるのです。不敬虔な者でもイエス様を信じるなら義と認められるのです。これが恵みなんです。恵みによる救いです。イエス様の贖いというのはそれほどすごいものなのです。そのいのちのパンを、イエス様を信じた私たちはみな持っています。このパンを投げなければなりません。

 

問題は、それを水の上に投げよと言われていることです。水の上に投げたらどうなりますか?そんなことをしたら、内村鑑三が言っているように、水はただちにパンに沁み込んで、水底に沈んでしまうか、水に流されてしまうことになります。しかし、これが伝道なんです。伝道というのは、水の上にパンを投げるようなものです。投げても、投げてもなかなか実が見えません。でも大切なことは、それを投げ続けることです。そうすれば、ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すようになるからです。私たちは、これから後に何が起こるかわかりません。でもわかることは、もし水の上にパンを投げるなら、ずっと後の日になって、それを見出すようになるということです。

 

一年ほど前、MTCの奥山実先生が来会してメッセージをされました。それを聞いた時、神様がなさることって本当にすごいなぁと思わされました。その時、インドネシアのカリマンタン島で伝道された時のお話しをしてくださいました。そこは首狩り族で有名な地でしたが、福音を待っているという知らせを聞いた奥山先生は、もう一人の現地の牧師と一緒に島に入り、1カ月間一つ一つの村を訪問して伝道したところ、多くの人々がイエス様を信じました。しかし、それはある日突然にして起こったわけではありません。実はアメリカの改革派教会が100年も前から種を蒔き続けてきたのです。この島での伝道は困難を極めました。かつてこの島はボルネオ島と言いましたが、ここに遣わされた宣教師は本当に多くの犠牲を強いられました。ある宣教師の家族はご主人が天に召され、また別の家庭では奥さんが天に召され、ある家庭では子どもが3人同時に天に召されるということもありました。それでアメリカ改革派教会はこれ以上犠牲を出すわけにはいかないと、すべての宣教師とその家族をボルネオ島から引き揚げさせたのです。帰国した宣教師たちはアメリカの教会でそのことを証しすると、アメリカの若者たちが立ち上がりました。それでアメリカ改革派教会は、一度はボルネオでの伝道をあきらめたのですがもう一度始めることにしたのです。それが100年続いていたのです。ところがびくともしなかった。なぜなら、カリマンタンでは村長が信じないとだれも信じないからです。そのカリマンタンが総崩れしました。村長が信じ、村人皆信じました。

当時、インドネンアでは共産党員とイスラム教徒との間に激しい戦いが繰り広げられていましたが、イスラム教徒に追い詰められた共産党員がこのカリマンタンに逃げ込んだのです。すると、共産党員が首狩り族と同じ格好をしていたので、だれが首狩り族でだれが共産党員なのかわからなくなってしまったのです。それでイスラム教徒は首狩り族の村長に、何かしらの宗教を持たないと皆殺しにすると宣告したのです。当時、インドネシアの公認の宗教は5つあって、仏教、ヒンズー教、イスラム教、それにカトリックとプロテスタントでした。それで村長たちはどの宗教を選んだのかというとプロテスタントを選びました。なぜなら、彼らは100年もアメリカの宣教師を見てきたからです。そこに奥山先生ともう一人の牧師が入って福音を語ったので、多くの人たちが信じることができたのです。

ですから、その背景にはアメリカの改革派教会の宣教師たちの種まきがあったのです。彼らが犠牲を払いながらみことばの種を蒔き続けてくれました。それが実を結んだのです。

 

伝道は、まさにパンを水の上に投げるようなものです。徒労に感じてしまう事があります。しかし、それは決して空しく返ってくることはありません。なぜなら、福音の種にはいのちがあるからです。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すことになるでしょう。ですから、皆さん、みことばを宣べ伝えましょう。時が良くても悪くても、しっかりやりましょう。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また、勧めたいと思います。そうすれば、必ず、刈り取りをすることになります。これが神の国の原則です。

 

2節には、「あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。」とあります。どういうことでしょうか。これは1節と同じことですが、良いことではなく悪いことが起こったときのために備えておくことの大切さを教えています。

ルカによる福音書16章1~13節には、不正な管理人のたとえ話がありますが、彼はこのことを行いました。彼は主人の財産を無駄遣いしていました。そのことが主人にばれた時、解雇されることを悟り、果たしてどうしようかと考えた末、主人から債務のある人の額を半分にしてやったりしたのです。いわゆる恩を売ったんですね。どうしてそんなことをしたのかというと、たとえ管理人としての仕事がクビになっても、恩を売った人たちの中からだれかが自分を助けてくれるのではないかと思ったからです。

 

イエス様は、この不正な管理人をほめました。それは彼が抜け目なくやったからです。確かにやったことは悪いことでしたが、自分の状況を考え、自分の困難な将来を見据えて、何とか助かりたいと、知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って備えをした、その賢さがほめられたのです。
 それは霊的にも言えることです。私たちも、未来に備える必要があります。肉体が滅んだ後、永遠の天国に入るための用意が必要なのです。勿論、それは救い主を信じるということですけれども、そればかりでなく、神から与えられている様々なもの、たとえばそれがお金であったり、財産であったり、時間であったり、賜物、能力、人脈、所有物、そして福音を、預けてくださった神の良い管理者として、それらを抜け目なく、賢く用いなければならないのです。

 

Ⅱ.朝に種を蒔き、夕方にも手を休めてはならない(3-6)

 

次に、3節~6節をご覧ください。まず、3節と4節をお読みします。「濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。」

 

雲が垂れこめると、雨が降ります。風が吹いて木が倒れると、そのままそこに横たわります。これはどういうことかというと、嵐が来るのではないかと思うとついつい躊躇したり、風が吹いて木が倒れそうになると、それがどの方向に倒れるのかと心配になって、結局、何もしないということです。風を警戒する人は種を蒔くことができません。雨雲を見ている人は刈り入れをすることができないのです。つまり、完璧な条件でなければ動かないという人は、結局何もしないで終わってしまうのです。その結果、作物を腐らせてしまうことになります。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」と言われも、今はそういう余裕がないからもう少し余裕ができたらやりますとか、もう少し条件が整ったらやりますと言って、いつまでたってもできないのです。皆さんもこのような敬虔があるんじゃないですか。もっと良い時にと思っているうちに、何もできなかったということが。一番良い時、ベストな時はいつですか。「今」でしょ。たとえいろいろな心配事があっても、たとえある程度のリスクがあっても、この先何が起こるのかわからないし、私たちは先のことを予測すらできないのですから、何もしないで手をこまねいているのではなく、今それをしなければならない、というのです。

 

日本の教会開拓も同じですね。確かに日本の伝道は厳しいものがあるかもしれません。人はいない、建物はない、資金もありません。でもだからできないと考えるのではなく、確かに状況を見れば厳しいかもしれませんが、自分たちにできることは何かを考え、それを少しずつ行っていけばいいのです。なぜなら、神様のみこころは何ですか。神のみこころは一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることだからです。そのために神様は教会を与えてくださったのです。そのことはエペソ人への手紙3章に書かれてあります。パウロはそれをキリストの奥義と言っていますが、「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」(3:6)これが神の家族である教会のことです。このキリストにあって、建物全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。それは、このキリストの奥義がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためでした。つまり、キリストのご計画とは、神の家族である教会を通して、この奥義、キリストの福音を宣べ伝えることだったのです。教会はそのために存在しているのです。であれば、私たちはこのキリストのご計画の実現のために何ができるのかを祈らなければなりません。「条件が整ったらやりましょう」というのでは、結局、何もできません。あるものまでも失うことになってしまいます。パウロは2テモテ4章2節で、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」と言っていますが、そうです、時が良くても悪くても、です。時が良くても、悪くても、みことばを宣べ伝えなければならないのです。

 

そのことが、5節と6節で説明されています。「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは一切を行われる神のみわざを知らない。朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」

 

「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。」新共同訳聖書は、「骨々のことと同様」を、「骨の中に」と訳し、「風」を「霊」と解釈し、「あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨の中に入るかを知らない」と訳していますが、言わんとしていることは同じです。つまり、私たち人間はすべてのことを知っているわけではない、ということです。妊婦の胎内で赤子の骨々がどのように組み合わされるか、その骨の中にどのように霊が入るのか知らないのです。そのように、私たちは神が行われる一切のみわざを知ることはできません。

 

であれば、どうすればよいのでしょうか。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。」将来どうなるかわからないのだから、最善の策は、自分にできるだけの努力をすることです。朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはいけないのです。なぜでしょうか?「あなたは、あれかこれか、どちらが成功するか、あるいは両方とも同じようにうまくいくかを知らないのだから。」どの仕事がうまくいくかわからないからです。あるいは、両方ともうまくいくかもしれません。伝道もこれと同じです。どの種から芽が出るのか、どの種が実を結ぶかなんてだれにもわかりません。人を見たり、状況を見て、自分で勝手に判断して、今はみことばの種を蒔くのをやめておこうとか、この人には親切にして、あの人には語ろうというのではなく、相手がだれであれ、状況がどうであれ、自分のベストを尽くしてみことばの種を蒔き続けなければなりません。だれが救われるのか、だれが実を結ぶようになるかなんてだれにもわからないからです。善を行うことも同じです。

 

Ⅲ.今の時を大切に(7-10)

 

最後に、7~10節を見て終わりたいと思います。「光は心地よく、日を見ることは目に快い。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

 

1~6節で人生がいかに不確かなものであるか、だから、ただ手をこまねいているのではなく、朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはならないと、どんな時でも自分のベストを尽くすこと、最善を尽くすことが賢明であると説いた伝道者は、それゆえに今の時を大切にするようにと勧めています。

 

 「光は心地よく、日を見ることは目に心地よい。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。」光は喜びの象徴です(詩篇97:11)。その光の中を生きることができるのは何と幸いなことでしょうか。人生は楽しい!人生は喜びで満ちています。しかし、人生には闇の日も多くあることを忘れてはなりません。すべて、日の下で起こることは空しいのです。この「すべて、起こること」とは何でしょうか。一般にこれは死後のことを指すと考えられていますが、尾山令仁先生は、これをこの地上で起こるすべてのことと解釈し、「しかし、永遠の世界と比べたら、この地上のことは全くむなしいことを覚えておきなさい。」と訳しています(創造主訳聖書)。

 

ある人たちは、この「闇の日」と「すべて起こること」を、「老年の日々」を指すとして、老年には「闇の日」が待っているとして、これを病気、肉体の痛み、失望などの老人の運命だと考えています。そのように考える人たちは、「光」を青年期の象徴と解釈し、若いときは夢があり、活力があり、行動力がありますが、老年には闇の日が待っていて、病気や肉体の痛み、失望などがあって実に空しいと考えます。しかし、そうでしょうか。私はそう思いません。

ヨエル書2:28~29節にこうあるからです。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」ここに「老人は夢を見る」とあります。これは、ペンテコステに聖霊が注がれることを預言したものですが、その日どんなことが起こるんですか。「あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」神の聖霊が注がれるとき、老人は夢を見るのです。いつでも夢を、いつでも夢を♪♪です。

 

だから老年期は闇だと考えるのは間違っています。確かに若い時のように体は思うように動かないかもしれませんが、しかし、これまでの人生の中で培ってきたことを生かして最高の今を生きることができるのです。逆に、若いからいいというわけでもありません。昨年はコロナのこともあって若者の自殺者が急増しました。しかもそれらの多くは10代だと言われています。若ければ光かというとそうではなく、年を取れば闇かというとそうでもありません。主イエスを信じて永遠のいのちが与えられるなら、いつも光の中を生きることができます。人生は楽しい!のです。ここで伝道者が言わんとしていることは、この世に生かされている「今」を喜び楽しむようにということです。しかし、闇の日があることを忘れてはなりません。私たちの人生には痛みや悲しみ、苦しみの日があるということも覚えておかなければならないのです。

 

そのことを教えているのが9節と10節です。ここには、「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」とあります。

人生は、若いうちが花です。なんだ、やっぱり年を取ったら枯れるということじゃないですかと思うかもしれませんが、そういうことではありません。年をとっても大丈夫!いつでも夢を見ることができます。しかし、若くないと出来ないこともたくさんあります。年をとってからではできないこともある。だから若いうちに楽しむこと、若い日にあなたの心を喜ばせることが大切です。それは心の赴くままにということではありません。神様に祈り、神様の栄光のために、自分はこれがしたい、これをやってみたいというとこがあるならば、思い切ってチャレンジしてみるのがいい、思う存分やりなさいということです。多少羽目を外すようなことがあっても、行き過ぎるようなことがあっても、自分が思うようにやってみたらいいのです。親はそれを否定しない方がいい。あれもだめ、これもだめ、たぶんだめ、きっとだめ、というイメージを与えてしまうと、こどもは、人生はつまらないもの、窮屈で重苦しいものだという印象を持ってしまいます。でもこども時代は二度とやってきません。若い時も二度とやってこないのです。であれば、たとえ失敗することがあっても、人生を楽しむことが大切です。イエス様を信じて、イエス様のために生きることがどんなに楽しいことなのかを、親は見せてあげなければならないのです。

 

しかし、伝道者は釘をさすことを忘れていません。9節の終わりのところでこのように言っています。「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」怖いですね。これじゃ、やりたくてもできません。若い男よ、若いうちに楽しめと言っておきながら、しかし、神がこれらすべてにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。若気の至りということばがありますね。若いから何をやってもいいということでありません。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。罪の結果、悲劇を招くようになるということをしっかり覚えておきなさい、というのです。そうですよね、その時は良いと思っても、後でそれが心の傷、体の傷になってしまうことがあります。年をとっても尾を引いてしまうことがあるのです。ここではそれを、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ、ということばで警告しています。

 

それゆえ、結論は何かというと、10節です。「あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

どういうことでしょうか。あなたの心から心配事や悩みを取り除きなさい、ということです。若さも青春も空しいからです。若いから何をしても良いということではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴ってしまうことがあります。そういうことで人生を台無しにしてはならないのです。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。そのことをパウロは若き伝道者テモテに次のように書き送っています。「あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2テモテ2:22)

また、同じ牧会書簡と呼ばれているテトスへの手紙の中で、若い人たちに向けてこのように勧めています。「同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。」(テトス2:6)若い人に求められていることはこの一つです。それは、「思慮深くあるように」。何をしても自由です。若いうちは思う存分楽しめばいい。あなたの心を喜ばせよ。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを忘れないように。だから、「思慮深くあるように」と。いったい思慮深くあるとはどのようなことなのでしょうか。伝道者は次の12章でそのことを述べますが、ここでちょっとだけ先取りして読んでみると、12章1節にこうあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

 

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」これが私たちのすべてです。人生は誠に不確かなものです。一寸先は闇です。この先何が起こるのか誰にもわかりません。だからといって何もしないで手をこまねいているのではなく、あなたのパンを水の上に投げなければなりません。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すようになります。どんな時でも自分のベストを尽くさなければなりません。朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはならないのです。今、今という間に今は過ぎ去って行きます。それゆえ、今を大切に生きなければなりません。それは、あなたの創造者を覚えるということです。あなたが創造者であられる神を覚え、神に信頼し、へりくだって神の救いをいただき、神のみこころに歩むなら、人生は実に楽しいものです!特に、若いというのはすばらしいですね。未来があります。希望があります。でも年をとっても大丈夫です。イエス・キリストを信じるなら、義の太陽であられるキリストがあなたを照らしてくださいますから。その光に照らされて、輝いて生きることができます。そのような人からは闇も消え去ります。永遠のいのちをいただき、永遠に楽しむことができる。そのような人生を与えてくださった主に感謝します。そして、その主に信頼しつつ、私たちに与えられたいのちのパンを水の上に投げ続けたいと思います。