戸をたたく花婿 雅歌5章2~7節

2021年8月15日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑩)

聖書箇所:雅歌5章2~7節

タイトル:「戸をたたく花婿」

 

きょうは、雅歌5章2節から7節までの箇所から「戸をたたく花婿」というタイトルでお話します。ここから新しい場面に入ります。前回までのところには、花嫁と結ばれた花婿が花嫁の美しさをほめたたえました。4章7節には「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたは何の汚れもない。」と言いました。花嫁の美しさに花婿の心が奪われてしまったのです。すばらしいですね。いつも花婿からこのように言われていたらどんなにうれしいことでしょう。しかし、時間が経つにつれて花嫁の心が冷えていきます。いわゆる倦怠期です。問題は花婿ではなく花嫁にありました。花婿がどんなに戸をたたいても、花嫁はベッドから起き上がろうとしないのです。その結果、花婿は去って行きました。花婿の姿はもうそこにはありません。花嫁は後悔して花婿を捜しますが、後の祭りです。見つけることができませんでした。

 

私たちの信仰生活にも倦怠期があります。受洗後はハネムーンのように何をしても楽しくてウキウキですが、いつの間にか馴れ合いのようになってしまうことがあるのです。その結果、主がどこかへ行ってしまったかのように感じることがあります。そういうことがないように、いつも主をつかんで離さず、親密な交わりを保つようにしなければなりません。

 

Ⅰ.戸をたたく花婿(2)

 

まず2節をご覧ください。「私は眠っていましたが、心は目覚めていました。すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」」

 

「私」とは「花嫁」のことです。花嫁は眠っていましたが、心は目覚めていました。寝てはいるが心は起きているという状態です。皆さんもこういうことがあるでしょう。からだは休んでいても心は目覚めているということが。なぜでしょうか?花婿がいなかったからです。花婿がいれば安心してぐっすりと休むことができたでしょうが、花婿がいなかったので眠ろうとしてもなかなか寝付かれなかったのです。これまで花嫁は花婿の愛を一心に受けていました。しかし、その花婿が一晩中帰って来ませんでした。いったい何があったのか?わかりません。ここにはその理由が書かれていないので、どうして花婿が帰って来なかったのかはわからないのです。ただ一つだけ言えることは、どんなことがあっても花婿の花嫁に対する愛は変わらないということです。なぜなら、この方は花嫁のために自分のいのちを与えるほど愛してくださる方だからです。この方は私たちの主イエスです。この方はどんなことがあっても私たちを見捨てたり、見放したりはなさいません。

 

しかし、主イエスは時にこのようにあなたから遠ざかることがあります。突然、あなたの目の前から姿を消されるようなことをされるのです。それは主があなたを愛しておられないからではありません。あなたへの愛が冷めてしまったからではないのです。むしろ、あなたとの関係をもっと深めるために、あえてそのようにされることがあるのです。そうすることによって、私たちがもっと主を求めるようになるためです。主を身近に感じられなくなることによって、もっともっと主を求めたいという思いを持ことがあります。たとえば、家族に何らかの問題や苦難が起こるとき、それまで以上に夫婦の絆が深められることがあります。それまでは何とも思わなかったのに、そうした試練を通して関係が強められるということがあるのです。こういう時だからこそ夫婦が力を合わせてそうした艱難苦難を乗り越えようとするからです。そうした試練がお互いの関係を見つめ直し、冷え切った関係を取り戻すきっかけになります。これまで以上に二人の絆を深めていく機会となるのです。皆さんもそのようなことを経験したことがあるのではないでしょうか。あれは本当に辛い経験だったけど、あれがあったからこそ私たちの関係がもっと強められたということが。同じように、私たちとイエス様との関係においても、その関係がもっと強いものとなるために、あえて主はご自分を隠されることがあるのです。イエス様はいつも私たちと一緒にいることを望んでおられますが、それは単に今の関係を維持するということではなく、あるいは、バックスライドしなければいいということでもなく、今まで以上に親密になることを望んでおられるのです。もっと深い関係を持ちたいのです。救われるということはすばらしいことですが、どんなに救われてもその喜びが冷めていき、こんなはずじゃなかった、一緒にいるのが苦痛ですと言いながら過ごすことがあるとしたら、どんなに残念なことでしょうか。イエス様はそのことに気付かせるために、あえてご自身を隠されることがあるのです。ですから私たちは、自分がどこから落ちたのか、どこからずれたのかを考えて、初めの愛に立ち返らなければならないのです。

 

2節をもう一度ご覧ください。その次です。「すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」

別に何の問題もないと、そういう人の心は眠っているかのような状態になります。そのような時、花婿なるキリストは、私たちの心の戸をたたいてくださるのです。実際そういう場面があります。黙示録3章20節ですね。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

これはラオデキアの教会に宛てて書き送られた手紙です。彼らは冷たくもなく、熱くもありませんでした。それゆえ主は、彼らに熱いか冷たいかであってほしいと言われたのです。彼らは、自分では富んでいる、豊かになったと思っていました。足りないものは何もないと。でも実はみじめで、あわれで、貧しくて、盲目で、裸であるのが見えていませんでした。ですから、その目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい、と言われたのです。そして、熱心になって悔い改めなければなりませんでした。そのために主は彼らの心の戸をたたかれたのです。だれでも主の声を聞いて戸を開けるなら、主はその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もまた主とともに食事をするようになります。すなわち、親しい交わりを持つようになるのです。この雅歌も同じです。花婿である主は、花婿の心の戸をたたかれました。もしその声を聞いて戸を開けるなら、花婿は入って来て花嫁とともに食事をし、親しい交わりを持つことができるようになるのです。

 

ここで花婿は、「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れてのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭はぬれ、私の髪の毛も夜のしずくでぬれている」と言っています。「私の妹」という言い方は、4章9節でお話したように、血を分けた妹のような存在であるということです。また、「私の鳩よ」という表現は、花嫁が鳩のように純粋で清らかな存在であることです。花婿にとって花嫁は「妹」のような存在であり、「鳩」のような存在なのです。何年経っても花婿の花嫁に対する愛はちっとも変っていません。変わってしまったのは花嫁の方です。結婚ばかりの頃はあれほど燃えていたのに、いつの間にか花婿に対する愛が冷えてしまいました。「もうイヤ!別にいてもいなくてもいい。あなたは空気のような存在なんだから」と言わんばかりです。しかし花婿はそんな花嫁に、「私の妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。」と呼び掛けるのです。なぜでしょうか。「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている」からです。イスラエルは、昼と夜の寒暖差があるので、特に夏になると夜露が降りるのです。そのため花婿の頭はびしょびしょに濡れていました。当然夜になると冷えてきます。ですから部屋の中に入ってタオルで頭を拭き、からだを温めてほしかったのです。だから「戸を開けておくれ」と呼びかけているのです。

 

皆さんには、この花婿の叫びが聞こえているでしょうか。花婿の呼びかけに応答して戸を開け、中に招き入れてくれますか。それほどの熱い思いをもって花婿なる主に向かっているでしょうか。それとも、「いてもいなくてもどちらでも」といった霊的倦怠感を持ってはいないでしょうか。主はあなたが主の御声応答し心の戸を開けるのを待っておられるのです。

 

Ⅱ.去って行った花婿(3-6)

 

それに対して花嫁は、どのように応答したでしょうか。3節から6節までをご覧ください。まず、3節だけをお読みします。「私は衣を脱いでしまいました。どうして、また着られるでしょう。足も洗ってしまいました。どうして、また汚せるでしょう。」どういうことでしょうか。

 

「衣」とは、くるぶしまで届く着物のことです。花嫁はそれを脱いでしまいました。つまり、もう寝支度をしてしまったということです。「足も洗ってしまいました」当時、道は舗装されていませんでしたから、また履物もサンダルのようなものでしたから、外出から帰った時やベッドに入る時などは足を洗いました。それなのにまたドアのところまで行ったら足が汚れてしまいます。また足を洗わなければなりません。それは面倒くさいことです。だから、今晩はもう駄目ですと断っているのです。なんて怠惰な妻でしょうか。自分の夫が帰宅したというのに面倒くさいからと言って断るとは、何とも冷たい態度です。私の妻は決してこんなことは言いません。どんなに疲れていても、どんなに面倒臭くてもベッドから起き上がって来て、ドアを開けてくれます。時々、何の反応もない時もありますが。見ると熟睡しています。そういう時もあります。でも、起きていたら面倒くさいなんて決して言いません。たぶん。

 

この花嫁は私たちの姿です。私たちも時々このようにすることがあります。主が私たちの心のドアをノックしているのに、「今日は疲れているのでまた明日にしてください」とか、「今、仕事で忙しいんです。もう少し暇になったら開けます」と言ってしまうことがあります。でもそんな時だからこそ主は、私たちの心のドアをノックされるのです。あなたはどうでしょうか。もう足も洗ってしまいました、面倒かけないでください、と言って断りますか。あまりドアをたたかないでください。たまにゆっくりさせていただけませんかと、主と交わる絶好の機会を逃していることはないでしょうか。

 

実はこれは花嫁にとって、初めてのことではありませんでした。過去にもそんなことがありました。覚えていますか。3章です。花嫁は花婿の誘いを断ってしまい、その結果、花婿を見失ってしまいました。冬は去り、夏がやって来た。新しい季節がやって来たのだから、さあ、立って、出ておいでと呼び掛けられたのに、彼女は出て行くことができませんでした。これは二人がまだ結婚する前のお付き合いをしていた時のことです。それでも彼女は自分の失敗に気付き花婿を捜しだすと、花婿をつかんで離すことをせず、彼女の実家の奥の間で親しい時を持ちました。やっとのことでそれを乗り越えたのに、また同じような失敗を繰り返しています。

 

するとどうなったでしょうか。4節と5節をご覧ください。「私の愛する方が、戸の穴あたりに手を差し入れ、私の胸は、あの方のゆえにときめきました。私は起きて、私の愛する方のために戸を開けようとしました。私の手から没薬が滴り、私の指から没薬の液がかんぬきの取っ手に流れ落ちました。」

 

「戸の穴に手を差し入れる」とは、花婿がピッキングをしているということではありません。この戸の穴とは、誰がやって来たのかを見るための小さな穴のようなものです。花婿はこの小さな穴から手を差し入れ、戸を開けてくれるようにと合図をしているのです。そのとき、彼女の胸はときめきました。花嫁は花婿の積極的な誘いに心が揺れ動いたのです。そこまでして自分と時間を過ごそうとする花婿に胸がときめき、ついにベッドから起きる決心をしました。

 

そして、花婿のために戸を開けようとしたとき、花嫁の手から何かが流れ落ちました。それは没薬であり、その指から没薬の液が、かんぬきの取っ手に流れ落ちたのです。この没薬とは、花嫁が寝る前に手に塗っておくものです。それは甘い香りがするもので、性的欲情をかき立てるものでした。つまりそれは、夫婦の営みのために用いられるものだったのです。その没薬が彼女の手から滴り落ちました。それほどたくさん塗ったとは考えられませんが、おそらく滴り落ちるほどたっぷり塗ったというでしょう。

 

この没薬はこれまで何度か見てきたように、死人のためにも使われるものでした。また、かんぬきは扉を閉じて内側から固めるための横木で、貫木(かんのき)とも書きますが、それは主イエスの十字架を指示していたとも言えるでしょう。イエス様はこの十字架を担いでゴルゴタの丘に行かれました。いったいだれのために担がれたのでしょうか。それはひとえに私のためであり、あなたのためでした。あなたの罪を背負ってすべてを贖い、すべてを赦し、あなたに永遠のいのちを与えるために十字架で死んでくださったのです。イエス様はあなたのために没薬を塗られたのです。ここからも、イエス様の愛がどれほど尊く、どれほど大きいかを感じます。あなたはそれほどまでに愛されているのです。

 

6節をご覧ください。「愛する方のために戸を開けると、愛する方は、背を向けて去って行きました。私は、あの方のことばで気を失うばかりでした。あの方を捜しても、見つけることができませんでした。あの方を呼んでも、あの方は答えられませんでした。」

 

花婿の切なるアプローチに心動かされ、花嫁がようやくの思いで戸を開けると、そこには花婿の姿がありませんでした。花婿は背を向けて去って行ったのです。せっかく戸を開けたのに背を向けて去っていくなんてひどい!と思うかもしれませんが、もとはと言えば、花嫁がなかなか開けようとしなかったのが問題です。この時花婿が放ったことばに花嫁は気を失うばかりでした。この時花婿が何を言ったのかはわかりません。でもそれは花嫁が気を失うばかりだとあるので、相当ショッキングなことだったと思います。

 

私たちもイエス様の招きに応じないと、衝撃的なことばを聞くことになります。それは必ずしも悪いことばというよりも、心に突き刺さるようなことばです。心に衝撃を受けるようなことばです。たとえば、サマリヤの女がイエス様とお話していたとき、イエス様は「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言われると、彼女は、「私が渇くことがないように、その水を私にください。」と言いました。するとイエス様は彼女にこのように言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(ヨハネ4:16)それは彼女にとって痛いことばでした。それはちょうど石の割れ目に釘を打つようなものでした。そこだけには触れないでください。ずっと隠してきたその部分をさらけ出すようにとイエス様は言われたのです。それは彼女にとって本当に衝撃的なことばでした。同じです。花嫁にとって触れてほしくないこと、そうした心の闇をえぐり出すかかのようなことばを言われたのです。それはその後、彼女が必死になって花婿を捜し求めるようになったことからも想像できます。このように、時として主は、私たちにとって気を失うようなことを言われることがあります。けれども、それは私たちを傷つけるためではなく、私たちがそのことに気付き、もっと主を求めるようになるために、あえてそのようなことを言われることがあるのです。そのことをしっかり受け止めたいと思います。

 

花嫁は、必死になって花婿を捜しましたが、どこを捜しても見つけることができませんでした。花婿を呼んでも、花婿は答えられませんでした。どうしてでしょうか。先ほども申し上げように、花嫁が花婿を見失うのはこれが二回目です。最初の時と今回の時を比べてみると、共通点もありますが相違点もあります。その一番の違いは何かというと、花婿を見失った原因です。最初の時は婚約時代でしたが、そもそも花嫁は花婿のことをあまりよく知りませんでした。だから、花婿が「さあ立って、出ておいで」と言われても、花嫁は出て行くことをしなかったのです。

しかし、今回は違います。今回は花嫁と花婿と結ばれ、共に生活する中で花婿のすばらしさ体験していました。その麗しさ、偉大さを十分知っていたのです。にもかかわらず、彼女は花婿の呼びかけにすぐに応答しませんでした。それは花婿のことを知らなかったからではなく、花婿に関心がなかったからです。そうした花嫁の無関心が、花婿を見失う大きな原因だったのです。

 

もしかすると、皆さんの中にもこのような状態にある人がおられるかもしれません。主イエスを知らないからではなく、主イエス愛を知り、主イエスを信じて結ばれたにもかかわらず、無関心であるがゆえに、主を見失っているということがあるのではないでしょうか。これはただ単に私たちの怠慢によるものです。もうお風呂に入ってしまったんだから面倒くさい、寝る支度も整えたし、わざわざ起きたくありませんと、自分の都合によってその招きを拒んでしまうのです。ついさっきまではハネムーンでウキウキ、ドキドキだったのに、それが冷え切っているのです。こういうのを霊的倦怠といいます。新婚さんのうちはア~ンなんて言って、いつも一緒にいたかったのに、倦怠期を迎えると、「ああ、何だか面倒くさい」と言って、花婿の招きに応答しようとしないのです。今は忙しいのであとにしてください。時間があったら行きますといって、真剣に応じようとしないのです。それが大事だとわかっているのに自分のことでいっぱいになって、イエス様のことには関心が向かないのです。そうなると、花婿は去って行かれます。捜しても、捜しても、なかなか見つけることができなくなるのです。そうならないように注意したいですね。

 

Ⅲ.花嫁を打ちたたいた夜回りたち(7)

 

最後に7節をご覧ください。「町を巡回している夜回りたちが私を見つけて、私を打ち、傷つけました。城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。」

 

花嫁は自分の過ちに気付き、必死になって花婿を捜しました。すると町を巡回している夜回りが彼女を見付けて、彼女を打ち、傷つけました。城壁を守る者たちも、彼女のかぶり物をはぎ取りました。想像してください。夜中に女性が一人で外をふらついているのです。夜回りが怪しいと思うのは当然でしょう。もしかすると薬でもやってんじゃないかと疑っても不思議ではありません。それで彼女を捕らえて打ちたたき、かぶり物をはぎ取るのです。「夜回り」とは「夜警」とか「警備員」、「ガードマン」のことです。彼らはそうした不審人物を見つけると、容赦なく打ちたたき、かぶり物をはぎ取るのです。「かぶり物」とは「ベール」のことです。ですから、ベールをはぎ取ったということです。これが花婿を捜しに出た花嫁に夜回りたちがしたことです。

 

しかし、真の夜回りはそのようなことはしません。ガラテヤ6章1節には、「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」とあります。これが真の夜回りがすることです。もしだれかが何かの過ちに陥っているなら、御霊の人であるあなたは、その人を柔和な心で正してあげなければなりません。ベールをはぎ取ったり、打ちたたいたりはしないのです。

 

これが私たちの主イエスです。主は無知と無関心のゆえに神から遠く離れてしまった私たちのために、自ら十字架に掛かり、その罪を贖ってくださいました。主イエスの血は、私たちのすべての罪を洗い聖めるために流されたのです。最後の血の一滴までも、私たちのために惜しみなく流し尽くしてくださいました。これが愛です。イエス様はあなたを愛してやみません。あなたが誰かに責められたとき、傷つけられたとき、痛みつけられたとき、ぜひこのことを思い起こしてほしいと思います。イエス様はあなたをこよなく愛しているということを。

 

ヨハネの福音書8章に、姦淫の現場で捕らえられた女がイエス様のところに連れて来られた出来事が記されてあります。律法学者やパリサイ人は、その女を彼らの真ん中に立たせ、イエスに「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(8:4-5)

するとイエスは指で地面に何を書いておられましたが、彼らが問い続けて止めなかったので、身を起こしてこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に人を投げなさい。」(7)

すると、一人、一人と去って行き、真ん中にいた女とイエス様だけが残されました。すると、イエスは身を起こして、彼女に言われました。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さらなかったのですか。」(10)彼女が「はい、だれも。」と答えると、イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11)と言われました。

人々を罪に定める権威を持っておられたイエス様は、彼女に罪の赦しを宣言されました。罪をさばく権威のない人たちが人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられたイエス様がさばこうとされませんでした。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出しその罪をあばき出そうとしましたが、イエスは女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされました。どうしてでしょうか。それは主が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。主が彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない罪の刑罰を代わりに受けてくださったからです。これが主イエスが私たちに対して取ってくださることです。本物の夜回りは、本物の羊飼いは、だれかが何らかの過ちに陥っていたら、柔和な心でその人を正してあげるのです。ただ非難して、ただ拒否して、ただ責め立てて、ただ打ちたたいて、ただベールをはぎ取ったりするのではなく、柔和な心で正して上げるのです。

 

しかし、時に間違いを犯した人は正されることが必要なので、厳しいことを告げられることもあります。まるで責め立てられているように感じてしまうこともあるかもしれません。でも忘れないでください。私たちの羊飼いであられる主は、私たちの夜回りであられる主は、あなたを愛してやまないということを。イエス様があなたを見捨てるようなことは決してありません。むしろ、イエス様はあなたともっと近くになりたいし、あなたとの関係を深めたいと願っておられるのです。

 

あなたには、そんなイエス様の思いが届いているでしょうか。もしかしたら、霊的倦怠期を迎えているということはないでしょうか。どうか初めの愛に立ち返ってください。あの新婚時代のウキウキ、ドキドキ時に立ち返ってください。主は今もあなたの心の戸をたたいておられます。その思いに応えて、あなたの心の戸を開いていただきたいと思います。