十字架につけられたキリスト ヨハネ19:1-30

2020年4月5日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ19章1~30節

タイトル:「十字架につけられたイエス」

 今週は受難週となります。ですから、いつもの講解説教をお休みしてヨハネが語る十字架の意味についてご一緒に学びたいと思います。十字架は、イエス・キリストの生涯のクライマックスです。キリストはなぜ十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

 Ⅰ.十字架につけろ(1-16a)

 

まず、1節から7節までをご覧ください。

「1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」

 

「それでピラトは」の「それで」とは、その前の18章40節の言葉を受けてのことです。ピラトはイエスに何の罪も認められなかったのでイエスを釈放したいと思ったのですが、そのことをユダヤ人たちに尋ねると、彼らが大声で「その人ではなく、バラバを」と言ったので、ピラトは、仕方なくイエスを捕らえてむちで打ちました。

 

当時のむち打ちは、先端に動物の骨や金属がつけられた長い皮のひもで打たれたので、すぐに肉体が引き裂かれ、耐えがたい苦痛が全身に走りました。十字架につけられる前に息絶えてしまう人もいたほどです。キリストはなぜむちで打たれなければならなかったのでしょうか。そもそもイエスには罪がありませんでした。それなのに、なぜむちで打たれなければならなかったのか。それは、旧約聖書の預言が成就するためでした。イザヤ書53章には、来るべきメシアについてこのように預言されてありました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:4-5)

これが来るべきメシアの姿です。キリストは、私たちの背きのために罰せられ、打たれ、苦しめられますが、その懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒されるのです。それは私たちの罪のためであったのです。このようにキリストがむちで打たれることによって、この方こそメシアであるということが明らかにされました。それは、2節と3節で、兵士たちがイエスの頭に茨の冠をかぶらせ、紫色の衣を着せて、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、平手で顔をたたいたのも同じです。考えられますか。救い主の顔で殴るんですよ。どれほど罪深いことか・・。それはメシアが苦難を受けるというこのみことばが成就するためでした。

 

4節と5節をご覧ください。「ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」

ピラトは、イエスに罪がないことがわかっていました。彼はそのことを3回も繰り返して言っています。ここと、6節、それと18章38節です。しかし、彼らがなかなか納得しなかったので、痛めつけたイエス様の姿を見れば怒りも収まるのではないかと、イエスを官邸の外に連れて来て、こう言いました。「見よ、この人だ。」

 

すると、祭司長と役人たちは何と言ったでしょうか。6節、彼らはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫びました。どんなにピラトが、「私にはこの人に罪を見出せいせない。」と言っても、彼らの怒りは収まりませんでした。なぜでしょうか。その理由が7節にあります。「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」どういうことですか?イエスが自分を神の子と主張したということです。それは彼らの律法、つまり旧約聖書の教えに違反することでした。律法によれば、そのような者は石打ちにされなければなりませんでしたが、彼らはローマに支配下にあったので、ローマの処刑法である十字架を要求したのです。

 

8節をご覧ください。ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの要求を受け入れなければ、民衆の暴動に発展するかもしれないと思ったからです。もしそんなことにでもなれば、今度は自分の身が危うくなります。また、マタイ27:19を見ると、この時彼の妻が夢を見て、「あの正しい人と関わらないでください」と告げられていたので、ただならぬことが起こっていると感じていたのです。

 

それでピラトは再び総督の官邸に入り、イエスに尋ねました。「あなたはどこから来たのか」どこから来たのかと言っても、別に出身地を聞いているわけではありません。いったいあなたは誰なんですか。どこから来たんですか。本当に神のもとから来たんですか、ということです。しかし、イエスは何も答えませんでした。答える必要がなかったからです。なぜなら、もう何度も語られたからです。あとは信じるだけです。それなのに最も肝心なことから逃げて回りくどい質問に繰り返して答えるのは意味がありません。するとピラトはイラッとしたのか、少し語気を強めて言いました。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」(10)

 

すると、イエスは答えて言われました。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」(11)

ピラトは自分に権威があると思っていましたが、それは間違っていました。ほんとうの権威は神にあります。そして、神がこの地上を治めるためにその権威を彼に与えておられるのにすぎないのに、彼は自分に権威があると錯覚していました。ですから彼は神の権威を認めてイエスを釈放すべきだったのに、それをしませんでした。なぜでしょうか?人を恐れたからです。ユダヤ人たちを恐れたのです。自分の立場を守ろうとして正しいことを行いませんでした。そういう意味では彼も、罪を免れることはできません。この人には罪がないと認めていても、結局、彼も多勢にくみすることになってしまいました。

箴言29:25には、「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」とあります。人を恐れるのではなく神を恐れ、神に信頼しましょう。

 

しかし11節でイエスは、こうも言っています。「ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」どういうことでしょうか。「わたしをあなたに引き渡した者」とは、ユダヤ人たちのことです。彼らは聖書を知っていて、神のみこころが何であるのかを知っていたにもかかわらず、イエスを拒みました。いや、十字架に引き渡ししました。ですから、彼らにはもっと大きな罪があるのです。

 

12節から16節前半までをご覧ください。

「12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。」

 

ピラトはイエスを釈放しようと努力しましたが、ユダヤ人たちの激しい抵抗によってできませんでした。彼らはピラトに激しく言いました。「この人を釈放するなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

「カエサル」とは、ローマ皇帝の称号です。そんなことをするなら、あなたはカエサルの友でない、自分を王とする者はカエサルに背いているのだから、イエスを釈放するなんて考えられない、そんなことをするならカエサルに訴えるぞと、ピラトを脅しているのです。

結局、ピラトは彼らの脅しに負けて、イエスを外に連れ出し、へブル語で「ガバタ」と呼ばれる場所で、裁判を行うことにしました。そして、ユダヤ人たちに、「見よ、おまえたちの王だ。」と言うと、彼らはまたも激しく叫びました。「除け、除け、十字架につけろ。」このように叫んだ人たちの中には、ちょっと前にイエスがエルサレムに入場したときに、しゅろの木の枝を持って、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と叫んだ人たちもいたでしょう。彼らは、イエスが自分たちの期待していたメシアではないと気づくと、手のひらを返したような態度を取ったのです。

一方、ピラトは何が正しいのかをよく知っていました。しかし彼は、ユダヤ人たちの激しい声に負け、イエスを十字架につけるために彼らに引き渡しました。彼は、自分の立場を守るためにイエスを彼らに引き渡したのです。

 

何ということでしょう。ユダヤ人もユダヤ人であれば、ピラトもピラトです。彼らは自分たちの立場とか、自分たちの考えとか、自分たちのことしか考えられませんでした。こうした人々の罪のために、キリストは十字架に引き渡されたのです。私たちはこの記事を読んで「何とひどいことを」と思うかもしれませんが、実は私たちも五十歩百歩、彼らと何も変わらない罪人なのです。聖書は、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(ローマ3:23)と言っています。その罪のために、キリストは十字架につけられたのです。

 

クリスチャントゥデイに、こんなコラムがありました。幼い弟が、庭先で空に向かって棒を振り回していました。それを見た兄が「何をしているのか?」と聞くと「空の星を取るんだ」と言いました。すると兄が言いました。「そこでは届かない。屋根の上に登れ」

確かに庭先と屋根の上では高さに大きな差があります。しかし神の目から見ればその差などあってないに等しいものです。私たちは他人と比べてあの人より自分は正しいと思っているかもしれませんが、実はそうではないのです。私たちも彼らと同じ罪人であり、その罪のためにキリストは十字架に引き渡されたのです。

 

Ⅱ.十字架につけられたイエス(16b-24)

 

次に、16節後半から24節までをご覧ください。16節から18節をお読みします。

「16 彼らはイエスを引き取った。17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。18彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。」

 

イエスは、自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれました。「どくろの場所」とは、へブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と呼ばれている所です。イエスは、自分で十字架を負って、ゴルゴタに出て行かれたのです。前の晩からの不正な裁判で相当疲れもあったでしょう。また体も大分弱っていたに違いありません。ルカの福音書によると、イエスがゴルゴタに向かう途中、十字架を背負って歩くのが困難になったため代わりにクレネ人シモンという人が十字架を担いだとありますが、ヨハネはそのことについては一切触れていません。それは、イエスが自ら進んでいのちを捨てるために十字架に向かって行かれたことを強調したかったからでしょう。彼らはその場所でイエスを十字架につけました。また、イエスを真中にして、こちら側とあちら側に、ほかに二人の犯罪人を一緒に十字架につけました。ですから、そこには3本の十字架が立てられていたわけです。罪の無い方が、罪人の一人として数えられました。どうしてでしょうか?そのように旧約聖書に預言されてあったからです。イザヤ書53:12には、こうあります。「それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

この預言のとおりにイエスは自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたのです。

 

それにしてもヨハネは、十字架の苦しみについては全く語らず、ただその事実だけを伝えています。なぜでしょうか。それは当時の人たちが、十字架の苦しみというものがどれほどのものであったのかを、よく知っていたからです。彼らはその場所でイエスを十字架につけたというだけで十分でした。それだけでピンときました。しかし、イエスの苦しみは肉体の苦しみ以上に、霊的苦しみが伴うものでした。というのは、キリストは私たちすべての罪を背負って死なれたからです。罪を負われるということは、父なる神との関係が断たれることを意味していました。なぜなら、神は罪ある者と共にいることはできないからです。ですから、イエスが全人類の罪を負われたということは、その瞬間神との関係が断たれたのです。世が始まる前から、永遠の初めから持っておられた父なる神との親しい関係が、罪ある者とされた瞬間に断たれてしまったのです。このような霊的な苦しみの方が、はるかに辛いことでした。

 

19節をご覧ください。ピラトは罪状書も書いて、十字架の上に掲げました。それはその囚人がどんな罪を犯したのかを人々が見るためです。当時のローマの慣習では囚人の首にぶら下げることになっていましたが、イエスの罪状書きは、十字架の上に掲げられました。それは誰からもよく見えるようにするためでした。そこには何と書いてありましたか?そこには、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれてありました。しかも、それはヘブル語とラテン語とギリシャ語で書かれてありました。すべての人が理解できるようにするためです。そこは都に近かったので、多くの人々が各地から集まっていました。へブル語はユダヤ人にわかるように、ラテン語は当時の公用語でローマ兵たちが使っていました。ギリシャ語は多くの人たちが使っていた言葉です。ですから、このようにへブル語とラテン語とギリシャ語で書かれてあったことで、すべての人が理解することができました。つまり、イエスはすべての人の罪のために死なれたということです。ピラトはユダヤ人たちを皮肉って書いたつもりでしたが、逆にそれが真実を示すことになりました。そうです、イエスはユダヤ人の王だけでなく、全世界の救い主なのです。

 

するとユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください。」と訴えました。しかし、ピラトはユダヤ人たちに対する腹いせもあったのでしょう、そんなの知ったことか、私が書いたものは、書いたままにしておけと言って、書き換えることをしませんでした。ピラトはイエスが無実であると3度も宣言して釈放しようとしたのに、彼らに脅されてできなかったからです。今さら強がって見ても無駄です。罪の無い方を死刑にしたという事実は変わりません。それゆえ、彼は責任を逃れることはできないのです。私たちは毎週礼拝で使徒信条を告白していますが、そこには「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ・・」とあります。不名誉にも、彼の名はこのような形で語り告げられることになってしまいました。実際はユダヤ人たちの方が悪いのに、ユダヤ人たちの陰謀によって十字架につけられたのに、このようにピラトの名が語り告げられるようになったのは、こうした彼の優柔不断さというか、ユダヤ人たちの脅しに負けて正義を曲げてしまったからであり、その罪から逃れることはできません。

 

23節ご覧ください。兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしました。また下着も取りましたが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであったので、それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引くことにしました。いったいなぜこんな小さなことまで聖書にかかれてあるのでしょうか。これも旧約聖書のことばが成就するためでした。「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」

これは詩篇22:18にあるみことばですが、このみことばが成就するためだったのです。このような聖書の箇所を見ると、これは後で旧約聖書の預言と辻褄を合わせようしたのではないかと疑う人がいますが、そうではありません。だってこの兵士たちは敵でしょう。敵がわざわざ辻褄を合わせるようなことをするわけがありません。こういうことからも、聖書が真実であるということは明らかです。

 

Ⅲ.完了した(25-30)

 

最後に、25節から30節までをご覧ください。まず27節までをご覧ください。

「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」

 

イエスの十字架のそばには、イエスの母マリアとその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていました。たくさんのマリアです。彼女たちはイエスを愛して最後までつき従って来た人たちです。そして、イエスは母とそばに立っている愛する弟子を見て、母にこう言われました。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。」

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を見ると、イエスは十字架の上で七つのことばを発せられたことがわかりますが、これはその最初の言葉です。愛する弟子とは、この福音書を書いているヨハネのことですが、「ここに、あなたの息子がいる」と言われました。そして、ヨハネには、「ご覧なさい。あなたの母です。」と言われました。つまり、イエスはヨハネに、母マリアの今後の世話を任せたのです。不思議ですね。マルコの福音書を見ると、イエスには他に4人の兄弟と2人の妹たちがいたことがわかります。であれば、その弟や妹たちに母の世話を任せるのが普通かと思いますが、それを弟子のヨハネにゆだねたのです。それは、この時点ではまだ弟たちが信仰を持っていなかったからでしょう。それで神の家族である弟子のヨハネにゆだねたのです。十字架の上の極限の苦しみの中でも、イエスはこのような形で母に対する愛と思いやりを示されました。それは、この方に信頼する者は、決して失望させられることがないことを示すためでもあったのです。

 

28節から30節までをご覧ください。

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われました。この聖書の預言は、詩篇69:21のみことばです。そこには、「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」とあります。このみことばが成就するために、このように言われたのです。この渇きは肉体的な渇きとともに霊的な渇きを意味していました。イエスは私たちが罪のゆえに、私たちが本来受けなければならない地獄の苦しみを代わりに負ってくださったのです。黙示録20:14には、それは「火の池」とあります。イエスは私たちの罪の身代わりとなって火の池で渇いてくださいったのです。それは私たちが永遠に渇くことがないためです。

 

そして、30節にはイエスの最後の言葉が記されてあります。それは「完了した」です。ギリシャ語では「テテレスタイ」です。これは勝利の宣言でもあります。すべてが終わった!神の救いのご計画はすべて完了しました。この「テテレスタイ」という言葉は、当時、商人たちの間で使われていた言葉で、完済したことを表しました。相手に支払わなければならない借金をすべて支払った時、「テテレスタイ」と宣言したのです。完了した!だから、私たちも住宅ローンを完済した時には「テテレスタイ」と宣言することができます。

 

またこの言葉は、奴隷たちが自分に与えられた仕事が終わったとき、その主人に報告する時にも使われました。「終わりました」「テテレスタイ」イエスは、従順な神のしもべとして父なる神から与えられた罪の贖いという仕事を完全に成し遂げられました。罪のない子羊が私たちの罪のためになだめの供え物として神にささげられたことで、私たちの罪の負債のすべてが支払われたのです。あなたの罪の借金、私の罪の借金はあまりにも莫大でとても負い切れるものではありませんでしたが、神ご自身が私たちの代わりに支払ってくださいました。それが子羊となって十字架で死なれたイエス・キリストです。イエス・キリストによって罪の負債がすべて支払われたのです。完了しました。テテレスタイ!イエス様は、そのように言われると、頭を垂れて父なる神に霊をゆだねられました。

 

この福音書を書いたヨハネは、この十字架のシーンを目撃しました。彼は3年半の間イエスのそばにいて、イエスの心臓の音を聞きながら、イエスの権威ある教えを聞き、その奇しい御業を見ました。そして最後にこの十字架のシーンを目撃してこれを書いたのです。いったいなぜイエスは十字架につけられたのでしょうか。それは、私たちを罪から救うためでした。私たちは、このままでは自分の罪のために滅びても仕方ない者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちに大きな愛を示してくださいました。それが十字架です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ヨハネが言いたかったことはこのことだったのです。キリストは、私とあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。この十字架につけられたキリストを信じるなら、どんな人でも永遠のいのちが与えられます。

 

ジェフリー・ダーマー(Jeffrey Lionel Dahmer、1960~1994)は、「ミルウォーキーの怪物」と言われた男です。彼は17人の青少年を殺し、彼のアパートから11の遺体が発見されました。彼は被害者の体をバラバラに切断し、頭蓋骨を冷蔵庫に保管し、心臓を貯蔵し、肉片の一部を食べたことも自供しました。

法廷でのダーマーの写真を見ると、どれも凍り付いたような表情をして微動だにせず座っています。自責の念も見られず、後悔している様子も全く見られません。遺族にしてみればそんな彼を何回死刑にしても満足することはないでしょう。アメリカ中の人々はジェフリー・ダーマーの異常な殺人に騒然としましたが、それ以上に人々を驚かせることがその後に起こりました。

彼が獄中でイエス・キリストを救い主と信じたのです。彼は、最期は囚人仲間の1人に殺されますが、その何か月か前に信仰を持ち、そして「私は本当にひどいことをしてしまった。自分のしたことを本当に申し訳なく思っている。遺族の方に心から詫びたい」と謝罪しました。そして彼は洗礼を受け、聖書を読み、刑務所内のチャペルに通うようになったのです。

彼は「自分の罪は神の前に赦され、天国への希望が与えられ、今はとても平安です」と告白しました。ある人たちは困惑しました。「あんな殺人鬼を神は救われるはずがない」と公言する人もいました。しかし思い出してください。二千年前イエス・キリストが十字架につけられたとき、同じように十字架刑に処せられた強盗の男がイエスに向かって言ったことを。

「イエス様、あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)そのときイエスは何と言われましたか。イエスはその強盗に即座に言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

ジェフリー・ダーマーも同じことをしたのです。そして彼も同じ答えをイエス様からもらいました。それはジェフリー・ダーマーだけではありません。私たちも同じです。神は自分の罪を悔い改める者に、即座に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるのです。あなたは自分がジェフリー・ダーマーや十字架の強盗と比べればはるかに良い人間だと言われますか。しかし、神の眼には同じです。義人はいません。一人もいません。すべての人が罪を犯しました。そもそも神を信じないことが罪だと聖書は言っています。本来であれば、私たちも十字架で死ななければならない者です。しかし、そんな私たちのためにキリストが身代わりに死んでくださいました。あなたも例外ではありません。キリストはあなたのために死んでくださいました。キリストは十字架の上で「完成した」と宣言してくださいました。あとは、あなたがこの知らせを聞いて、信じて受け入れるだけでいいのです。だから、この知らせは「福音」、「良い知らせ」なのです。あなたが何か良いことをしたからではなく、何かそのために修行したからでもなく、この十字架であなたの身代わりとなって死んでくださったキリストを信じるだけで、あなたの罪も赦されるのです。キリストが十字架で死なれたのはそのためだったのです。ここに神の愛があります。どうぞこの愛を受け取ってください。すでにこの愛を受け取った方は、いろいろな困難や試練、失敗に遭うかもしれません。しかし、最後までこの愛にとどまり続けましょう。この試練もまた、あなたの信仰が成長するために神から与えられた恵みなのです。