出エジプト記26章

2020年5月27日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記26章

 

  出エジプト記26章から学びます。前回は、幕屋の最も重要な部分である神の箱と、宥めの蓋、臨在のパンを置く机、それと燭台の作り方について学びました。今回は幕屋本体の作り方についての規定を学びます。

 

Ⅰ.幕(1-14)

 

 まず、1節から14節までをご覧ください。まず1節から6節までを見ていきましょう。

「1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。2 幕の長さはそれぞれ二十八キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビトで、幕はみな同じ寸法とする。3 五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、もう五枚の幕も互いにつなぎ合わせる。4 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に、青いひもの輪を付ける。もう一つのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにする。5 その一枚の幕に五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の端にも五十個の輪を付け、その輪を互いに向かい合わせにする。6 金の留め金を五十個作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせ、こうして一つの幕屋にする。」

 

 幕屋は10枚の幕で造らなければなりませんでした。それはおのおの亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸を用い、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければなりませんでした。この4つの撚り糸の色にはそれぞれに意味がありました。亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ表していました。マルコ9:2-3には、「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」とあります。このキリストの聖さです。

 青色は天の色です。ヨハネ3:13には、「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」とあります。また、3:31には、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。すなわち、キリストは天から来られた方であるということです。

 紫は、王の色を表しています。つまり、キリストは王の王であられることを表していました。

そして、緋色ですが、これは血の色です。すなわち、私たちの罪を贖うために十字架で死なれたキリストを象徴していました。この4食は、祭司の式服にも使われました。神の幕屋ではいつもこの白、青、紫、緋色の4色の拠り糸が使用されました。

 

 そして、ここには「意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。」とあります。

このケルビムについては前にもふれましたが、神の御座を守る天使のことです。契約の箱の上の贖いのふたの上に二つの翼を広げて向かい合って座っていました。神はその間から彼らと会見すると言われました(25:22)が、そのケルビムを織り出されていたということは、そこが神の臨在と神の栄光に溢れていたことを示しています。これは、聖所と至聖所の天上部分になりました。これは、私たちが毎日、天を見上げて神の栄光を拝し、神に感謝と賛美を捧げつつ、キリストの臨在を仰ぎましょうという意味があります。コロサイ3:1-2に、「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」とあるとおりです。

 

2節と3節には、幕の長さは28キュビト、幅は4キュビトでした。1キュビトが約44cmですから、約12.32mになります。幅は4キュビトですから、約1.76mです。それを10枚つくり、その内の5枚を互いにつなぎ合わせ、もう5枚の幕も互いにつなぎ合わせるとあります。すなわち、2枚の大きな幕にしたのです。そのつなぎ合わせた幕の端に青いひもの輪を付けました(4)。この青色というのは、先程も申し上げたように天の色です。その青いひもの輪を付けたのは、この二つのものをつなぎ合わせるのは、人間の努力によっては不可能であること、そして、神によってのみ可能となることを示していました。

 

また、5,6節には、それぞれの幕に輪を50個付け、金の留め金50個でつなぎ合わせ、一つの幕にするとあります。これはどういうことでしょうか?「金の留め金」はキリストの神性と力を象徴していました。その留め金で50個の輪を結んだのです。つまり、この2枚の幕を結び付けるのは、キリストによってであるということです。では、この2枚の幕とは何を表していたのでしょうか。それは「ユダヤ人」と「異邦人」です。パウロは、神の御住まいとなる教会について、エペソ2:21~22でこのように言っています。

「21 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。22 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

どのようにして神の御住まいである教会が建て上げられていくのでしょうか。キリストにあってユダヤ人と異邦人という2つのものがともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。ですから、この2枚の幕は「ユダヤ人」と「異邦人」のことであり、この2つがキリストにあって、御霊によって結び付けられ、神の御住まいとなるのです。ここに記されてあることは、このことを表していたのです。それは私たちの力でできることではありません。キリストにあって、御霊によってのみ可能となるのです。

 

次に、7節から14節までをご覧ください。

「7 また、あなたは、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作らなければならない。その幕を十一枚作る。8 幕の長さはそれぞれ三十キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、その十一枚の幕は同じ寸法とする。9 そのうち五枚の幕を一つに、 もう六枚の幕も一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。10 つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも五十個の輪を付ける。11 青銅の留め金を五十個作って、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。12 天幕の幕の余って垂れる部分、すなわちその余りの半幕は幕屋のうしろに垂らす。13 そして、このうち一キュビトともう一方の一キュビトの、天幕の幕の長さで余る部分は、幕屋をおおうように、その天幕の両側、手前と奥側に垂らしておく。14  天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作る。」

 

7節には、「また、あなたは、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作らなければならない。その幕を十一枚作る。」とあります。幕屋の幕は四重になっていました。最初の幕は豪華絢爛な幕でした。その上にまた別の幕が掛けられました。それは、やぎの毛で作られたものでした。やぎの毛というと白というイメージがありますが、実際は黒です(雅歌1:5)。それは罪を象徴していました。幕屋をおおう内側の二枚の幕はワンセットでした。内側の幕はキリストの栄光を象徴していましたが、その上をおおっているやぎの黒い毛で作った天幕は「罪」を象徴し、罪のために犠牲となったキリストを表していたのです。

 

8節には、その幕のサイズが記されてあります。幕の長さはそれぞれ30キュビト、幕の幅はそれぞれ4キュビトです。長さは、内側の幕よりも2キュビト長くなっています。幅は4キュビトで同じです。それは、13節にあるように、残りの2キュビトで幕屋を覆うように垂らさなければならなかったからです。また、それを11枚作らなければなりませんでした。それは12節にあるように、幕屋の後ろにも垂らさなければならなかったからです。

 

9節をご覧ください。「そのうち五枚の幕を一つに、 もう六枚の幕も一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。」とあります。内側の幕よりも1枚多かったのは、六枚目の幕を天幕の前で折り重ねるためでした。幕屋の東側の「折り重ねられたやぎの毛の幕」は、外から人々がいつも見ることのできる唯一の部分でした。それは自分たちが絶えず罪人であることを認識させるためだったのです。

 

9節から11節までをご覧ください。その5枚の幕と6枚の幕も一つにつなぎ合わせなければなりませんでした。つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には50個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも50個の輪を付けました。しかし、それを留める留め金には「青銅の留め金」が用いられました。なぜ「青銅の留め金」だったのでしょうか。内側の幕には金の留め金が用いられましたが、ここでは青銅の留め金です。それは、神のさばきを象徴していたからです。黒の幕が青銅の留め金でつなぎ合わされていたのは、人の罪に対する神のさばきを表していたからです。イエス・キリストは、まさに私たちの罪のために神のさばきを受けられたということを表していたのです。

 

次に14節をご覧ください。ここには、「天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作る。」とあります。やぎの毛の幕の上にさらに覆いが2枚用いられました。やぎの毛で作られた幕の上には、赤くなめした雄羊の皮で作られた幕が、その上にはじゅごんの皮で作った覆いが掛けられました。どういうことでしょうか。

まず「赤くなめした雄羊の皮で作られた幕」ですが、なぜ「赤くなめした雄羊の皮」だったのでしょうか。それは、雄羊が身代わりの象徴だからです。イサクの身代わりとして、「全焼のいけにえ」のための雄羊が備えられたことで、イサクは死なずに生かされました(創世記22:13~14)。この出来事は、やがて主イエスがゴルゴタで私たちの身代わりとなって十字架にかかって死ぬことを予表していました。やぎの毛でできた黒い「天幕」はすべての罪の象徴ですから、それを覆うのは「赤くなめした雄羊の皮」でなければならなかったのです。

Ⅰペテロ1:18-19には、「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、キリストの尊い血こそ、私たちの罪を贖うことができるものです。私達は、この御子の内にあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによる事です(エペソ1:7)。

 

四枚目の覆いは、じゅごんの皮で作られたものです。この「じゅごん」というのは紅海に生息していた動物で、アザラシのことではないかと考えられています。ちなみに、七十人訳聖書は、「くすぶった青の皮」と訳しています。それは、風雨にさらされても丈夫な皮です。それは、どんなに強大な人生の嵐の中でも、私たちの霊魂を守る質実剛健な屋根であることを示しています。しかし、それはとりわけ人の目を引くような魅力のあるものではありませんでした。誰も入りたいとは思えないこの幕屋のみすぼらしい外観は、イザヤが預言した、この地を歩まれたキリストの姿そのものでした。

イザヤ53:2には「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。

しかし、見た目にはみすぼらしく、人々を引きつけるには何の魅力もないようなこの幕屋が、ひとたび中に入ったら、そこは神の栄光の輝きを放っていました。全く次元の違う輝きを放っていたのです。それは人の目には隠されています。イエスは大工の息子として来られましたが、そこには神の本質と栄光の輝きが隠されていたのです。

 

ですから、私たちはイエス・キリストを、目に見えるうわべだけで判断し評価してはなりません。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。

「このキリストの内に、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3) 

あなたは、このキリストの栄光を見たでしょうか。この内側の輝きを知る事のできた人は幸いです。見みすぼらしく見える幕屋も、十字架も、イエス様の生涯も、その中に入った人には、素晴らしい神のご計画・力・栄光・・・を見る事となるのです。

 

Ⅱ.立て板(15-30)

次に、15節から30節までをご覧ください。15節から25節までをお読みします。

「15 この幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。16 一枚の板は、長さ十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。17 板一枚ごとに、はめ込みのほぞを二つ作り、幕屋のすべての板にそのようにする。18 幕屋のために板を作る。南側に二十枚。19 その二十枚の板の下に銀の台座を四十個作る。一枚の板の下に、 その二つのほぞのために二個の台座があり、ほかの板の下にも、 二つのほぞのために二個の台座を作る。20 幕屋のもう一つの側、北側に板二十枚。21 銀の台座四十個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座。次の板の下にも二個の台座。22 幕屋のうしろ、西側に板六枚を作る。23 幕屋のうしろの両隅のために板二枚を作る。24 これらは底部では別々であるが、上部では、一つの環のところで一つに合わさるようにする。二枚とも、そのようにする。これらが両隅となる。25 板は八枚、その銀の台座は十六個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座、ほかの板の下にも二個ずつの台座となる。26 また、アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、27 幕屋のもう一方の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、西側の板のために横木を五本作る。28 板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。29 その板に金をかぶせ、横木を通す環を金で作る。横木にも金をかぶせる。30 こうして、あなたは、山で示された定めのとおりに幕屋を設営しなければならない。」

 

ここには幕屋のために使われた立て板についての規定が記されてあります。これは幕屋の骨組みとなる立板(立枠、壁板)のことです。

15節には、「この幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。」とあります。「アカシヤ」は、旧約聖書では主として材木として使用されている落葉高木で、鋭いとげを持った堅い木です。幕屋における材料の木材はすべてこのアカシヤ材で作られました。アカシヤは根が深いだけでなく、まっすぐに伸びないという性質を持っていたため、このアカシヤ材で、長さ4.5mの板をまっすぐに作るということは大変な作業であったはずです。

 

16節から25節までには、1枚の板のサイズと作り方が記されてあります。長さは10キュビト、板1枚の幅は1キュビト半です。板1枚ごとに、はめ込みのほぞを2つ作り、幕屋のすべての板にそのようにしました。「ほぞ」とは、木材などを接合するときに,一方の材にあけた穴にはめこむため、、他方の材の一端につくった突起のことです。板1枚ごとに、2つのほぞを作り、すべての板にそのようにしました。

また、板1枚につき、板の下に銀の台座を2個作りました。すなわち、南側だけで合計40個の台座を取り付けました。北側と合わせると80個になります。幕屋の後ろ、西側には6枚の板が付けられました。また、幕屋全体をさらに補強するためにその(幕屋の後ろ側)両隅に2枚の板が付けられました。これらは底部では別々ですが、上部では一つの環の所で一つに合わさるようにしました。ですから、西側の板は全部で8枚、銀の台座は16個になります。

 

26節から30節までをご覧ください。

「26 また、アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、27 幕屋のもう一方の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、西側の板のために横木を五本作る。28 板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。29 その板に金をかぶせ、横木を通す環を金で作る。横木にも金をかぶせる。30 こうして、あなたは、山で示された定めのとおりに幕屋を設営しなければならない。」

ここには、板を固定するための横木の説明が書かれてあります。この横木はアカシヤ材で作られました。すなわち、幕屋の一方の側の板のために5本、もう一方の側のために5本、幕屋のうしろ、西側の板のために5本です。板の中央にある中間の横木は、端から端まで通るようになっていました。ですから、それぞれの板は連結するためにはめ込みのほぞ(2個)と、5本の横木でつなげられていました。また、その板に金をかぶせ、横木を通す間を金で作り、横木にも金をかぶせませした。

 

この金でおおわれた幕屋の板が象徴していたことはどういうことだったのでしょうか。先に、金は神の栄光をわしていると述べました。また、アカシヤは、人としてのキリストを表していました。ここでも同じです。キリストは神の栄光の表れであり、人となってこの世に来てくださいました。しかもそれが銀の台座の上に置かれたのです。銀は贖いの象徴です。キリストが地面と板との間になって贖ってくださいました。それによって私たちの罪が赦されたのです。栄光の神であられたキリストが人となって来られたのは、人と一体となり、その血という代価によって永遠の贖いをなすためだったのです。ここに金の板が地の上に置かれた「銀の台座」を必要とする必然性があったのです。キリストは永遠の贖いをとおして、今も永遠に祭司としての務めを天において成しておられますのです。天と地をつないで永遠に一つとされる方はただ一人、イエス・キリストだけです。揺るがされることのない御国の民として、王なるイエスを、さらに深く知る者となれるように祈りましょう。

 

また、ここにはこの板がこの5本の横木によって支えられているとあります。これは神が御住まいになられる教会とはどのようなものであるかを表しています。すなわち、教会はからだ全体が一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力によって、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに立てられていくということです(エペソ4:16)。29節に、横木を通す環を金で作らなければならないとありますが、それはこのことを示していました。環とは永遠のしるしです。それは愛のしるしです。横木を通す環は愛という棒によって貫かれていなければ崩壊してしまいます。愛は結びの帯として完全なものです。キリストのからだである教会も、この愛によって結ばれていなければなりません。あなたは山で示された定めのとおりに、この幕屋を建てなければなりません。

 

Ⅲ.垂れ幕(31-37)

 

31節から35節までをご覧ください。ここには、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕についての説明が記されてあります。

「31 また、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。32 この垂れ幕を、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱に付ける。その鉤は金で、柱は四つの銀の台座の上に据えられる。33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。34 至聖所にあるあかしの箱の上には『宥めの蓋』を置く。35 垂れ幕の外側には机を置く。机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。その机は北側に置く。36 あなたは天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺?を施して垂れ幕を作らなければならない。37 その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。その鉤も金である。それらの柱のために青銅の台座を五つ鋳造する。」

 

聖所と至聖所を仕切る垂れ幕は、「青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。」とあります。この4つの色については1節で説明したとおりです。そうです、この垂れ幕は、イエス・キリストご自身を象徴していたのです。

ヘブル10:19-20には、「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」とあります。「聖所」とは何でしょうか。天国のことです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちがまことの聖所である天国に入ることができる道を備えてくださったのです。それが十字架です。

 

33節には、「その垂れ幕を留め金の下に掛け、」とあります。この垂れ幕は掛けられていました。どこに掛けられたのでしょうか。十字架です。十字架にかけられて、その肉体が裂かれることによって、だれでも大胆に至聖所に行くことができるようになったのです。このことをよく表されている出来事があります。マタイ27:50-51を開いてください。「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

これはイエスが十字架に掛けられて息を引き取られた時のことです。そのとき、神殿の幕が真っ二つに裂けました。その幕こそ、この「垂れ幕」です。もちろん、これはヘロデの神殿のことで、モーセの幕屋のものとはサイズが違います(高さが18m、幅が9m、厚さ4-25㎝)が、それが上から下まで真っ二つに裂けたのは、このことを表していたのです。下から上にではなく、上から下にです。それはあまりにも高かったので、下から上に裂くことはできませんでした。それは上から下に裂かれなければならなかったのです。すなわち、この幕を裂かれたのは人でなく、神であられたということです。神はそのひとり子をこの世に遣わし、この方を十字架にかけることによって、それまで神との間の仕切りとなっていた罪の一切を負わせたのです。その仕切りが破られたことによって、この方を信じる人はだれでも、いつでも、大胆に、まことの聖所に行くことができるようになったのです。

 

それまでは、この垂れ幕の向こう側、至聖所に行くことができたのは大祭司だけでした。しかも、年に一度だけ、贖いの日と呼ばれている日だけでした。その時、大祭司は装束に鈴をつけて入って行ったと言われています。鈴が鳴っていれば「あっ、まだ生きているな」ということがわかりますが、鈴の音が消えたら、それは神によって打たれて死んだということなので、人々は大祭司につけていたロープで大祭司を引きずり出したのです。

 

私たちは旧約聖書を見ると、この神の前に立つということがいかに困難なことであるかがわかります。そのためには多くのいけにえをささげなければなりませんでした。たくさんの儀式がありました。それでも、神はあまりにも聖い方なので誰も近づくこともできませんでした。しかし、キリストが私たちの代わりに罪の罰を受けて死んでくだったので、私たちを隔てていた仕切りが取り除かれました。それで私たちは、大胆に恵みの座に出ていくことができるようになったのです。ヘロデの神殿の幕が真っ二つに裂けたのは、そのことを表していたのです。

 

このことを考えると、キリストが十字架で死なれたことがいかに尊いものであったかがわかります。神ご自身が、人間が決して近寄ることができなくしていた幕を裂いてくださったのですから。近寄ればすぐに殺されてしまうような神との隔たりはもうなくなり、大胆に恵みの御座に近づけるようになったのです。


 今は、ただイエスの御名によって、大胆に神に近づくことができます。それだけでいいのです。けれども、人間は簡単なものを複雑にします。神の恵みをそのまま受け取るのではなく、自分で規則を作って神に近づこうとします。しかし、垂れ幕はすでに引き裂かれました。神への道は大きく開かれたのです。このことを忘れないでください。間違っても、自分で幕を破ろうとしないでください。イエスは、十字架の上でこう言われました。「完了した」。もうすべてのことは完了しました。この至聖所に入るために、あなたがしなければならないことは何もありません。ただ信じるだけでいいのです。そうすれば、救われます。

 

36節と37節を見て終わりたいと思います。「36 あなたは天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺繍を施して垂れ幕を作らなければならない。37 その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。その鉤も金である。それらの柱のために青銅の台座を五つ鋳造する。」

天幕の入口とは、聖所の入り口のことです。この入口、この門のために垂れ幕を作らなければなりませんでした。この門とは何でしょうか。それはイエス・キリストご自身のことです。この門を通って入る者は救われます。ここには、アカシヤ材で作られた5本の柱が立っており、それらには金をかぶせました。これも人としてのキリストと、神としてのキリストを表していました。また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造しなければなりませんでした。青銅は神の裁きを表していると述べました。また台座は神の恵みの象徴です。裁きと恵みが一緒に出てきます。それはキリストの裁きと恵みを表しています。キリストは神に裁かれたことによって、私たちに神の恵みをもたらしてくださいました。ですから、この方を通って入る者は救われるのです。だれでも、牧草を見付けます。私たちも、キリストを通して入り、キリストの恵みによってこの信仰が貫かれていきますように。