ヨシュア記2章

聖書箇所:ヨシュア記2章

 

 

きょうはヨシュア記2章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.遊女ラハブ(1-14)

 

 まず1節から7節までをご覧ください。「1 ヌンの子ヨシュアは、シティムから、ひそかに二人の者を偵察として遣わして言った。「さあ、あの地とエリコを見て来なさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。2 ある人がエリコの王に、「イスラエル人の数名の男たちが今夜、この地を探ろうとして入って来ました」と告げた。3 それで、エリコの王はラハブのところに人を遣わして言った。「おまえのところに来て、おまえの家に入った者たちを出せ。その者たちは、この地のすべてを探ろうとしてやって来たのだから。」4 ところが、彼女はその二人をかくまって言った。「そうです。その人たちは私のところに来ました。でも、どこから来たのか、私は知りません。5 暗くなって門が閉じられるころ、その人たちは出て行きました。どこへ行ったのか、私は知りません。急いで彼らを追ってごらんなさい。追いつけるかもしれません。」6 彼女は二人を屋上へ上がらせ、屋上に積んであった亜麻の茎の中におおい隠していた。7 追っ手たちはヨルダン川の道をたどり、渡し場までその人たちを追って行った。門は、彼らを追う追っ手たちが出て行くと、すぐに閉じられた。」

 

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)との主のみことばに励まされてヨシュアは、主が彼らに与えて所有させようとしている地を占領するために出て行きます。ヨシュアはまずシティムという所から二人の者を遣わしてエリコを偵察させました。シティムは、アベル・ハ・シティム(民数記33:49)の省略形です。それは、ヨルダン川の東約12kmの、モアブの草原にありました。そこは、イスラエル人がヨルダン川を越える前の、最後の宿営地でした(ヨシュア3:1)。ヨシュアは、ここから斥候を遣わしたのです。すると、彼らはラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まりました。彼らはなぜラハブの家に入ったのでしょうか。遊ぶためではありません。彼らがエリコの町に入ったということが発覚したため、追いかけられて必至に逃げた先がこのラハブの家だったのです。そこならば彼らが入って行っても怪しまれないと思ったのかもしれません。

 

すると、エリコの王に、「イスラエル人の数名の男たちが今夜、この地を探ろうとして入って来ました。」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやってこう言いました。「おまえのところに来て、おまえの家に入った者たちを出せ。その者たちは、この地のすべてを探ろうとしてやって来たのだから。」

 

すると、ラハブは何と言ったでしょうか。彼女は二人をかくまって、こう言いました。「そうです。その人たちは私のところに来ました。でも、どこから来たのか、私は知りません。5 暗くなって門が閉じられるころ、その人たちは出て行きました。どこへ行ったのか、私は知りません。急いで彼らを追ってごらんなさい。追いつけるかもしれません。」

これは嘘です。ラハブはなぜこのような嘘までついて彼らをかくまったのでしょうか。それは彼女がイスラエルの民について聞いていたからです。どんなことを聞いていたのでしょうか。8~13節までをご覧ください。

「8 二人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところへ上がり、9 彼らに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。10 あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。11 私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。12 今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、13 私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」

 

9節には、「私は知っています」とあります。また、10節にも、「私たちは聞いているからです」とあります。彼女が知っていたこと、聞いていたことはどんなことだったのでしょうか。それは、イスラエルの民がエジプトから出てきたとき、主が葦の海の水を涸らされたことや、エモリ人のふたりの王シホンとオグを打ち破ったこと、そしてパレスチナの地を次々と制覇してきたということです。彼女はそれらのことを聞いたとき、このイスラエルの民の背後には偉大な神が共におられ、行く手を切り拓いておられるのだと直感したのです。そして、このイスラエルの民の信じる神、主(ヤハウェ)こそまことの神であり、この神に信頼するなら間違いないと信じたのです。9~12節までには「主」という言葉が4回も使われています。これはヘブル語で「ヤハウェ」となっています。すなわち、彼女はここで「ヤハウェ」という主なる神の御名を呼ぶことによって、自分の信仰を告白していたのです。

 

それに対して二人の斥候は何と言いましたか。14節です。「二人は彼女に言った。「私たちはあなたがたに自分のいのちをかけて誓う。あなたがたが私たちのことをだれにも告げないなら、主が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。」

 

私たちは、ここに慰めを受けます。彼女は遊女という身分でありながらも、この信仰のゆえに救いを受けることができたのです。彼女が救われたのは彼女が善人だからではなく、このイスラエルの主、ヤハウェなる神を信じたからです。それは私たちも同じです。私たちもこの遊女ように神から遠く離れていた者であり、汚れた者にすぎませんが、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

 

Ⅱ.赤いひも(15-20)

 

次に、15~20節までをご覧ください。「15 そこで、ラハブは綱で窓から彼らをつり降ろした。彼女の家は城壁に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいた。16 彼女は二人に言った。「山地の方へ行ってください。追っ手たちがあなたがたに出くわすといけませんから。彼らが引き揚げるまで、三日間そこに身を隠していてください。その後で、あなたがたが行く道を行かれたらよいでしょう。」17 二人は彼女に言った。「もしこのようにあなたが行わないなら、あなたが私たちに誓わせた、あなたへのこの誓いから私たちは解かれます。18 見なさい、私たちはこの地に入って来ます。私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結び付けておきなさい。あなたの父、母、兄弟、そして、あなたの一族全員をあなたの家に集めておきなさい。19 あなたの家の戸口から外に出る者がいれば、その人の血はその人自身の頭上に降りかかり、私たちに罪はありません。しかし、あなたと一緒に家の中にいる者のだれにでも手が下されたなら、その人の血は私たちの頭上に降りかかります。20 だが、もしあなたが私たちの、このことをだれかに告げるなら、あなたが私たちに誓わせた、あなたへの誓いから私たちは解かれます。」」

 

そこで、ラハブは綱で窓から彼らをつり降ろしました。そして、山地の方へ行き、そこで彼らが引き揚げるまで、三日間そこに身を隠しているようにと言いました。二人はそのことばの通りに山地へと逃れますが、その時、彼らが誓ったしるしに、ラハブが彼らを綱でつり降ろした窓に赤いひもを結びつけておくようにと言いました。その家に彼女の父と母、兄弟、また、父の家族を全部、集めておかなければならないというのです。そうすれば、彼らがエリコを占領した時に、そのしるしを見て、その家だけは滅ぼさないためです。

 

かつて、これと似たような出来事がありました。そうです、過越の祭りです。出エジプト12:13には、イスラエルがエジプトから出て行くとき、神はエジプトの初子という初子をみな滅ぼすと言われました。ただ家の門柱とかもいに小羊の血が塗られた家は、神のさばきが過ぎ越していき災いから免れました。この赤いひもは、過越しの小羊の血と同じ、イエス・キリストの贖いの血潮の象徴だったのです。ラハブは遊女でしたが、そんな遊女でもこの小羊の血によって救われるのです。私たちを神のさばきから救うのは、この小羊の血を信じる信仰によるのです。私たちがどのようなものであるかは関係ありません。ただキリストを信じ、その血が塗られているかどうかが問われるのです。

 

ヘブル人への手紙11章31節に、このラハブの信仰について次のように記されてあります。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」すなわち、ラハブは信仰によって生きたのです。それゆえに彼女は、遊女でありながらも不従順な人たちといっしょに滅びることを免れることができました。神のさばきから免れる唯一の道は、赤いひもを結び付けること、すなわち、神の小羊であられるキリストの贖いを信じることなのです。

 

ここに、クリスチャンとはどのような者なのかがはっきりと描かれています。それは高潔な人であるとか、立派な人、教養のある人、美徳に満ちた人ではありません。クリスチャンというのは、ただ信仰によって神の恵みと救いを受けている人のことなのです。でもちょっと待ってください。新約聖書にはこのラハブのことについてもう一か所に引用されていて、そこには彼女が行いによって救われたとも言われています。ヤコブ2:25です。「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」どういうことでしょうか。

ここでは特に人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないということの例として引用されています。これはどういうことかというと、ちょうど今礼拝でもお話ししているように、彼女がその行いによって義と認められたということではなく、彼女は生きた本当の信仰があったので、自分の命の危険を冒してもイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出すことができたということです。そうした信仰には、こうした行いが伴うということです。本物の信仰にはこうした行いが伴うのです。

 

つまり、私たちは神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのです。そこには、その人がどんな人であるかとか、どんな仕事をしていたかとか、どんな性格であるかとか、どんなことをしたかといったことは全く関係ありません。ただ神の一方的な恵みであるイエス・キリストを救い主として信じて受け入れたかどうかが問われるのです。もしイエス様を信じるなら、たとえ「遊女」という不名誉な肩書であっても、たとえ異邦人として神から遠く離れていた人でも、だれでも救われ、神の祝福を受け継ぐ者とさせていただくことができるのです。そして、そのように救い主につながった本物の信仰には、そうした行いが伴ってくるのであって、その逆ではありません。

 

Ⅲ.ラハブの信仰(21-24)

 

さて、二人の斥候からそのような提示を受けてラハブは、どうしたでしょうか。21節から終わりまでをご覧ください。「21 彼女は「おことばどおりにしましょう」と言い、二人を送り出した。彼らは去り、彼女は窓に赤いひもを結んだ。22 彼らはそこを去って山地の方へ行き、追っ手たちが引き揚げるまで、三日そこにとどまった。追っ手たちは道中くまなく捜したが、彼らは見つからなかった。23 二人は帰途についた。山地から下り、川を渡り、ヌンの子ヨシュアのところに来て、その身に起こったことをことごとく彼に話した。24 彼らはヨシュアに言った。「主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。確かに、あの地の住民はみな、私たちのゆえに震えおののいています。」」

 

ラハブは、二人のことばに対して「おことばどおりにいたしましょう。」と答えました。これは簡単なことのようですが難しいことです。皆さんがそのように言われたらどのように答えたでしょうか。そんなことしていったい何になるんですか、もっと他にすることはないんですか、たとえば、地下に隠れ家を作ってそこに隠れるとか、ありったけのお金を出して命拾いするとか、そういうことならわかりますが、つり降ろした窓に赤いひもを結ぶなんてそんな簡単なことで大丈夫なんですかと言いたくなります。でも救いは単純です。救いはただ神が仰せになられたことに対して、「おことばどおりにします」と応答することなのです。よく聖書を学んでおられる方が「私はまだバプテスマを受けられません」というようなことを言われます。「どうしてですか」と聞くと、「まだ聖書を全部学んでいないからです、せめて新約聖書の半分くらいは読まないとだめでしょう」と言うのです。確かに聖書を学ぶことは大切ですが、全部学ばないと救われないということではありません。聖書が示している救いの御業、キリストの十字架と復活が私のためであり、イエスこそ私の救い主であり、人生の主として信じて受け入れるなら、救われるのです。

 

ラハブのように応答した人が、聖書の他の箇所にも見られます。イエスの母マリヤです。彼女も主の使いから、「あなたはみごもって男の子を産みます」と告げられたとき、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えますが、それが神の聖霊によるとわかると、「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」と言って、神のみことばを受け入れました。神の救いは自分の頭では理解できないことでも、聖書が神のことばであると信じ、聖書が言われることをそのまま受け入れることから始まります。そのような人は神から大いなる祝福を受けるのです。

それは、このマリヤもそうですが、ラハブもイエス・キリストの系図の中に記されていることからもわかります。マタイの福音書1章の救い主の系図を見ると、彼女の名が連なっていることがわかります(マタイ1:5)。異邦人でありながら、しかも遊女という肩書きであるにもかかわらず、神の恵みに対して信仰をもって応答したことによって、彼女は救い主の系図の中に組み込まれるまでに祝福されたのです。私たちも神の恵みを受けるにはあまりにも汚れた者ですが、主の恵みに信頼して、神の救いイエス・キリストを信じて受け入れ、この方と深く結びつけられることによって、神の恵みを受ける者とさせていただきましょう。