あなたの道を主にゆだねよ エレミヤ書10章17~25節


聖書箇所:エレミヤ書10章17~25節(エレミヤ書講解説教23回目)
タイトル:「あなたの道を主にゆだねよ」

きょうは、エレミヤ書10章後半から、「あなたの道を主にゆだねよ」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは23節から取りました。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」
 ここには、人にはその歩む道を確かにする力はないと言われています。ではどこにその力があるのでしょうか。勿論、それは主なる神様です。ここにはそれが省略されていますが、言わんとしていることは明らかです。箴言にはこのことがもっとはっきりと言われています。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)
 であれば、私たちは自分の道をすべて主にゆだねなければなりません。そうすれば、主が成し遂げてくださいます。それは必ずしも平坦な道ではないかもしれません。しかし、それが主が定めておられる道ならば、主が確かなものにしてくださいます。
 きょうは、そのことを悟れなかったユダと、それを悟った預言者エレミヤの姿を対比しながらお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの嘆き(17-21)

 

まず17~21節までをご覧ください。17節と18節をお読みします。「17 包囲されている女よ、あなたの荷物を地から取り集めよ。18 まことに主はこう言われる。「見よ。わたしはこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめる。彼らが思い知るためだ。」」

 

「包囲されている女」とは、エルサレムの住民のことです。そのエルサレムの住民に対して主は、「あなたの荷物を地から取り集めよ」と命じています。なぜでしょうか。なぜなら、これから旅に出ることになるからです。それは温泉旅行のような優雅な旅ではなく、バビロンまで捕虜として歩いていかなければならないという過酷な長旅です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされてしまうからです。でも彼らは信じられませんでした。まさかそんなはずはないと。今はアッシリヤ帝国がオリエント世界を支配しているではないか。どうやってバビロンなどという新興国がアッシリヤを倒して、南ユダを滅ぼすことができるというのか。そんなことあり得ない。しかも、ここには主の宮がある。契約の箱もあれば、主の律法もある。大祭司もいれば、レビ人たちもいる。そんな我々を、どうやって滅ぼすことができるというのか。そんなことは絶対にあり得ないと、高をくくっていたのです。しかしそれは彼らの単なる思い込みにすぎませんでした。18節にあるように、主はこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめます。「今度こそ」というのは、今までもそうだったが、ということです。今までもユダとエルサレムは敵の侵略を受け、荒らされ、科料を取り立てられることがありましたが、今度はそれだけではないということです。今度は、放り出されて苦しむことになります。これは勿論、捕囚の民としてバビロンに連行されることを示しています。力ずくで町から追い出され、捕虜として連れ去られることになるのです。

 

それを知ったエレミヤはどうなったでしょうか。19~20節をご覧ください。「ああ、私は悲しい。この傷のために。この打ち傷は癒やしがたい。しかし、私は言った。「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」20 私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ、私の子らも私から去って、もういない。もう私の天幕を張る者はなく、その幕を広げる者もいない。」

エレミヤは、深い悲しみに打ちひしがれました。それは天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られ、神の民が捕囚の民として連れて行かれることになるからです。天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られるというのは、約束の地が踏みにじられるという意味です。エレミヤは、エルサレムがそのような状態になることを聞いて、嘆いているのです。それは癒しがたい傷だと。

 

ここで注目していただきたいのは、エレミヤがそれを自分のこととして受け止めていることです。たとえば、19節で彼は、「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」と言っています。また20節でも「私の天幕は荒らされ」とか「私の子らも私から去って、もういない」と言っています。彼らの天幕が荒らされるとか、彼らの子らが彼らから去ってというのではなく、自分の天幕が荒らされ、自分の天幕の綱が断ち切られ、自分の子らが取り去られるといっているのです。エレミヤは、ユダの滅びを完全に自分のものとして受け止めていました。

いったいなぜ彼はここまで彼らと一体となっていたのでしょうか。それは前にもお話したように、同胞であるユダの民をこよなく愛していたからです。自分はここから離れたいと思っても、決して離れることができない愛の絆で結ばれていたのです。

 

そしてそれは、神の私たちに対する愛と同じです。神は罪に苦しむ私たちを見て、癒しがたい傷をご覧になり、こう言ってくださいます。「まことに、これこそが私が負わなければならない病だ。」と。そしてその通りに主は、私たちの罪の病を負ってくださいました。それが私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちが負わなければならない病をその身に負ってくださいました。それが十字架です。そのことが、キリストが生まれる700年も前に、預言者イザヤによって預言されていました。イザヤ書53章は、メシヤ預言として、来るべきメシヤがどのような方なのかを、イザヤが預言した箇所ですが、その中に次のようにあります。

「4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4-6)

私たちの主イエスは、悲しみの人で、私たちの病を負ってくださいました。その打ち傷によって私たちは癒されたのです。本来、私たちが受けるべき罪の刑罰を、キリストが代わりに負ってくださったので、その打ち傷によって私たちは癒されたのです。感動ですね。

 

クリスチャンのシンガーソングライターに岩渕まことさんという方がおられますが、岩渕さんがクリスチャンとなって7年目に、愛する8歳の娘さんを天に送られました。その経験を通して、父なる神さまの苦しみを改めて感じられたそうです。わが子イエスを十字架につける神さまの苦しみは、どれだけ深かったことでしょう。しかしその十字架は、私たち人間に対する神さまの愛の証しでした。それを歌った詩があります。それが「父の涙」という詩です。

心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎて行く
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

父が静かにみつめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よかれらを赦してほしいと
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛
(作詞・作曲 岩渕まこと、アルバム『HEAVENLY』より)

 

恐らく、岩渕さんは娘さんが病気になって苦しんでいるのを見て、できれば代わってやりたいと思ったことでしょう。代わりに自分が病気になれたらと。願っても叶わない歯がゆさを覚えたに違いありません。でも神はそれをしてくださいました。死にかけている子たちのために、死にかけている神の子たちをあわれんで、代わりに病を負ってくださったのです。あなたを生かすために。すばらしい神さまです。

 

プロのナレーターに中村啓子さんという方がおられます。「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません・・・」とか、「留守番電話サービスセンターへおつなぎします。」など、携帯電話を利用していると、毎日耳にする声ですが、それが中村啓子さんの声です。その中村さんから、一年ほど前にメールをいただきました。中村さんは、46歳でイエス様を信じて、洗礼を受けると、これまでの経験を生かして主に仕えたいと願うようになり、聖書朗読のネット配信を始めたのです。新約を全て読み終え、旧約を朗読しておられましたが、その朗読のために聖書の意味を理解するために、私がホームページにアップしているつたないメッセージを参考に学ばれたそうです。イザヤ書を朗読しておられました。そして、兼ねてから、53章をアップ出来た時に感謝を伝えたいと思っておられたそうですが、その時が訪れたのでとメールをくださったのです。それは「しあわせのありか」という番組に録音されていますが、聞いていて鳥肌が立ったというか、心が震えました。イエス・キリストの十字架の御苦しみと圧倒的な神の恵みが心に迫ってきました。

 

これこそわたしが負わなければならない病だと、キリストがその病を負ってくださいました。その打ち傷のゆえに、私たちは癒されたのです。何という恵みでしょうか。これが神の愛です。神さまはあなたを愛し、あなたのために涙を流して祈っておられるのです。そして、そのために愛するひとり子を与えてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ほんとうに偉大な神の愛です。この神の愛に、あなたはどのように応答されますか。

 

21節をご覧ください。ここには「牧者たちは愚かで、主を求めなかった。それゆえ、彼らは栄えず、彼らが飼うものはみな散らされる。」とあります。

いったいなぜこんなことになってしまったのでしょうか。それはユダの牧者たちが愚かで、主を求めなかったからです。この「牧者たち」とは、南ユダの政治的、軍事的、霊的指導者たちのことです。彼らは愚かにも主を求めませんでした。それゆえ、彼らは栄えず、みな散らされることになってしまったのです。

 

どのリーダーに従うかで、皆さんの運命が決まります。ですから、リーダーの責任は重いのです。特に牧師の責任は重いと言えるでしょう。なぜなら、牧者たちは、羊の群れのたましいの責任を負っているからです。バビロン捕囚の道連れにされてしまうかもしれません。ですから多くの人が教師になってはならないと、ヤコブ3:1にあるのです。格別、厳しいさばきを受けることになるからです。しかし、それは同時にすばらしい働きを求めることでもあるともⅠテモテ3:1にあります。ですから、霊的指導者、たましいの牧者は、その責任の重さをしっかりと理解し、主を求め、主の御声を正しく受け止めなければなりません。

 

Ⅱ.エレミヤの悟り(22-23)

 

次に22~23節をご覧ください。「22 声がする。見よ、一つの知らせが届いた。大いなるざわめきが北の地から来る。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするために。23 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

 

ここでエレミヤは、一つの声を聞きます。第三版では「うわさ」と訳しています。どんな声を聞くのでしょうか。それは、大いなるざわめきが北から来るという声です。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするためにです。

それに対してエレミヤは何と言っていますか。23節、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

どういうことでしょうか。エレミヤは、ユダの滅びを前にして、自分の道を主にゆだねているのです。エレミヤは知っていました。人には、歩むべき道を決定することも、その歩みを確かなものにする力もないということを。その人の歩みを確かなものにするのはたせれでしょうか。そうです、主です。主によってのみ、人の道は確かなものとなるのです。

箴言16:9にはこうあります。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(新改訳改訂第3版)

また詩篇37:23~24にはこうあります。「23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

すばらしい約束です。人は、神によって定められた道を歩むとき、神がその人を支えてくださいます。たとえ倒れることがあってもまっさかさまに倒れることはありません。主が支えておられるからです。だから皆さん安心してください。

 

あなたはどのようにはどうでしょうか。主がすべてを支配していると認め、主にすべてをゆだねておられるでしょうか。それとも、まだ自分の悟りに頼っているでしょうか。詩篇37:5に「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とあります。また、箴言3:5-6には「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)とあります。

 

ある人が、主に示された進路に進もうとした時に、未信者の親族たちから猛反対されました。代わるがわる説得され、何やかやと言われる。しかしこの事は主の御心だと思え、祈りに祈っていました。しかしなかなか道が開かれず、なおも祈り続けていました。 

でも周囲からの反対は変わらず、こんなに祈っているのに、どうして道が開かれないのか。しかし更に祈り続けました。するとその祈りの中で、心が探られ内側が照らされました。確かにそれは主の御心ではあるのだが、周囲の余りの反対に、反発心が起きて、心の中では反抗的になり、意地になっている自分に気づかされたのです。

心が頑なになっていて、何としてでも、自分の意志と力で突き進もうとしていました。主の栄光などではなく、自我そのものであったのです。心から悔い改めて、今一度主に自分自身を明け渡しました。真に主の御心が成りますようにと祈ると、心に平安が与えられました。

そして、すべてを主に委ねて祈っていると、時満ちて、門が開かれたのです。時と共に周囲も認めてくれて、御心の道へと進む事ができました。とにかく祈りに持って行くなら、間違った動機も、態度も教えられます。そして祈りも軌道修正されながら、御心へと導かれていくのです。

 

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主を認め、主に拠り頼む人は、何と幸いでしょうか。主がその人の道をまっすぐにしてくださいます。自分の悟りではなく、主に拠り頼みましょう。主によって定められている道を、歩もうではありませんか。

 

Ⅲ.エレミヤの祈り(24-25)

 

最後に24~25節をご覧ください。「24主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。25 あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。」

 

これはエレミヤの祈りです。人は神の恵みと助けがなければ一歩も動けないことを悟ったエレミヤは、民のために泣きながら祈ります。御怒りによるのではなく、ただ、公正をもって懲らしめてくださいと。これはどういうことかというと、神のさばきがイスラエルの民が滅亡するような厳しいさばきではなく、立ち上がることができる程度の懲らしめであるようにということです。また、25節には、イスラエルの民を攻撃する敵、これはバビロンのことですが、そのバビロンの上に神の憤りを注いでくださいと祈っています。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。これはどういうことかというと、バビロンはやりすぎたということです。彼らはユダの民を懲らしめるための単なる神の道具にすぎなかったので、ヤコブを食らって滅ぼそうとしました。それはやりすぎだと、エレミヤは訴えているのです。だから彼らの上に神さまの憤りを注いで、彼らを滅ぼしてくださいと祈っているのです。それはひいてはユダの救いにつながることになりますから。直接的には、ユダの救いのために祈っていませんが、敵の滅びを祈ることで、間接的にというか、遠回しにユダの救いを祈っているのです。

 

それにしても不思議です。というのは、私たちは先に7:16を見ましたが、そこには「この民のために祈ってはならない。」とあったからです。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。とりなしてはならないとありました。それなのにエレミヤはここで民のためにとりなしています。これはどういうことでしょうか。

しかし、よく見ると、エレミヤは民のためにではなく、自分ために祈っていることがわかります。たとえば、24節には「主よ、私を懲らしめないでください。」と祈っています。「そうでなければ、私は無に帰してしまいます」と。これはどういうことかというと、ユダの民の代表としての「私」です。ですから直接的にはユダの民のためには祈っていませんが、その民の代表としての「私」のために祈ることによって、結局のところ、民のために祈っているわけです。ここにエレミヤの知恵があります。そんなの屁理屈だという人もおられるかもしれませんが、神から与えられたエレミヤの知恵なのです。なぜなら、神ご自身もそのように願っておられたからです。神さまは、ご自身の民を冷たく突き放す方ではありません。事実、神は御子イエス・キリストを与えてくださいました。それほど愛しておられるのです。結局、神さまはあなたのために祈っておられるのです。あなたを助けたいのです。あなたを滅びから救いたのです。私たちの神さまはそういうお方なのです。ここまで願ってくださるのが私たちの神さまなのです。ここまで考えてくださるのが私たちの神さまなのです。すごいですね。ほんとうに恵みの神です。

 

これほどまでの愛のメッセージを聞かされて、ユダの民はさぞ感動したのではないかと思いますが、どうだったでしょうか。26:8~11をご覧ください。ここに、彼らの反応がはっきり書かれてあります。開いてみてみましょう。「8 主が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、主の名によって預言したのか。」そこで、民全体は主の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」
 主が語れと命じられたことをエレミヤがすべて語り終えると、何と祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえ、死刑を宣告するのです。驚きですね。でも神さまが特別にエレミヤを守ってくださったので、死から逃れることができましたが。これほどすばらしいメッセージを聞いてもそれを拒絶されるだけでなく、迫害されることもあるのです。神さまを信じて、神さまの道に歩もうとする時、それを快く思ってくれない人がいるわけです。もしかすると、それはあなたのごく親しい人かもしれません。あなたの夫とか、妻とか、息子、娘かもしれない。必ずしも、みながこの救いのメッセージを受け入れるとは限らないのです。

 

9月10日、11日と、保守バプテスト同盟のチームが、福島県西会津町の教会未設置町に宣教に行った時の報告書を見ました。そこは、かつてイギリス人の婦人宣教師のパルマー先生が、47歳で召を受け、会津若松で10年間仕えたのち、移り住んだ町です。80歳で帰国するまで22年間一度も帰国せずに開拓伝道に取り組みました。私も毎年夏、近くの金山町にある沼沢湖に家族でキャンプに行ったとき、日曜日の礼拝に何度か行ったことがありますが、そこには1人の兄弟とまだ洗礼を受けていない2~3名の婦人たちが集まっていました。22年間の伝道で救われた人がたった1人です。80歳を過ぎてパルマー先生は帰国しなければならなくなったとき、恵泉キリスト教会の会津チャペルがその働きを引き継ぎました。

バルマー先生によって22年間の種まきがなされてきたこともあって、刈り入れるばかりになっていると信じて、9月10日と11日の2日間、21名の兄姉が数名のチームに分かれて訪問伝道を繰り広げたのです。

その結果、あるチームは40軒以上訪問して、ほぼ全て断られました。結局、167軒を訪問して、返事なしが60件、拒否57件、ただの受け入れ10件、祈りの受け入れ8件、キリストを受け入れると表明したのはたった1人だったそうです。たった1人でも、そこにキリストの福音を聞き、受け入れるという人がいたことはすばらしいことですが、これがこの世の現実なのです。

 

こんなにすばらしい救いなのに、こんなにすばらしい神さまなのに、受け入れるのはごくわずかなのです。それは決して平坦な道のりではありません。でもそれがどんなに茨の道でも、主はエレミヤにこう約束してくださいました。「18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」」(エレミヤ1:18-19)

どんなに人々があなたを拒み、あなたを憎み、あなたを弾圧することがあっても、がっかりしないでください。主はあなたとともにいて、あなたを助け出してくださいますから。あなたが一人ぼっちになっても、主はあなたを見捨てることはなさいません。あなたとともにいて、あなたを守ってくださいます。あなたを助け、あなたを強くしてくださるのです。あなたに求められているのは、彼らを恐れないで、主が語れと言われたことを語ることです。あなたは、神によって定められている道を歩まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。人の道はその人によるのではなく、その歩みを確かにするのは、主ご自身であられるからです。その主の道を歩もうではありませんか。主があなたに求めておられるのは、主を求め、主の道に歩むことです。どれだけ立派なことをしたかということではなく、あなたが主に忠実であったかどうか、誠実であり続けたかどうが問われているのです。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。この約束を握りしめながら、すべてを主にゆだね、主が示される道を歩もうではありませんか。